第20話 ある少女の物語
私の名前は、立花美咲。
15歳の時、私は異世界に召喚された。
聞いたことのない言葉。
見たことのない空。
知らない人たちに囲まれて、ただ、怖かった。
周囲の人々は何かを話しているけれど、その言葉は一つも理解できなかった。
問いかけてくるけど、答えられない。
視線だけが集まり、居場所が削られていく感覚に、喉が詰まる。
やがて、周りの人たちとは雰囲気の違う一人の男が前に出て、奥を指差した。
そこには、大理石で作られた女神像が立っていた。
穏やかな表情で、祈るように両手を重ねている。
男は胸に手を当て、ゆっくりと頭を垂れた。
それから私を見て、同じ動作を繰り返す。
――祈れ、ということだろうか。
意味はわからなくても、それだけは伝わった。
拒む理由も、選択肢も、私にはなかった。
私は女神像の前に立ち、見よう見まねで手を組む。
何を祈ればいいのかもわからず、ただ心の中で呟いた。
(……帰りたい)
その瞬間、足元から金色の光が溢れ出した。
やわらかく、けれど逃げ場のない光が、私の身体を包み込む。
息を呑む間もなく、世界が白く滲んだ。
――なに、これ……?
そう思った“声”が、はっきりとした意味を伴って、頭の中に響く。
ざわめき。
驚きと歓喜が混じった声。
「……聞こえるか?」
「言葉が、通じているのか?」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
彼らの言葉が、はっきりと理解できる。
知らない世界の言葉を、私は――理解してしまった。
その瞬間から、彼らの視線が変わった。
期待と安堵、そして、測るような色。
「王子殿下!やはり、聖女です!」
「女神の加護を受けている」
そう囁かれながら、私は思った。
――まだ、何もしていないのに。
それからは、怒涛の毎日だった。
朝から夜まで、休む暇はほとんどない。
知らない文字の読み書き。
聖女としてあるべき姿と、その役割。
神話や歴史、女神への祈り方。
貴族として恥をかかないための、厳しい作法。
そして、必ず最後に添えられる言葉。
「世界を、救ってほしい」
それは願いというより、当然の前提だった。
私がここに呼ばれた理由。
拒むことなど、最初から許されていない。
毎日、祈った。
朝も、昼も、夜も。
女神像の前で、膝をつき、手を組み、声が枯れるまで。
祈りなさい。
祈れば、力は目覚める。
聖女なのだから。
そう言われるたびに、私は祈った。
何度も、何度も。
休む暇もない毎日の中で。
この国の王子様――あの時祈るようにと、優しく導いてくれた人――と話す時間だけが、私にとっての安らぎだった。
彼は、私を「聖女」としてではなく、一人の少女として扱ってくれた。
力のことを急かすことも、期待を押しつけることもない。
「ミサキ、今日は文字の勉強だったそうだね」
「ミサキ、無理はしていないか?」
そんな、当たり前の問いかけ。
それだけで、張りつめていた心が、少しだけほどける。
私は、うまく笑えているだろうか。
聖女として、ではなく。
立花美咲として。
王子様の前にいる時だけ、私は“役割”を忘れていられた。
帰れない現実も、背負わされた使命も、ほんのわずか、遠のく。
――だから、その時間を。
私は、疑わなかった。
王子様は、ある日、静かに言った。
「……できれば、これからも。君には、ずっとそばにいてほしい」
その言葉に、裏があるなんて思わなかった。
私を縛るための言葉だとも、聖女を手放さないための選択だとも。
ただ、必要とされたのだと思った。
異世界で、初めて。
私という存在を、望んでもらえたのだと。
だから私は、その言葉を――
素直に、受け取ってしまった。
「……はい」
小さくそう答えたとき、王子様はほっとしたように、微笑んだ。
その笑顔が、私の居場所になると、信じてしまった。
やがて私は、聖女としての力を、難なく使えるようになった。
祈れば、光が応える。
手を伸ばせば、闇は静かに消えていく。
世界を救うため、私は各地へ赴いた。
荒れた土地、魔に侵された森、涙に沈む街。
女神の名を呼び、祈り、闇を消滅させる。
そのたびに、人々は歓声を上げた。
「素晴らしい!」
「聖女様だ!」
「女神の奇跡だ!」
喜びと感謝と崇拝。
向けられる視線は眩しくて、けれど、どこか遠い。
気づけば――
誰も、私の名前を呼ばなくなっていた。
「聖女様」
それだけで、十分だというように。
立花美咲という名前は、役割の下に、静かに沈んでいった。
そんな中で。
王子様だけは、違った。
「ミサキ、今日もありがとう。お疲れ様」
その呼び方だけが、私が私でいられる、最後の証のようで。
だから私は、その声に、縋るようになっていった。
♦︎♦︎♦︎
やがて、今までとは比べものにならない闇が現れた。
空を覆い、土地を蝕み、祈りだけでは追い払えないほどの、強大な存在。
城の空気は重く沈み、人々の顔から、余裕が消えていった。
王子様も例外ではなかった。
不安を隠しきれない表情で、遠くを見つめている。
その姿を見たとき、私は思ってしまった。
――私が、頑張ればいい。
――私が、救えば。
――彼は、また笑ってくれる。
それでいい。
それだけでいい。
私は、聖女として、最後の戦いに赴いた。
光は、かつてないほど強く。
同時に、自分の内側が、確実に削れていくのがわかった。
祈り。
願い。
命。
すべてを注ぎ込み、私は、ついに――闇を打ち倒した。
その代償として。
私の身体は、もう動かなかった――
白い天蓋。
静かな部屋。
ベッドの上で、私は目を閉じていた。
誰かの手の温もりが、伝わってくる。
「……ミサキ」
王子様の声だった。
彼は、私の手をしっかりと握り、告げる。
「大いなる闇は、すべて消えた。ミサキのおかげだ。……ありがとう」
その声には、安堵があった。
使命を果たした世界の、平穏があった。
私は、ゆっくりと目を開く。
そして、王子様の――笑顔を見る。
ああ。
よかった。
彼が、笑っている。
その瞬間、私は理解した。
もう、自分の中には、何も残っていないのだと。
力も、命も。
すべて、使い切った。
それでも、後悔はなかった。
私は、最後の力で、微笑んだ。
「……王子様。 私の、光」
彼の指が、わずかに強く、私の手を握る。
「ありがとう。王子様が……あなたが居てくれたから……頑張れました」
言葉が、少しずつ、ほどけていく。
「……愛しています」
それが、私の最後の言葉だった。
世界を救った私は、静かな夜に息を引き取った。
立花美咲として。
♢♢♢
再び目を覚ますと、そこは白い世界だった。
空も、大地も、境界が曖昧で。
ただ、やわらかな光だけが満ちている。
……また、知らないところに来てしまった。
そう思った瞬間、不思議と恐怖はなかった。
疲れ切った心が、その白さに溶けていく。
ここは、天界なのだと教えられた。
世界を救った魂は、その功績を考慮され、天使になる資格を得るのだという。
すぐに決めなくていい。
焦らなくていい。
ゆっくり、落ち着いて考えればいい。
そう、穏やかな声で言われた。
天界には、下界を映す鏡があるらしい。
私は、少し迷ってから――
自分が救った世界を、見てみることにした。
鏡の中に広がっていたのは、穏やかで、平和な光景だった。
闇に覆われていた土地は緑を取り戻し、人々は笑い、街には活気がある。
どうやら、私が天界で目を覚ますまでに、かなりの時間が経過しているらしい。
世界は、ちゃんと前に進んでいた。
……それを見て、私は――
ほっとした。
少なくとも。
私のしたことは、無駄ではなかったのだと。
鏡の中に映ったのは、かつて王子様が暮らしていた――あのお城だった。
変わらない白い壁。
整えられた庭。
平和そのものの光景。
その中心に、私は“それ”を見つけてしまった。
大広間の奥。
立派な額縁に飾られた、一枚の肖像画。
そこには、成長した王子様と、彼の腕に寄り添う、美しい女性が描かれていた。
穏やかな笑顔。
気品あるドレス。
誰が見ても「幸福な王妃」の姿。
……結婚、したのだ。
胸の奥が、静かに、軋んだ。
王子様だし、仕方がないこと……と、自分に言い聞かせる。
その肖像画の前に、ふたりの子供がいた。
王子様によく似た、幼い男の子。
隣にいる幼い女の子に話している。
「この人がね、ぼくのお祖父様なんだ」
無邪気な声。
「隣にいるのは、お祖母様。世界を救った、聖女様なんだよ」
「聖女様? 綺麗!」
……え?
思考が、止まる。
「聖女様と、お祖父様は結婚したんだって。すごいよね」
「わぁ!素敵ね」
違う。
その女性は――私じゃない。
聖女は、私だ。
喉の奥が、ひりつく。
声にならない叫びが、胸の中で暴れる。
違う。
違う、違う、違う!
――その人は、私じゃない。
その瞬間。
ふと、記憶が蘇った。
優しいが、どこか誇り高い微笑み。
背筋を正し、扇子を持つ所作。
私に、貴族のマナーを教えてくれた女性。
……侯爵令嬢。
「聖女として恥をかかないように」
そう言って、私を導いた――あの人。
肖像画の女性は、間違いなく、彼女だった。
私の代わりに。
聖女として、歴史に残ったのだ。




