第21話 ある少女の物語ー2
「あなたの救った世界は、とても穏やかな空気に包まれていて、素晴らしいですね。……大丈夫ですか?」
ひとりの天使に声をかけられて、はっとする。
私は泣いていた。
あの世界では、絶対に涙を流さなかった。
なのに、今私は――泣いていた。
「大丈夫です。平和な世界になって……よかったなぁって……そう思って……」
「嬉し涙ですね! わかります!」
……そう。
そう思われても、仕方がない。
否定する理由も、訂正する気力もなかった。
私の中に渦巻くこの感情を、うまく説明できなかったから。
彼女は続けて、穏やかな声で語り始めた。
天使の仕事は、魂の流れを見守ることだという。
天界へ昇ってきた魂は、時間をかけて、記憶や感情がほどけ、やがて光の粒子へと変わっていく。
その光は集まり、混ざり合い、まるで――光の海のようになる。
海の中で、光の粒子は自然と寄り添い合う。
同じ色を持つもの。
似た温度を持つもの。
響き合うもの同士が結びつき、新たな魂として形を成す。
魂には、それぞれ性質がある。
使命を帯びるもの。
運命を背負うもの。
ただ、生きるために生まれるもの。
無数に存在する世界は、それぞれ固有の光を放っていて、その光に共鳴した魂が、引き寄せられるように、生まれ落ちる。
天使は、それを見守る。
そして――
流れが歪んだとき。
秩序が崩れたとき。
その時だけ、静かに手を伸ばすのだと。
「天使にならない場合、魂は再び光の粒子へ戻ります」
天使の声は、変わらず穏やかだった。
「光は海へ還り、また別の魂を形づくるでしょう」
消えるわけではない。
そう、当然の事実のように語られる。
「ですが、あなたは――ひとつの世界を救った聖女です」
聖女――その言葉だけが、少し重く響いた。
「何者にもならず、使命も、役割も持たず、この天界にとどまることも許されています」
特別な選択肢。
報酬のようで、どこか宙に浮いた居場所。
「急ぐ必要はありません。時間は、たくさんありますから。ゆっくり考えてください」
天使は、少し思い出したように付け加えた。
「あ、下界を見る鏡ですが、未来は映りませんけれど、過去なら見ることができますよ」
過去。
その言葉が、胸の奥に小さく落ちた。
「では、失礼しますね」
そう言って、天使は光の中へ溶けるように姿を消した。
――ひとり、残される。
白く、静かな天界で、考える。
天使になるのは、違う気がした。
また役割を与えられ、また誰かのために在るのは、もう――十分だった。
けれど、光の粒子へ戻る決断も、まだできない。
自分がほどけて、「私」でなくなる未来を、今は受け入れられなかった。
では。
何にもならない、とは何だろう。
使命もない。
役割もない。
名前すら、意味を持たない。
あんなに、頑張ったのに。
世界を救って。
祈って。
削れて。
すべてを差し出して。
その先が――
「何にもならない」で、いいのだろうか。
私は、静かに鏡の方へと視線を向けた。
見たいのか。
それとも、見てはいけないのか。
答えは、まだ出ない。
♦︎♦︎♦︎
しばらくの間、ただなんとなく鏡の中の世界を眺めて過ごした。
幸せそうに暮らす人々。
笑顔で行き交う街。
穏やかな日常。
……よかったな、と思う。
それは、嘘じゃない。
私がいなくなったあとも、世界はちゃんと続いている。
それ自体は、救いだった。
けれど――
やっぱり、気になってしまう。
私が死んだあと……王子様は、どう生きたのか。
鏡に手をかざす……そして念じる。
すると、時間を遡るように景色が揺らぎ――やがて、私の最期から間もない頃の城が映し出された。
答えは、思っていたよりも、早く示された。
私が亡くなってから、王子様は、ほどなくして侯爵令嬢と結婚した。
そして――彼女を「聖女」として公に発表した。
迷いも、葛藤の痕跡もなかった。
それはすべて、王子様自身が決めたことだった。
では、なぜ。
侯爵令嬢を「聖女」だと言っても、誰も疑わなかったのか。
……それも、すでに決まっていたことだった。
私が聖女として各地を巡っていた頃。
いつも、顔はベールで隠されていた。
それは、教会が決めたことだと――
私は、そう信じていた。
けれど、違った。
鏡に映ったのは、教会の一室。
「あの女にベールを付けさせて正解でしたね。素晴らしい提案でした、王子殿下」
司教の声が、はっきりと響く。
「そうだろう? これで、私の妃が聖女だと言っても、みんな疑わない」
司教は、一瞬だけ言葉を選ぶように視線を伏せ、それから口を開いた。
「……情が、湧くことはありませんでしたか? あの女に」
「ない。一切ない。必要なのは力だけだ。闇を消し去るためには、それで十分だろう」
淡々とした声。そこに、迷いはなかった。
「思わせぶりな態度を取っていれば、勝手に頑張るだろう?――結果、そうなった。それだけの話だ」
司教は、感心したように息を吐いた。
「……なるほど。実に、合理的です」
「感情など、無駄だ」
そう言って笑う王子様は――
私の知っている王子様とは、まるで別人のようだった。
(何故……何故? どうして……)
心は大きく揺れているのに、思考だけが静かに冷えていく。
愛されていると、信じていた。
それもまた――違った。
何がいけなかった?
貴族のマナー?
努力?
聖女としての自覚?
……力。
聖女の力が、足りなかった?
“力”があればよかった?
だったら、“力”を得ればいい。
そうすれば、選ばれる?
そうすれば、幸せになれる?
足りないなら――奪えばいい。
そうすれば、私はまた選ばれる。
そうすれば、幸せになれる。
そうだ……
ここで、光の海を見ていれば――
救世主の使命を、運命を受けた魂が、生まれる。
それを、私が見つける。
絶対に。
私のものにする。
私が救世主になる。
そして――
幸せを、手に入れる。
♢♢♢
それからの毎日は、確かな目的を持って、穏やかに流れていった。
光の海を眺めながら、私は私の“力”を探した。
天使――初めて私に声をかけてくれた彼女は、私が元気になったことを、心から喜んでくれた。
そして、仕事場を一緒に回ってみないかと、誘ってくれた。
「こうやって、魂は行くべき世界へ導かれるのです」
そう言って指し示された先には、無数の世界へと繋がる道が、静かに広がっていた。
天使になると決めたわけではない。
けれど、天使の真似事をしながら過ごし、その中で答えを見つける者もいるのだという。
私は天使のそばに立つ。
魂の流れを見守る。
導かれていく光を、ただ静かに眺めていた。
外から見れば、きっと私は前向きで、穏やかな存在に映っている。
実際、私は落ち着いていた。
確かな目的も、もう持っていた。
――そして、ある時。
他とは明らかに違う光が、目に留まった。
(……見つけた。あれが、私の“力”)
次の瞬間、天界に僅かだが異変が走った。
私が、風の流れを僅かに変えた――気づく者は、ほとんどいないだろう。
魂の流れが乱れ、光の海がざわめく。
天使たちの気配が、一斉にそちらへ向かった。
――混乱。
ほんの一瞬。けれど、私には十分だった。
こぼれ落ちた魂の流れと共に、私は行こうとした。
それなのに……私の“力”は、予想外にもふたつに割れてしまった。
(……かけらでもいい。手に入れる)
だが、触れる前に魂のかけらは、私がかつて生きていた世界へ飛び去っていった。
奪えなかった。
……なら。
同じ世界へ向かう別の魂がある。
私は迷わずその内側へ滑り込む。
存在を薄くし、気配を殺し、“同居する”という形で。
こうして私は、奇しくも元いた――聖女として救った世界へ辿り着いた。
まだ、終わっていない。
見つけ出す。必ず。
あれは、私の“力”なのだから。
来週も投稿できるように頑張ります




