第23話 小さな変化
上級生の試験と研究室の見学会が終わり、私は一度寮へ戻ることになった。
長期休暇に入ったら、その間は伯爵家で過ごす予定だ。
試験会場で、叔父様と叔母様とは、いったんここで別れる。
ほんの短い間のはずなのに、その場を離れる足取りは、思ったよりもゆっくりになった。
「オルガはエルリーナと共に寮へ。大丈夫だと言いたいだろうが、これは決定事項だ」
「もう、あなたったら…… 素直に心配だから、って言えばいいのに」
「う、うん……まぁ、そういうことだ」
私は小さく笑いながら、「わかりました」と答えた。
その隣で、オルガもまた、穏やかな表情で微笑んでいる。
「何かあったら、すぐに知らせなさいね」
叔母様のその言葉に、私はきちんと頷いた。
「はい、叔母様。気をつけます」
ふたりは伯爵家の馬車に乗り込み、その場を離れた。
私とオルガは、馬車が見えなくなるまでその場で見送った。
歩き慣れた学園の道を歩く。
石畳を踏む感触も、風の温度も、いつもと変わらない。
けれど――
胸の奥、さらにその下。
静かな魔力の湖底で、ほんの小さな水紋が広がったような感覚がした。
(……今の、何だろう)
魔力を確かめるように意識を向ける。
水面は穏やかで、乱れはない。
深く沈めているはずの魔力も、何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。
「リーナ様、どうかされましたか?」
「ううん、何でもないよ」
疲れのせいかもしれない。
少し神経を使いすぎただけ――
私はそう結論づけて、再び歩き出した。
♦♦♦
寮の建物が見えてくる頃には、先ほど感じた違和感のことは、意識の端に追いやられていた。
玄関ホールに足を踏み入れたところで、ちょうど中にアメリアさんがいた。
「エルリーナさん、おかえりなさい」
「ただいま戻りました。見学会、行けなくてごめんなさい」
本当は、いろんな研究室を見て回る予定だった。
アメリアさんのいる薬草学の研究室にも、足を運ぶつもりでいた。
けれど、怪我のこともあって、今回は行くことができなかった。
「怪我をなさったのですから、しかたがありませんよ。なので……これを作ってみました。よろしければ、受け取っていただけますか?」
それは、ほのかにやさしい香りのするサシュだった。
「わあ!とてもいい香りですね」
「リラックス効果がある香りなんですよ。自分の分も作りました」
色違いの布でできたサシュを、アメリアさんは自分の分として軽く持ち上げて見せた。
「お揃い、というほどではありませんが……同じ香りです」
「そうなんですね!ありがとうございます、アメリアさん」
そう答えると、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ後、何かを思い出したように切り出した。
「そういえば……留学生の件は、もうお聞きになりましたか?」
「留学生って、今回の実技試験の見学に来ていた国賓の?」
「はい。隣国からの留学生が、来年度からの予定を前倒しして、近いうちに学園へ来るそうなんです」
思いがけない話に、私は思わず瞬きをした。
「そんなに早く、ですか?」
「ええ。人数は多くないそうですが、いくつかの研究室でも受け入れの準備を始めているみたいで。薬草学の研究室でも、少し話題になっていました」
その時、セラの言葉が胸に刺さる。
――『国賓の中に、怪しい波動を感じる』――
「研究室の見学会も、その準備の一環だったのかもしれませんね」
アメリアさんの言葉を聞きながら、私は胸の内で、これから学園に起こる変化に思いを巡らせていた。
「つい、長話になってしまいましたね。すみません」
アメリアさんはそう言って、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「いえ、大丈夫です。サシュも、ありがとうございます」
そう言って、私はサシュを胸元に抱いた。
アメリアさんは「どういたしまして」と小さく頷き、私たちは廊下で別れた。
自室に戻ると、オルガが部屋の中の確認を始めた。
その様子を眺めながら、留学生のことを考える。
「……、様……、ーナ様、……リーナ様?」
「っ……!は、はい!」
「大丈夫ですか? すこしお休みになられますか?」
「だ、大丈夫だよ、ちょっと考え事してただけだから」
オルガは「そうですか」とだけ答えると、それ以上踏み込まず、部屋の窓や戸棚を静かに確認していく。
その背中を見つめながら、私はベッドの端に腰を下ろした。
(隣国からの留学生……)
来年度からの予定を前倒しするほど、急ぐ理由があるのだろうか。
研究、交流、それとも――別の何か。
(これから、どうなるんだろう……もし、何かが起こるとしたら……みんなを、巻き込みたくない……)
そう考えた瞬間だった。
胸の奥、さらに深いところ。
ほんの一瞬。
水底の砂が、かすかに舞い上がっただけのような――そんな程度。
(……また?)
けれど意識を向けた途端、その感覚はすぐに霧散した。
水面は変わらず穏やかで、魔力の流れもいつも通り制御されている。
(……やっぱり、気のせいかな)
考えすぎだ。
「リーナ様、お茶をお入れしますね」
「うん、ありがとう」
オルガの落ち着いた声に、思考は自然と現実へ引き戻される。
私は深く息を吸い、背筋を伸ばした。
留学生のことも、さっきの違和感も。
今はまだ、輪郭のはっきりしないものだ。
だから――
今は、この静かな時間を、大切にしよう。
♢♢♢
夜になり、寮の中も静まり返った。
私はベッドに横になり、天井を見つめていた。
『眠れないのか?』
「セラ……おかえり。考え事してた」
『そうか』
短い返事。
セラは、私が怪我をしてから、ソファや窓辺ではなく、ベッドの端に寝るようになった。
「国賓は帰ったけど、近いうちに留学生が来るみたい」
『ああ、その中にいるかもしれない。今回は無理だったが、次は絶対に見つける』
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ねえ、セラ」
『何だ』
「今日、歩いているときと……さっきも。胸の奥が、少しだけ、変だった」
一瞬の沈黙。
『魔力か』
「うん。ほんの少しだけ」
セラが枕元まで来て、前足を私の額に乗せた。
ふわりと、やわらかな光が体を包む。
冷たくも、熱くもない。
ただ、深いところまで、静かに染み込んでくる感覚。
『……異常ではない』
低い声が、響く。
『魔力の量も、流れも、制御も――問題ない』
「……じゃあ、さっきのは?」
『まだわからない。だが、嫌な気配はない。……エルデナの本を見つけた時の感覚に、似てないか?』
「……文字が浮かび上がった時か。たしかに、似てるかも」
――光の加護“エルデナ”の名のもとに魂をつなぐ――
あの文字を見た瞬間の、懐かしい響き。
胸の奥で、”何か”がふわりと舞い上がる感覚。
『だから、今はそれ以上探るな』
「うん」
『反応が出ている以上、何かが目覚めかけている可能性はある。だが、それが何かは、まだ判断できない』
ぶっきらぼうな口調のまま、慎重な言い方だった。
『少なくとも、拒絶ではない』
その言葉に、胸の奥が静かに緩む。
「……じゃあ、無理に抑えなくていい?」
『ああ。今まで通りでいい。ただ、無理はするな』
前足が離れ、額の上の温もりが消える。
『今日はもう休め。答えが出る話じゃない』
「……わかった」
私は、ゆっくりと目を閉じた。
エルデナの本のことも、留学生のことも。
そして、名前のつかないこの感覚も――
今は、胸の奥に、静かに沈めておく。
また来週まで頑張ります
余裕がなくなってきたので
来週は1話の投稿になるかもしれません




