第28話 日常と不安と確信
リュミエール先生と、男爵家の話をしていたあの日――
学園から、先生に急ぎの用件があるという知らせが届いた。
学園再開に向けた準備に加えて、隣国からの留学生も、予定より早くやって来るらしい。
考えてみれば、忙しくならないはずがない。
それでも先生は、長期休暇の間、時間を作って何度も足を運び、あの本の解明を、私と一緒に進めてくれた。
「また学園で」
少しだけ名残惜しそうにそう言って、先生は伯爵家を後にした。
そして翌日――長期休暇の終わりまで、あと数日。
課題はすべて終わっている。
提出するものも、やり残したこともない。
それなのに、何もせずに過ごす気には、どうしてもなれなかった
だから私は、学園の図書館へ向かうことにした。
長期休暇の間にも、何度か足を運んだ場所だ。
人の少ない館内と静かな書架のあいだは、考えすぎてしまう頭を、そっと落ち着かせてくれる。
「エルリーナ!」
「あ!アメリア! ごめん、待った?」
「ううん、私も今来たところよ」
アメリアはにっこり笑いながら言った。
「そういえば、前にここに来たとき、少しふらついてたでしょ? 大丈夫?」
私は肩を軽くすくめて笑う。
「うん、大丈夫。あのときはちょっと疲れてただけ」
アメリアは少し真面目な顔になり、でも口調は軽く言った。
「そっか。でも、もしまたふらつくようなことがあったら、容赦なく医務室に連れて行くからね」
「え、容赦なく?」
思わず笑ってしまう。
「うん、医務室のベッドはふかふかだから、悪くないでしょ?」
アメリアはそう言って、またにこにこと歩き始める。
休みの間に何度か会ううちに、アメリアとの距離は少し近くなっていた。
お互い読書が好きで、一緒にいると自然と心が落ち着く。
里奈として生きていた頃は、友達もほとんどいなかった。
だから、こうして誰かと気兼ねなく過ごせる時間が、ひそかに嬉しかった。
図書館では、アメリアと小さな声で話しながら、お互いにおすすめの本を手に取り、ページをめくる。
静かで落ち着いた時間が、休暇中の穏やかなひとときだった。
お昼は学園の食堂へ行く。
休み中、寮に残る人や先生方、補習を受ける生徒もいて、学園にはそれなりに人がいる。
そのため、食堂は普通に空いていた。
アメリアと食後のお茶を飲みながら、読んだ本の感想を話していると、ルーカス兄様が見えた。
「ルーカス兄様、生徒会のお仕事ですか?」
自然とそう尋ねる私に、兄様は軽く微笑む。
「ああ、そうだ。ふたりとも楽しそうだね。課題はもう終わったのか?」
「はい、終わりました。あ、この本、アメリアにすすめてもらったんですが、兄様も好みそうな内容でしたよ。ね、アメリア」
「え? あ、は、はい。是非、読んでみてください」
急に話を振られて、アメリアは少しだけ背筋を伸ばした。
その様子に、ルーカス兄様は興味深そうに目を細め、くすりと笑う。
「そうか。前にすすめられた本も面白かったし、今回も読んでみたいな。エルリーナ、読み終わったら貸してくれ。その代わり、返却は私がやるよ」
アメリアの頬が、うっすらと赤く染まる。
私はその様子を横目に、そっと微笑んでいた。
ルーカス兄様は、軽く手を振ると、そのまま生徒会の席へ戻っていった。
忙しそうな背中を見送り、私はお茶に視線を戻す。
「……びっくりした」
アメリアが、ぽつりと小さな声で言う。
「急に話を振ってごめんね」
そう言うと、彼女は首を横に振った。
「ううん。エルリーナのお兄様だけど、上級生だし緊張しちゃっただけよ」
そう言いながらも、頬の赤みはまだ残っていた。
「……さっきの本、どこが一番よかった?」
話題を戻すと、アメリアはほっとしたように笑った。
「主人公が、最後に選んだところ。あれ、好きだな」
二人でページの場面を思い出しながら、小さな声で語り合う。
さっきまでの静かな時間が、少しだけ違う色を帯びて戻ってくる。
食堂のざわめきの中で、私たちはまた、本の世界へと戻っていった。
♦︎♦︎♦︎
明日から、学園が再開する。
窓の外では、夏の終わりの空に、星が綺麗に瞬いていた。
その光を眺めながら、私は広がっていく不安を、ただ受け止めるしかなかった。
学園に戻ることも、たまに起きる体調の変化も……
そして、あの本のことも。
静かな夜だった。
それなのに、心だけが落ち着かないまま、星を見上げていた。
『大丈夫か?』
「うん。たぶん大丈夫……ではないかも」
私はセラの問いかけに、曖昧な笑みを浮かべた。
『何かあれば私がすぐに知らせる。警戒は必要だが、普通に過ごせ』
ソファに座るセラを背に、私はずっと考えていたことを話した。
「セラ……聖女召喚の話なんだけど……禁忌なんだよね?」
『……ああ、そうだな』
「別の世界から、力を持つ“人”を奪うって……」
『……』
「私は? 私の存在はどうなんだろう?」
私は振り返り、セラを見た。
「私だって、本当は別の世界に生きるはずの存在だったよね?今、この世界からしたら……私は……禁忌の存在?」
『それは違う』
セラの声は、迷いがなかった。
『私は見た。魂が割れた、その瞬間を――』
セラは、その時の光景を話した――
割れた魂は、本来行くべき世界へは向かわなかった。
たとえ半分になっても、欠片のどちらかは、生きるべき世界へ引き寄せられるはずだという。
それなのに。
魂は、まるで導かれるように、真っ直ぐこの世界へ飛んでいった。
それに、書斎であの本を見つけ、文字が浮かび上がったのを見て――
セラは、そこで確信したのだという。
『エルリーナの魂には、エルデナの魂が宿っていると……』
セラは、私に天界について覚えているかと聞いてきた。
「無数の光の粒が漂っていて……
寄り添って、結びついて……
やがて“魂”になって、それぞれの世界へ旅立っていく……だったよね?」
それは、断片的な知識。
確かな輪郭は持たないけれど、なぜか忘れられない光景だった。
『そうだ。だが――』
セラはそう前置きしてから、ベッドに座る私のそばまで歩み寄る。
『これは、あくまで俺の考えだ』
その声音は、いつもより慎重で、「私」ではなく「俺」になっていた。
『救世主、聖女、聖人……そう呼ばれる人たちの魂には、エルデナの魂が宿っているのではないか――と』
セラは窓の外に広がる星を見上げ、少し間を置いて続けた。
『だから天界で、“エルデナ”とは、古の契約を司る名で、失われかけた光をつなぎ止める加護……そう伝えられているのではないのか――と』
私は言葉を飲み込み、ただその光景を見つめるしかなかった。
セラは以前、私にエルデナの加護があると言った。
あの本に文字が浮かんだのも、私が触れたときだった。
エルデナという存在が、名ではなく役割なのだとしたら。
この世界のエルデナは――
「……やっぱり、私なんだ」
ぽつりと零れた言葉は、驚くほど静かだった。
セラは、何も言わない。
否定も、肯定もせず、ただそこにいる。
星は相変わらず瞬いている。
その光はもう、遠いものではなかった。
それから、ベッドに横になった。
夜はもう深いはずなのに、目を閉じても、意識だけが冴えている。
考えないようにしても、考えてしまう。
言葉にしてしまったあの一言が、頭の中で何度も、何度もよみがえった。
『……眠れないか』
「……うん。ちょっとだけ」
セラは、ためらうように一度動きを止めてから言った。
『魔力の流れを見てやろう。乱れていると、眠りにくい』
私は、何も言わずに頷いた。
セラがそっと近づき、額に前足を乗せる。
触れたところから、じんわりと温かさが広がった。
それは、包み込むような感覚で、張りつめていたものが、少しずつほどけていく。
「……あったかい」
『問題ない。今夜は、静かだ』
その声を聞いたあたりで、意識がゆっくりと遠のいていった。
最後に見えたのは、カーテン越しの星の光。
眠りに落ちた私を、セラはやさしい眼差しで見つめていた――けれど、それを私は知らない。




