第3話 動き出す時間
熱がようやく下がったある朝、私はそっと寝台を抜け出した。足元を探ると、ベッドの下にある室内用の靴に触れた。(あ、これでいいや)
足はまだおぼつかないけど、壁に手をつきながらなら歩ける。
(たしか、この先に……よさそうな場所があったはず)
記憶を頼りに、人気のない廊下を進む。心臓がどきどきして、まるで悪戯をしているみたい。
裏手に出ると、小さな庭が広がっていた。木立と塀に囲まれていて、人目につかない。やわらかな陽の光が差し込んで、そこだけが別世界のように感じられた。
(うわぁ綺麗。風が気持ちいいなぁ)
私は草の上に立ち、息を整えて腕を伸ばし、屈伸をして、ゆっくりと足を踏み出した。
(……これリハビリ、だよね。ふふっ)
けれど、すぐに声が響いた。
「エルリーナお嬢さま?!」
振り返ると、濃い栗色の髪を後ろにまとめた、落ち着いた雰囲気の女性が駆け寄ってくる。
(あれは、たしか……)
「……オルガさん……あはは……そろそろ体を動かしたくて……」
言い訳のように笑ってみせたけれど、すぐに肩を抱えられ、半ば引きずられるように部屋へ戻された。
「まだ本調子じゃないのに、何をなさるんです!」
後ろから、肩までの淡い茶色のくせ毛の女性が、慌てて水差しを抱えてついてくる。
(……ミリアさんか。早速二人に見つかってしまった)
それでも、私は翌日も抜け出した。何度も、何度も。
見つかるたびに、ふたりは本気で怒った。
「無理は禁物です!」
「転んだらどうするんですか!」
……でも、私はやめなかった。ふらつく体を必死に支えながら、昨日よりも一歩でも多く歩きたいと願って。
「ほら、見て!昨日より歩けたわ!」
そう言うと、オルガは深いため息をつき、
「……本当に、あなたという人は。」
小さく呟いた。その声の奥に、呆れと……少しの感心が混じっている気がした。
ミリアはそっと笑って言った。
「じゃあ……せめて、私たちの前でやってください。転んだら、すぐ助けられますから。」
それから、裏庭に行くときは、どちらかが必ずついてきてくれるようになった。外用の靴も用意してくれたし、叱る声ではなく、励ます声が響くようになっていく。
ふと部屋の窓を見ると、あくびをしているセラがいた。
♦︎♦♦
ある昼下がり。陽ざしの中を歩いていると、ふいに影が落ちた。
「お前たち……何をしている?」
振り返ると、垣根の向こうに大きな影。白髪交じりで短髪の、がっしりとした男性が立っていた。
元騎士団の弓兵隊長。今は庭師だけれど、その鋭い目つきと白い口髭に、私は思わず息を飲む。オルガとミリアは、びくりと肩を震わせた。
けれど私は背筋を伸ばし、言った。
「バルド…さん?……歩く練習です。」
バルドさんの眉がわずかに動き、沈黙が落ちる。やがて、ふっと鼻を鳴らした。
「バルドでいい。訓練にしては、随分甘いな。」
オルガとミリアが慌てて口を開く。
「お嬢様はまだ病み上がりなんです! 無茶は――」
けれどバルドはそれを遮った。
「だからこそだ。やるなら正しくやれ。間違ったやり方は、かえって体を壊す。」
そう言って地面に線を引き、足の置き方を示してくれる。
「膝を守るように、そうだ……」
驚くほど細かい指示に、私は必死で従った。額に汗を浮かべながら、何度も繰り返す。
やがてバルドは腕を組み、短くうなずいた。
「悪くない。根気さえ続けば、いずれは走れるようになる。」
「……本当ですか!」
私の声が自然と弾んだ。
「嘘は言わん。……まあ、俺の暇つぶしにもなるしな。」
素っ気なくそう告げられたのに、胸の奥が熱くなる。
こうして、私の小さな「リハビリ」は本格的な訓練へと変わっていった。
♢♢♢
半年が過ぎた。季節は夏から冬へ。この国には雪は降らないらしい。残念。
私は裏庭で元気に笑っていた。もう、寝台に伏せていた病弱な少女ではない。
今日は魔力操作を教えてもらう。
「魔力は血と同じだ。力んで押し出すんじゃない、全身を巡らせろ。」
バルドはそう言って、呼吸に合わせて魔力を流す練習をさせてくれた。
吸うときに体へ取り込み、吐くときに指先へ流す。何度も繰り返すうちに、掌の上にふわりと小さな風が巻いた。
「……できた!オルガ!ミリア!今の見た?」
「ちゃんと見てましたよ。リーナ様。ふふふ」とオルガが声をあげ、ミリアが「リーナ様すごいです!」、ぱちぱちと拍手をしてくれる。
「筋は悪くねえ。だが、ここからが本番だ。」
バルドの厳つい顔に、少しだけ笑みが滲んで見えた。
「はい!」
あんなに頻繁に熱を出していたのが、最近はそんなことはないし、できることが増えて毎日が楽しい。
その夜。私は自分の魔力が増えていっていることに気が付いて…
(……本邸の人には、知られたくないなぁ。)
これは相談しよう。と、今は出窓からソファが定位置になったセラに聞いてみた。
『魔力を隠す?まぁ、できるんじゃないか?』
「本当!? 教えてほしいの」
セラは一瞬沈黙した後、話し始めた。
『そうだな…湖を想像してみろ。湖面が穏やかであれば、その下の深さには誰も気づかない』
「やってみる」
額に汗がにじんできた。(難しい…うまく、いかない)
『押し込むんじゃなく、ゆっくり沈める感じだ。もう一度、始めからやってみろ』
ふーっと息を吐いてもう一度集中!
(湖…風もなく…夜の静かな湖って感じかな…ゆっくりと深く…)
言われた通りに魔力を沈めるイメージをすると、全身から力が抜けていく。
「……ふぅ、こんな感じかな…結構疲れるね」
『まあ、いい感じだ。まだ完璧ではないがな』
「毎日寝る前にやるよ。ありがとう、セラ」
(…白猫。触りたいけど中の人は…あの人だしなぁ…)
なんて思っていたら、セラはくるっと向きを変えて丸くなった。
『……もう寝ろ』
(あ…触りたいって思ってるのバレたかな?)
「うん。おやすみ。また明日」
♦♦♦
次の日、バルドが何かを抱えてやって来た。
「魔力の流れを覚えたなら、これを使ってみるか?」
手に渡されたのは、少し古びた弓だった。
「矢を放つときの感覚と、魔力を流すときの感覚を重ねてみろ」
一射、二射、三射。矢は少しずつ的の中心に近づき、
「……まぐれじゃねえな。リーナ、お前には弓の才があるようだな」
「本当?! 私、頑張る!」
バルドが的を確認しているとき、反対側の木立の奥で何かの気配を感じた。
けれど、すぐに消えてしまった。
(……気のせいかな?鳥だったのかな)
そう思い直して訓練を続けたけれど、体はすでに限界を超えていた。
夜になるころには体が熱を帯び、布団から起き上がれなくなった。
「まったく……どれだけ心配したと思っているんですか」
オルガの声は厳しいけれど、どこか優しさも混じっていた。
ミリアがそっと額の布を替えてくれる。
「オルガ姉さん、昼間バルドさんもお説教されてましたよ」
「……あの人も、さすがに私の声は響いたでしょうけどね」
昼間、年配のバルドさんはオルガに渋々叱られて、少ししょんぼりしていたらしい。
今は、私の体調だけを気にして、静かに見守ってくれる。
数日後、熱も下がり、年の瀬がやってきた。
離れの暖炉の前には、オルガが焼いたパンと、ミリアの煮込みスープ。
火のぬくもり、湯気の香り、穏やかな笑い声が重なる。
私は毛布にくるまり、深く息を吐いた。
――伯爵家に養女として迎えられて以来、初めて心からほっとできた年末だった。
里奈として過ごした孤独な年末、施設で迎えたあの静かな夜とは違う。
ここには守ってくれる人がいて、笑い合える人がいる。
誰かと一緒に年を越すあたたかさに包まれて、胸の奥までじんわりと温もりが広がった。
木立の奥で感じたあの気配は、いまのところ何者か分からない。
でも、今日はそれを気にしなくていい。
目の前にあるぬくもり、初めての安心、笑い声のひとつひとつを、心から味わった。
次回は来週投稿予定です。




