表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
エルデナの祈り  作者: 春乃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

30/41

第30話 新たな出会いと兆し

秋の気配が、ゆるやかに学園を包み始めていた。


窓から差し込む午後の光はやわらぎ、夏ほどの鋭さはない。ページをめくる音だけが静かに重なる図書館は、どこか時間の流れさえ遅く感じられた。


その日は選択学科がなかったため、図書館で薬草学の復習をしていた。


アメリアは、研究室の人たちと、野草園に行くと言っていた。

(野草園か……一度行ってみたいな)


明日から週末の休みに入るからか、利用する人も少なく、いつもよりさらに静かな空間になっていた。


伯爵家には、ルーカス兄様と帰る予定だ。

剣術・騎士科の授業が終わるのを、ここで待つことに決めた。


ノートには整った文字が並び、特徴や効能を書き加えていく。


――コンフリー。外傷に効き、組織の再生を促す。


書き終えたところで、ふと人の気配を感じた。


「……いないのね」


落ち着いた声だった。


顔を上げると、そこに立っていたのは二年生の公爵令嬢、セレーネ・オルディアス様。

たしか、ラファエル様の従姉で、第二王子殿下の婚約者最有力候補と聞いている。

(候補といいながら、周囲はもう決まったように接しているのよね)


艶のある深緑の髪を背に流し、姿勢は真っ直ぐで隙がない。きりりとした面差しのため一見すると近寄りがたいが、その眼差しには不思議と冷たさがなかった。


周囲を静かに見渡していたセレーネ様と、ふいに目が合う。


わずかな沈黙のあと、彼女の瞳に理解の色が宿った。


「あなた……ラファエルと魔術の試験で同じ組だった方ね」


「は、はい。エルリーナ・イグナリエルです」


立ち上がり名乗ると、セレーネ様は小さく頷いた。


何かを尋ねかけるように唇がわずかに動いたが、その言葉は結局こぼれない。代わりに視線が机の上のノートへと落ちた。


「少し、拝見してもよろしいかしら」


穏やかな声音だった。けれど自然と背筋が伸びるような、不思議な重みがある。


ノートを差し出すと、セレーネ様は一行だけ目を走らせ、指先でそっと文字を示した。


「ここだけ訂正しておくと安心よ。“コンフリー”は通称なの。正式名称は“シンフィトゥム”。試験では正式名で書くよう求められることが多いの」


「……ありがとうございます。気づきませんでした」


「努力が伝わるまとめ方をしているもの。とても丁寧だわ。少し整えれば、さらに良くなると思う」


評価というより、観察に近い言葉だった。だからこそ素直に胸に落ちる。


セレーネ様は顔を上げると、近くにいた司書へ視線を向けた。


「第三資料室にある薬草学の原典集をお願いできる? 緑の背表紙のものよ」


「承知いたしました、セレーネ様」


司書は一礼し、奥へと向かう。


ほどなくして運ばれてきた分厚い本を、セレーネ様は慣れた手つきで開いた。

目的の頁を探し当てるまで、ほとんど迷いがない。


「これ、よかったら目を通してみて。記述が正確で、図版も信頼できるの」

そう言って、椅子を示される。


促されるまま腰を下ろし、目の前に広がるページへ視線を落とした。

そこには、薬草の細密な挿絵と詳細な解説が載っている。葉脈の走り方までわかるほど精緻だ。


「……すごい」


思わずこぼれた声に、セレーネ様の口元がわずかに緩んだ。


「ええ。観察がとても正確でしょう。薬草学は、とかく軽視されがちだけれど……本当はとても奥深い学問なの」


指先でそっと挿絵をなぞる。その仕草には、慣れと親しみが滲んでいた。


「私、この分野が好きなのよ。派手さはないけれど、知れば知るほど世界が広がっていくでしょう?」


少しだけ楽しげな響きが混じる。


「良い本は、良い教師になってくれるものよ」


そう言って隣に腰を下ろし、名前や見た目が似ている薬草をいくつか教えてくれた。


ふと、彼女は視線を巡らせた。来館したときと同じように、誰かを探す気配がある。

けれど目的の人物は現れなかったらしい。


「来ないのなら、それもまた答えね」

また、小さく独り言のように呟いた。


「それでは、私はもう行くわね」

数歩進みかけて、思い出したように振り返る。


「その本、閲覧記録をつけておくといいわ。後で必要になったとき、探しやすいもの」


そう言って、もう一度司書を呼び、手順を教えるように頼んでくれた。


「はい。ありがとうございます」


「勉学に励む方は、嫌いではないの。無理のない範囲で、続けてちょうだい」


その言葉を最後に、セレーネ様は音も立てず図書館を後にした。

去ったあとも、不思議と場の空気が整ったままに感じられる。


改めて原典集へ目を落とした。

先ほどまでよりも、文字が深く胸に入ってくる。


窓の外では、秋の風が枝を揺らしていた。


静かな午後だった。

けれど――それが穏やかな時間のままで終わらないことを、まだ誰も知らない。


♦︎♦︎♦︎


原典集を閉じたとき、図書館の大時計が静かに時を告げた。

そろそろ剣術・騎士科の授業も終わっている頃のはずだ。


私は窓の外へ目を向ける。

秋の陽は傾き始め、校舎の影が中庭へ長く伸びていた。


貸出の手続きを済ませて外へ出ると、門のそばにはすでに伯爵家の馬車が停まっている。

ミリアとエリオットの姿も見えた。


「エルリーナお嬢様」


気づいたミリアが、ほっとしたように一礼する。


「ルーカス様は、まだお見えではないのです。授業は終わっていると聞いているのですが……」


「校舎内には入れないものね」


従者と侍女は、許可なく学園の建物へ入ることができない。


「私、様子を見てくるわ。すぐ戻ります」


「お嬢様、お気をつけて」


校舎へ足を向けると、帰宅する生徒たちの姿がちらほらと見える。

だが進むにつれ、どこか落ち着かないざわめきが風に乗って届いてきた。

話し声が重なり、廊下の空気がわずかに張り詰めている。


人が集まっているのは――生徒会室の前だった。


普段は静粛が保たれている場所だ。

こんなふうに廊下が騒がしくなるのは珍しい。

何があったのだろう。


戸惑いながら視線を巡らせた、そのとき、見慣れた後ろ姿が目に入った。


「……ルーカス兄様?」


名を呼ぶより早く、ルーカス兄様が振り向く。


「エルリーナ? どうしてここに……あ、迎えがきたのか……」


驚いたように目を見開き、それからすぐに周囲を気にする視線になる。


「馬車で待っていたのだけれど、なかなかいらっしゃらないから……」


そこまで言いかけて、ようやく場の様子に気がついた。


右側にいるのはセレーネ様、傍にはラファエル様もいる。

その表情は穏やかだが、どこか警戒を含んでいた。


左側には、第二王子殿下のアレクシス・ディア=アウレリア様と、その隣には見覚えのない女子生徒がふたり。

ひとりは栗色のくせ毛、もうひとりは黒髪のストレート。


留学生だろうか。制服の形は同じはずなのに、どこか着こなしが違って見える。


その瞬間――胸の奥が、わずかにざわめいた。

視線を向けられたわけでもないのに、なぜか意識が引き寄せられる。


ふと、セラの言葉が脳裏をかすめた。

二年生の中にいる――そして、ふたりで行動している、と。


胸の奥のざわめきが、わずかに強くなる。

黒髪の女子生徒が気になる。


――気のせい……だろうか。


けれど、理由のない疑念を抱くべきではないと、小さく息を吐き、冷静を装う。


二組の間に立つようにしてルーカス兄様と、上級生らしい男子生徒が状況を見守っている。


さらに視線を奥へ送ると、ラファエル様の後ろにルイス様の姿もあった。

無言のまま、どこか落ち着かない表情で成り行きを見つめている。


そのとき、セレーネ様がこちらに気づいた。

「あら、あなたは……エルリーナさん?」

ラファエル様も続いて視線を向ける。


図書館での出来事が脳裏をよぎり、私は迷わず一歩進み出た。


「セレーネ様」


全員の視線が集まる中、静かに礼を取る。


「先ほどは図書館で、薬草学について教えていただきありがとうございました」


わずかに空気が動いた。


第二王子殿下が、興味を示したように眉を上げる。


「図書館? それはいつのことだ」


向けられた視線の重さに息を整え、さらに深く正確な礼を取った。


「はい。およそ一時間ほど前でございます」


沈黙が落ちる。


その一瞬で、何かの均衡が変わったのを感じた。


見知らぬ栗色の髪の女生徒の表情が、かすかに揺らぐ。


「……わ、私は……遠目にお見かけした気がして……セレーネ様だと思ったのです。でも……もしかすると、見間違いだったのかもしれませんわ」


言葉はしだいに小さくなっていく。視線が一瞬だけセレーネ様へ向けられ、すぐに逸らされた。


第二王子殿下はしばらく女生徒を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。


「見間違いで済む話かどうかは別として、名が挙がった以上、このままにしておくわけにはいかない。生徒会で事実関係を確認しよう。双方とも、後ほど時間を取ってほしい」


「承知いたしました」


答えたセレーネ様の声は、驚くほど落ち着いていた。


張り詰めていた空気が、ようやく緩み始める。

大きな衝突には至らず、騒動はひとまず収まったように見えた。

けれど何かが完全に解決したわけではないことを、空気が物語っていた。


事情を知らないのは、私だけだ。


ルーカス兄様と目が合う。安心させるように、わずかに微笑んでくれた。


(……ここで詳しく尋ねるのは、違うわね)


ただでさえ張りつめている場だ。

無遠慮な問いは、余計な波を立ててしまう。


(あとで、兄様に伺いましょう)


そう心に決め、静かに口を閉ざした。

廊下の窓から差し込む秋の光が長い影を落としている。

それはまるで、この出来事の余波のように、静かにその場に伸びていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ