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エルデナの祈り  作者: 春乃


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第26話 本に記し事の考察

書斎の窓からは、夏の午後の光が差し込んでいた。

昼と夕方のあいだみたいな、落ち着かない色だ。


私とリュミエール先生は、書斎のソファに向かい合って座っている。

間にある低いテーブルの上には、エルデナの本と、お祖父様のメモ書きが置かれていた。


先生は、しばらくそれを眺めてから、私を見る。

表情は穏やかだけれど、目の奥に、わずかな光があった。


「今すぐ答えが出る話じゃない」


そう前置きしてから、少しだけ口元を緩める。


「でも……調べがいはありそうだ。リュミエール男爵家については、私のほうで見てみようと思う。家に残っている記録もあるしね」


声は落ち着いているのに、どこか楽しそうだった。


「時間はかかるかもしれないけれど」


その一言で、十分だった。

私は、なぜか肩の力が抜けるのを感じた。


先生は、本とメモ書きをまとめて手に取り、軽く揃えてから、私の前に置いた。


「これは、君が持っていて。無理に動かす必要はないし……正直に言うと、君の手元にあるほうが安心だ」


「……はい」


頷くと、先生は小さく笑った。


「話す場所は、ここがいいね」

書斎を見回しながら続ける。

「古代語の本を調べたい、って言えば通るし。それに、私もこの部屋は落ち着く」


そう話す先生は、新しい研究室を見つけた人みたいな顔だった。


「じゃあ、今日はこのくらいにしようか」

穏やかな声でそう言って、先生は立ち上がった。

「休みのあいだに、また来るよ」


私たちは離れを出て、本邸へ戻った。夕方の光が、廊下の窓からやわらかく差し込んでいる。

応接室には、伯爵夫妻が揃っていた。


先生は一歩前に出ると、静かに一礼した。

「本日は、貴重なお時間をありがとうございました」


「こちらこそ」


先生は、そのまま視線を上げた。

「伯爵、ひとつお願いがあります。離れの書斎にある古代語の書物を、今後も調べさせていただきたい。休暇中、何度かお邪魔することになるかもしれませんが……」


叔父様は、少し遠くを見るような目をした。

「あの書斎にある本は、父が趣味で揃えたものです。私には難しくて、よく分からないものも多い」

そう言ってから、先生のほうへ向き直る。

「分かる者が手に取るなら、父もきっと喜ぶでしょう。ぜひ、また来てください」


「ありがとうございます」

先生は、改めて深く頭を下げた。


叔母様も、穏やかに口を添える。

「必要なものがあれば、使用人に声をかけてくださいね」


そのやり取りを、私は一歩下がった位置から見ていた。すべてが、きちんと整っていく感じがした。


そのまま、玄関まで先生を見送る。外には、先生が乗ってきた馬車が待っている。


「では、失礼します」


伯爵夫妻に一礼してから、先生は私のほうを見た。

私は、きちんと頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました」


先生は小さく笑い、馬車に乗り込む。やがて車輪の音が遠ざかり、門の向こうへ消えていった。

私は、見えなくなるまで、静かに見送った。


♦︎♦︎♦︎


夜になり、離れは静けさに包まれていた。

昼の名残はすっかり消え、窓の外には深い闇が広がっている。


『前に進めそうだな』

セラが、窓の外を見ながら言った。


私は机の引き出しからエルデナの本を取り出し、膝の上に置いた。

表紙に触れると、昼間の光景が静かによみがえった。


「そうだね。この本……ちゃんと読めるようになりたいな」


セラは、こちらを見ずに耳だけ動かす。


「今は、意味が分かるところと、分からないところが混ざってる。たまたま読めただけ、って気もするし」


『それでも、読めたのは事実だ』


「うん。だからこそ、曖昧なままにしたくない」

本を閉じ、指先で背をなぞる。

「エルデナが何なのか。どうして私が読めたのか……知っておきたい」


しばらく沈黙が落ちる。夜は、答えを急がせない。


「それと……」

私は小さく息を吸った。

「そろそろ、鍛練を再開したい。体も、感覚も、鈍ってる気がする」


『また、無理はするなよ』


「分かってる。でも、動けないままは嫌」

立ち止まらないために。私は、もう少し強くなりたい。


セラは、ゆっくりとこちらを見た。

『だったらもう寝ろ。休むことも大事だ』


そう言って、セラはベッドの端に丸くなった。

「うん。おやすみ、セラ」


♢♢♢


長期休暇のあいだ、リュミエール先生は何度か伯爵家を訪れた。

そのたびに私たちは離れの書斎に集まり、机を挟んでエルデナの本を開いた。


リュミエール男爵家は、先生の父の代で爵位を返上している。


先生自身は、それを詳しくは知らなかった。

各地を見て回りたいという思いから、旅に出る前に自ら貴族籍を抜けていたからだ。


爵位を返上すると聞かされたときも、深く考えはしなかった。

ああ、そうなんだ、くらいの感覚だったという。


「古代語の研究は、最初はただの趣味だった」

先生はそう言って、少し困ったように笑った。

「まさか、こんな形で自分の家と繋がるとは思わなかったよ」


けれど、表情に戸惑いはあっても、後悔はない。


「だからこそ、きちんと見たいんだ」

それは研究者としての、静かな決意だった。


「さて、今読めている文字を見ながら、お互い考えていることを話そう」


先生はそう言って、エルデナの本を開いた。


「まず、文字の見た目から見ていこう」

数ページ飛ばし、手を止める。

「ここから見てほしい。一見すると同じ筆致に見える。でも、よく見ると違いがある」


さらに数ページ進め、そこで手を止める。

「……ここから、変わっている」


私も身を乗り出した。

確かに、文字の形がわずかに違う。

線の流れ、角の取り方、行の間隔――意識して揃えようとしているのに、完全には同じにならない。


「書いた人が、違いますね」


「うん」

先生は頷いた。

「しかも、一度や二度じゃない。何ページか進むごとに、少しずつ変わっていく」


ページを繰るたび、時代が重なっていくのが分かる。

一冊の本なのに、ひとりの時間ではない。


「代々、受け継がれてきた……」


「その可能性が高い」

先生は静かに言った。

「しかも、内容の形式はほとんど変わっていない」


先生は、文の並びを指で示す。


「日付、場所、状況、対処、結果。感情や飾りはない」

視線を上げ、私を見る。

「これは、記録だ。物語じゃない」


「報告書、みたいですね」


「そう。誰かに伝えるためのものだ」

先生は少し考えてから続ける。

「そして――途切れていない」


私は、胸の奥が、ひやりとするのを感じた。


「ずっと、続ける必要があった……?」


「そう考えるのが自然だ」

先生は、本を閉じかけて、もう一度開く。

「“役目”という言葉が、どの時代の記述にも残っている」


視線を落とす。


書き手が変わっても、

時代が変わっても、

その言葉だけは消えていない。


「闇を、見る。抑える。記す。伝える」


先生は、その順に、確かめるように口にした。


「これが、エルデナの役目だったんじゃないか」

先生は、開いたままのページに視線を落とした。


「ここまで記録が厳密なのは……理由があるはずだ」


指先が、年号の並びをなぞる。


「闇は、定期的に現れるものじゃない。いつ、どこで、どんな形で現れるのか分からない」


そこには数年、時には十年以上、記述が途切れている箇所もある。

「……間が空いてますね」


「そう」

先生は頷いた。

「何も起きなかった期間だ。でも、だからといって、役目が終わったわけじゃない」


先生は、静かに続ける。


「何年も、何十年も、闇が現れないこともあったんだろう。それでも、次に備えて、記録は残された」

「引き継ぐ者が、途中からでも状況を把握できるように」


私は、胸の奥で何かが腑に落ちた。


「……だから、書き方が変わらないんですね」


「うん。誰が読んでも分かるように。時間が空いても、迷わないように」

先生は、わずかに目を細める。

「“続けること”そのものが、役目だった」


闇は、いつ現れるか分からない。

だからこそ、途切れてはいけなかった。


私は、閉じた本にそっと手を置いた。


この一冊は、知識の集積じゃない。

“備え”そのものだった。

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