第30話 新たな出会いと兆し
秋の気配が、ゆるやかに学園を包み始めていた。
窓から差し込む午後の光はやわらぎ、夏ほどの鋭さはない。ページをめくる音だけが静かに重なる図書館は、どこか時間の流れさえ遅く感じられた。
その日は選択学科がなかったため、図書館で薬草学の復習をしていた。
アメリアは、研究室の人たちと、野草園に行くと言っていた。
(野草園か……一度行ってみたいな)
明日から週末の休みに入るからか、利用する人も少なく、いつもよりさらに静かな空間になっていた。
伯爵家には、ルーカス兄様と帰る予定だ。
剣術・騎士科の授業が終わるのを、ここで待つことに決めた。
ノートには整った文字が並び、特徴や効能を書き加えていく。
――コンフリー。外傷に効き、組織の再生を促す。
書き終えたところで、ふと人の気配を感じた。
「……いないのね」
落ち着いた声だった。
顔を上げると、そこに立っていたのは二年生の公爵令嬢、セレーネ・オルディアス様。
たしか、ラファエル様の従姉で、第二王子殿下の婚約者最有力候補と聞いている。
(候補といいながら、周囲はもう決まったように接しているのよね)
艶のある深緑の髪を背に流し、姿勢は真っ直ぐで隙がない。きりりとした面差しのため一見すると近寄りがたいが、その眼差しには不思議と冷たさがなかった。
周囲を静かに見渡していたセレーネ様と、ふいに目が合う。
わずかな沈黙のあと、彼女の瞳に理解の色が宿った。
「あなた……ラファエルと魔術の試験で同じ組だった方ね」
「は、はい。エルリーナ・イグナリエルです」
立ち上がり名乗ると、セレーネ様は小さく頷いた。
何かを尋ねかけるように唇がわずかに動いたが、その言葉は結局こぼれない。代わりに視線が机の上のノートへと落ちた。
「少し、拝見してもよろしいかしら」
穏やかな声音だった。けれど自然と背筋が伸びるような、不思議な重みがある。
ノートを差し出すと、セレーネ様は一行だけ目を走らせ、指先でそっと文字を示した。
「ここだけ訂正しておくと安心よ。“コンフリー”は通称なの。正式名称は“シンフィトゥム”。試験では正式名で書くよう求められることが多いの」
「……ありがとうございます。気づきませんでした」
「努力が伝わるまとめ方をしているもの。とても丁寧だわ。少し整えれば、さらに良くなると思う」
評価というより、観察に近い言葉だった。だからこそ素直に胸に落ちる。
セレーネ様は顔を上げると、近くにいた司書へ視線を向けた。
「第三資料室にある薬草学の原典集をお願いできる? 緑の背表紙のものよ」
「承知いたしました、セレーネ様」
司書は一礼し、奥へと向かう。
ほどなくして運ばれてきた分厚い本を、セレーネ様は慣れた手つきで開いた。
目的の頁を探し当てるまで、ほとんど迷いがない。
「これ、よかったら目を通してみて。記述が正確で、図版も信頼できるの」
そう言って、椅子を示される。
促されるまま腰を下ろし、目の前に広がるページへ視線を落とした。
そこには、薬草の細密な挿絵と詳細な解説が載っている。葉脈の走り方までわかるほど精緻だ。
「……すごい」
思わずこぼれた声に、セレーネ様の口元がわずかに緩んだ。
「ええ。観察がとても正確でしょう。薬草学は、とかく軽視されがちだけれど……本当はとても奥深い学問なの」
指先でそっと挿絵をなぞる。その仕草には、慣れと親しみが滲んでいた。
「私、この分野が好きなのよ。派手さはないけれど、知れば知るほど世界が広がっていくでしょう?」
少しだけ楽しげな響きが混じる。
「良い本は、良い教師になってくれるものよ」
そう言って隣に腰を下ろし、名前や見た目が似ている薬草をいくつか教えてくれた。
ふと、彼女は視線を巡らせた。来館したときと同じように、誰かを探す気配がある。
けれど目的の人物は現れなかったらしい。
「来ないのなら、それもまた答えね」
また、小さく独り言のように呟いた。
「それでは、私はもう行くわね」
数歩進みかけて、思い出したように振り返る。
「その本、閲覧記録をつけておくといいわ。後で必要になったとき、探しやすいもの」
そう言って、もう一度司書を呼び、手順を教えるように頼んでくれた。
「はい。ありがとうございます」
「勉学に励む方は、嫌いではないの。無理のない範囲で、続けてちょうだい」
その言葉を最後に、セレーネ様は音も立てず図書館を後にした。
去ったあとも、不思議と場の空気が整ったままに感じられる。
改めて原典集へ目を落とした。
先ほどまでよりも、文字が深く胸に入ってくる。
窓の外では、秋の風が枝を揺らしていた。
静かな午後だった。
けれど――それが穏やかな時間のままで終わらないことを、まだ誰も知らない。
♦︎♦︎♦︎
原典集を閉じたとき、図書館の大時計が静かに時を告げた。
そろそろ剣術・騎士科の授業も終わっている頃のはずだ。
私は窓の外へ目を向ける。
秋の陽は傾き始め、校舎の影が中庭へ長く伸びていた。
貸出の手続きを済ませて外へ出ると、門のそばにはすでに伯爵家の馬車が停まっている。
ミリアとエリオットの姿も見えた。
「エルリーナお嬢様」
気づいたミリアが、ほっとしたように一礼する。
「ルーカス様は、まだお見えではないのです。授業は終わっていると聞いているのですが……」
「校舎内には入れないものね」
従者と侍女は、許可なく学園の建物へ入ることができない。
「私、様子を見てくるわ。すぐ戻ります」
「お嬢様、お気をつけて」
校舎へ足を向けると、帰宅する生徒たちの姿がちらほらと見える。
だが進むにつれ、どこか落ち着かないざわめきが風に乗って届いてきた。
話し声が重なり、廊下の空気がわずかに張り詰めている。
人が集まっているのは――生徒会室の前だった。
普段は静粛が保たれている場所だ。
こんなふうに廊下が騒がしくなるのは珍しい。
何があったのだろう。
戸惑いながら視線を巡らせた、そのとき、見慣れた後ろ姿が目に入った。
「……ルーカス兄様?」
名を呼ぶより早く、ルーカス兄様が振り向く。
「エルリーナ? どうしてここに……あ、迎えがきたのか……」
驚いたように目を見開き、それからすぐに周囲を気にする視線になる。
「馬車で待っていたのだけれど、なかなかいらっしゃらないから……」
そこまで言いかけて、ようやく場の様子に気がついた。
右側にいるのはセレーネ様、傍にはラファエル様もいる。
その表情は穏やかだが、どこか警戒を含んでいた。
左側には、第二王子殿下のアレクシス・ディア=アウレリア様と、その隣には見覚えのない女子生徒がふたり。
ひとりは栗色のくせ毛、もうひとりは黒髪のストレート。
留学生だろうか。制服の形は同じはずなのに、どこか着こなしが違って見える。
その瞬間――胸の奥が、わずかにざわめいた。
視線を向けられたわけでもないのに、なぜか意識が引き寄せられる。
ふと、セラの言葉が脳裏をかすめた。
二年生の中にいる――そして、ふたりで行動している、と。
胸の奥のざわめきが、わずかに強くなる。
黒髪の女子生徒が気になる。
――気のせい……だろうか。
けれど、理由のない疑念を抱くべきではないと、小さく息を吐き、冷静を装う。
二組の間に立つようにしてルーカス兄様と、上級生らしい男子生徒が状況を見守っている。
さらに視線を奥へ送ると、ラファエル様の後ろにルイス様の姿もあった。
無言のまま、どこか落ち着かない表情で成り行きを見つめている。
そのとき、セレーネ様がこちらに気づいた。
「あら、あなたは……エルリーナさん?」
ラファエル様も続いて視線を向ける。
図書館での出来事が脳裏をよぎり、私は迷わず一歩進み出た。
「セレーネ様」
全員の視線が集まる中、静かに礼を取る。
「先ほどは図書館で、薬草学について教えていただきありがとうございました」
わずかに空気が動いた。
第二王子殿下が、興味を示したように眉を上げる。
「図書館? それはいつのことだ」
向けられた視線の重さに息を整え、さらに深く正確な礼を取った。
「はい。およそ一時間ほど前でございます」
沈黙が落ちる。
その一瞬で、何かの均衡が変わったのを感じた。
見知らぬ栗色の髪の女生徒の表情が、かすかに揺らぐ。
「……わ、私は……遠目にお見かけした気がして……セレーネ様だと思ったのです。でも……もしかすると、見間違いだったのかもしれませんわ」
言葉はしだいに小さくなっていく。視線が一瞬だけセレーネ様へ向けられ、すぐに逸らされた。
第二王子殿下はしばらく女生徒を見つめていたが、やがて静かに口を開いた。
「見間違いで済む話かどうかは別として、名が挙がった以上、このままにしておくわけにはいかない。生徒会で事実関係を確認しよう。双方とも、後ほど時間を取ってほしい」
「承知いたしました」
答えたセレーネ様の声は、驚くほど落ち着いていた。
張り詰めていた空気が、ようやく緩み始める。
大きな衝突には至らず、騒動はひとまず収まったように見えた。
けれど何かが完全に解決したわけではないことを、空気が物語っていた。
事情を知らないのは、私だけだ。
ルーカス兄様と目が合う。安心させるように、わずかに微笑んでくれた。
(……ここで詳しく尋ねるのは、違うわね)
ただでさえ張りつめている場だ。
無遠慮な問いは、余計な波を立ててしまう。
(あとで、兄様に伺いましょう)
そう心に決め、静かに口を閉ざした。
廊下の窓から差し込む秋の光が長い影を落としている。
それはまるで、この出来事の余波のように、静かにその場に伸びていた。




