第25話 触れた扉
窓から見える空は、夜の色をまだ残している。
遠くに見える山際が、かすかに白み始めてた。
私はカーテンの隙間から、その景色を眺めていた。
珍しく、セラがベッドの端に座っている。
やがて、オルガが部屋に来て、いつものように身支度を整える。
櫛の音も、結ばれるリボンの感触も、変わらない。
朝食の席で、叔父様が午後の来訪を告げた。
出迎えは本邸で、離れにいるならエリオットが呼びに行くという。
私は頷いただけだった。
食後、離れへ戻る。
机に向かい、窓から入る光を背に感じながら、静かに時間を過ごす。
午前の静けさの中で、ゆったりといつもの時間を生きていた。
昼になると、オルガとミリアと三人で焼いたパンを、バルドも加えて四人で食卓を囲む。
焼きたての香りが、部屋にやさしく広がった。
何気ない会話を交わしながら、パンを分け合う。
特別な話はしない。
それでも、この時間が、確かにここで続いている日常なのだと分かる。
食後、私はそっと息を整えた。
♦︎♦︎♦︎
午後になり、離れの廊下に足音が響いた。
「エルリーナ様」
扉の外から、エリオットの声がする。
「リュミエール先生がお着きです。本邸へお越しください」
「分かりました」
返事をして、立ち上がる。
窓辺で外を見ていたセラが、私の動きに合わせて振り返った。
「……セラも行くの?」
思わず声をかけると、「にゃー」短く鳴いて、当然のように私のそばへ来る。
(猫みたいに鳴いてる)
思わず、笑ってしまった。
本邸の応接室には、伯爵家夫妻とリュミエール先生が揃っていた。
セラは、すぐ出窓に飛び乗り、何事もないように外を眺め始めた。
私は一歩進み出て、先生の方へ向き直る。
「ご無沙汰しております、リュミエール先生」
「ああ、久しぶりだね。元気そうでよかった」
セラフィナ叔母様がそっと手招きをする。
一瞬だけ目が合い、私たちは小さく微笑み合った。
叔母様の隣に腰を下ろした、その瞬間――
リュミエール先生が、ほんのわずか目を見開く。
けれどすぐに目を細め、静かに息を吐いた。
――なるほど。
そんな表情だった。
最初に口を開いたのは、マーカス叔父様だった。
「エルリーナの怪我だが、大したものではないそうだ」
淡々とした口調で続ける。
「医師にも診せたが、心配はないと言われている。学園生活にも支障はない」
リュミエール先生は、表情を緩めた。
「それを聞いて、安心しました」
そう言ってから、一度私の方へ視線を向け、叔父様と叔母様に向き直る。
「もう知っていらっしゃると思いますが……私は、エルリーナの母――オーレリアの叔父にあたります」
叔父様と叔母様が、静かに頷いた。
先生は一度言葉を切り、ゆっくりと続けた。
「正直に言えば……こちらに来る前は、エルリーナを引き取るべきかとも考えていました」
室内の空気が、わずかに張りつめ、叔母様が私の手を優しく握った。
「ですが、みなさんの様子を見ていれば分かりました。その必要はなさそうだと」
穏やかなその声に、叔父様はほっと息をつき、静かに口を開いた。
「……お恥ずかしい話ですが、私たちは最近になって、ようやく本音をエルリーナに伝えられたところです」
少しだけ視線を落とし、それから続ける。
「まだ至らないところも多い。ですから、その足りない部分を、先生に支えていただけたらと思っています」
言葉は控えめでも、そこにあるのは確かな信頼だった。
私と叔母様は、目を合わせて微笑んだ。
そのあとの空気は、不思議とやわらいだ。
重たい話題はひとまず置かれ、話はいつの間にか学園や近況のことへ移っていた。
その流れの中で、リュミエール先生が思い出したように叔父様を見る。
「そういえば……先代様の書斎には、古代語の書物が残っていると聞きましたが」
叔父様は一瞬考え、それから頷いた。
「離れの書斎に、いくらかあったはずだ」
「もしよろしければ、拝見しても?」
控えめな言い方だったが、興味は隠れていない。
叔父様は私の方を見て、穏やかに言った。
「エルリーナ、案内を頼めるか」
「はい、叔父様」
私は立ち上がり、軽く頭を下げた。
セラが、私の動きに合わせて出窓から降りてきた。
そうして私たちは、離れの書斎へ向かうことになった。
♢♢♢
書斎に入るなり、リュミエール先生の視線は、自然と一角へ向かっていた。
古代語の書物が並ぶ棚だ。
数としては決して多くはない。けれど先生は迷うことなく、そこへ歩み寄る。
「……ここか」
低く呟き、背表紙を一冊ずつ確かめていく。
指先は慎重で、それでいてどこか愛おしむようだった。
「うん、いい本ばかりだ。素晴らしい」
抑えた声の奥に、確かな満足が滲んでいる。
先生は棚から一冊を抜きかけ、ふと手を止めた。
「背も、紙もきれいだ。何度も読まれているのに、扱いが丁寧だと分かる」
そっと本を戻す仕草は、まるで持ち主に敬意を払うようで。
「この書斎の主は、本を集める人じゃない。知識を得て、守る人だ」
静かな確信を帯びた声音だった。
「お祖父様は、古代語を独自に調べていたみたいで……その資料も、こちらにあります」
そう言って、私は紙の束を先生に差し出した。受け取った先生はすぐに視線を落とし、数枚目に差しかかったところで動きを止める。
「……なるほど。これは、ただの写しじゃない。独自の解釈だね」
指先が自然と紙の上をなぞった。
「かなり読み込んでいる。積み重ねて辿り着いた形だ」
顔を上げた先生の表情には、静かな感嘆が浮かんでいた。
「これは……とても貴重だよ」
一緒に書斎に来ていたセラと、ふと目が合う。
私は小さく頷き、先生のほうへ向き直った。
「あの、先生。実は、見ていただきたい本があります。少しだけ待っていてもらえますか?」
「ああ、大丈夫だ。この書斎になら、何時間だっていられる」
私は離れの自室へ向かい、ベッドサイドの引き出しを開けた。
中から取り出したのは、一冊の古い本――『エルデナ』。
胸の奥に小さな緊張を抱えたまま、私はそのまま書斎へ戻った。
「先生……この本なんですが」
差し出されたそれを見た瞬間、リュミエール先生の動きが止まった。
次の瞬間、はっとしたように目を見開く。
「……これは……エ、ルデナ?」
息を吸う音が、わずかに聞こえた。
「……っ、エルデナ……!」
先生は思わず本を両手で受け取り、表紙を、背を、確かめるように見つめる。
その表情は、驚きと戸惑い、そして抑えきれない高揚が入り混じっていた。
「まさか……現存しているとは」
ページを開く指先は、先ほどまでとは比べものにならないほど慎重で、どこか震えている。
私は、もう一つの紙を差し出した。
「それと……お祖父様の書斎に挟まっていた、メモです」
先生は視線を落とし、走り書きの文字を追った。
――リュミエール男爵家か?――
その一文を読んだところで、先生は小さく息を吐いた。
「……リュミエール家と、何か繋がりがあるのだろうか」
すぐに答えを出すことはせず、本とメモを見比べながら、しばらく黙り込む。
「もし何かあるとすれば、それは当主にのみ伝えられる類のものだろう。私はリュミエールと名乗っているが、男爵家は爵位は返上しているからな」
それでも、先生の表情に戸惑いはあっても、拒絶はなかった。
むしろ――研究者が、思いがけない扉を見つけた時の顔だ。
「だが……」
エルデナの本に、もう一度視線を落とす。
「先代が、この名と我が家を結びつけようとした理由は、確かにあるはずだ」
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「これは……とても面白い。エルリーナ、君は、とんでもないものを預かっているよ」
その声は穏やかで、どこか楽しそうだった。
「……この本を見つけたときのことなんですが」
リュミエール先生は、本から視線を上げ、静かに頷く。
「最初は、古い本だな、って思っただけでした。でも……途中のページが――」
私は、その本を手に取る。
「真ん中あたりが、見開きで真っ白だったんです。文字も、汚れもなくて」
そう続けながら、本を開く。
「理由もなく……無意識に、手でなぞりました」
先生の動きが、ぴたりと止まる。
「すると、文字が浮かび上がってきました。淡く光って……古代語でした」
息を整えてから、はっきりと言う。
「『光の加護 “エルデナ”の名のもとに 魂をつなぐ』……そう書かれていました」
書斎に、静寂が落ちた。
「その頃、私は古代語をほんの少ししか読めなかったんです。でも……なぜか、読めたと言うか……」
自分でも不思議で、少し笑ってしまう。
「知っていた、みたいな感覚でした」
先生は何も言わず、ただ聞いている。
「文字が浮かび上がったのは、その一度きりです。すぐに消えて、ページはまた白いままで……今はもう、何も出てきません。
でも、その言葉だけは……今でも忘れられません」
そう告げると、書斎は静まり返った。
しばらくして、リュミエール先生は、ゆっくりと息を吐く。
「……なるほど」
低い声だったが、そこにあったのは疑念ではなく、思索の深さだった。
「それは、単なる魔術現象とは思えないね」
そう言って、わずかに口元を緩める。
「そして――君が、それを“読めた”ということも含めて、だ」
先生はもう一度、エルデナの本へ視線を落とした。
まるで、その白いページの奥に、まだ見えない何かを探すように。
2話投稿できました。
また来週まで頑張ります。




