第2話 重なる思い
意識が深い闇からゆっくりと浮かび上がる。
窓の外は暖かい陽射しの中、オレンジ色の花がまだ風に揺れている。
イグナリエル伯爵家の離れ――質素な天蓋の無いベッドの上で、エルリーナは重たく感じる瞼を開いた。
体はまだ熱に疲弊していて鉛のようにだるい。だが、喉の渇きがどうしようもなく目覚めさせた。
「…水…あるかな…」
細く掠れた声が漏れる。
いつものエルリーナなら枕元のベルを鳴らして侍女を呼ぶところだ。だが今の彼女の中にはもうひとりの感覚があった。
(そういえば…テーブルの上に水差し…あった…)
その思考は間違いなく里奈のもの。
日本では施設を出てからずっと1人で暮らしてきたのだから、自然な行動だ。
フラフラと身体を起こし足を床に下ろす。
ひんやりとした感触が伝わってくる。
立ち上がった瞬間視界が揺れる――
それでもなんとか踏み出してテーブルへ向かうが、数歩も行かぬうちに膝から崩れ落ちるように倒れてしまった。
「――っ!」
小さな悲鳴と共に床に倒れる音が廊下に響く。
その音に気がついたのは廊下の掃除をしていた侍女、ミリアだった。
「お嬢様!?」
声を上げ慌ててドアをノックするが返事はない。そっとドアを開けて部屋を覗くと――
「大変!オルガさんっ!」
叫ぶ声に応じて、もう一人の侍女のオルガが駆け寄ってくる。
「お嬢様!――ミリア、手をかして。慎重にね」
ふたりは倒れたエルリーナを再びベッドへ戻す。
「どうされたのですか? 何か御用がある時はベルを鳴らして下されば…」
ミリアの声は少し震えていた。
出窓には白猫がいつの間にか座っていた。
最初からそこにいたかのように自然な存在で、侍女たちも特に気にする様子はない。
ただ静かに、金色の瞳でエルリーナを見つめている――セラだった。
ベッドに戻されたエルリーナは、荒い呼吸を繰り返しながら微かに唇を動かした。
「み…水が飲みたくて…」
「はい! すぐに!」
ミリアが素早く水差しとカップを手に取り、オルガが背を支える。
こぼさないように慎重に口元へ運ばれた冷たい水が喉を潤す。
「…ありがとう…ございます」
掠れた声でそう呟くと、再び瞼が重たくなる。
『無理をするな』
耳ではなく、頭の中に直接響く声。
(…? その声は…たしか…セラ…?)
『まだ完全には魂が融合していない。焦らなくていい』
白い猫がじっとこちらを見ていた。
『少しずつ馴染む。今は休め』
(…わかった…)
心の中で頷くとエルリーナの意識は水に溶けるようにゆっくりと沈んでいく。
「お嬢様…眠ったようです。本邸のほうはどうでしたか?」
ミリアが心配そうにエルリーナの額に濡れた布を置く。
「ダメだったわ…とりあえず、様子を見ましょう。」
オルガが少し考えながら小声で言った。
♦︎♦♦
それからエルリーナは再び深い眠りと浅い目覚めを繰り返す日々に入った。
熱はさほど高くないが、体が弱いため長く起きていることはできない。
しかしその眠りの合間に、彼女はいつも同じ夢の中へと引き込まれていった――
夢の中――
そこには大きく立派な木があって、すぐ下にはゆったりした柔らかそうなソファーがある。
隣同士で座るのはエルリーナと里奈。
「……まだ熱下がらないね……」
里奈が心配そうに見つめる。
「そうね……でも微熱だから大丈夫」
エルリーナは柔らかく微笑む。
二人はお互いの記憶を少しずつ語り合った。
「ねぇ。エルリーナ。両親のこと、覚えてる?」
エルリーナは4歳まで共に過ごした両親の思い出を語った。
楽しかったこと、叱られたこと、母の優しい温もり…父親の温かい眼差し…
「たった数年でも愛されていたことは忘れないわ。」
そう話す彼女の声はどこか懐かしさを滲ませていた。
「いいね。なんだか心が温かくなる…私には親がいなかったからなー。」
「里奈は? どんな日々を過ごしていたの?」
里奈は日本での日々を語る。
日々の生活に追われ、いつも疲れていた気がする…でも――
「…たまーにある休みには、お世話になった施設に行って、子供たちとみんなで走り回って遊んだり、料理したり、本読んだり…たくさん遊んだなぁ…」
「わぁ楽しそう! 私はあまり外で遊んだりできなかった…すぐ熱が出てしまって…」
語り合うたびに相手の記憶が自分のものとして染み込んでいく。
楽しかった瞬間も、苦しかった瞬間も、二人で分かち合いひとつの魂のように馴染んでいった。
――あなたがそばにいてくれる、から私は強くなれる
――私たちはふたりでひとつだもの
夢の中でふたりは優しい光に包まれていく。
そうして一週間ほど過ぎる頃、エルリーナと里奈の記憶、心、感情は完全に溶け合い、もう互いの境界を意識することは無くなっていた。
弱さも強さも全て抱えた新しい「自分」が静かに息をしていた。
出窓には白猫が尾をゆっくりと揺らしながらじっとその魂を見守っている。
金色の瞳はようやく本当の意味でひとつになったことを確認して、わずかな安堵の色が浮かんでいた。
♢♢♢
真夜中、ふと目を覚ます。
「ねぇ、セラ。起きてる?」
『なんだ?』
出窓に寝そべっている白猫が耳だけ動かして答える。
セラの声はエルリーナの頭の中だけに届く。
「聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
『言ってみろ』
エルリーナは一呼吸おいてから話し始めた。
「私ってこの世界に生まれる予定じゃなかったんでしょ?」
『そうだな…』
「でも私には両親の存在、ぬくもり、記憶がある…」
うむ、とセラは顔を上げてエルリーナを見る。
『子供が欲しかった男女、そこに波長の合う魂がやってきて引き寄せ合ったのかもな』
「父様と母様は…私を引き寄せた?…のかな?」
『どうだろうな…タイミングがよかったんじゃないか?』
「そっか…」
出窓から降りて、ベッドサイドの椅子に乗るセラ。
『どんな命でも、生まれればその人の歴史は紡がれる』
「私にも歴史が紡がれているってことか…」
エルリーナは天井を見上げて、
「記憶にある父様と母様は本当に存在していて、私を愛してくれていたってこと。」
『そういうことだ…もう寝ろ』
「…うん。明日から頑張る。生きていくね。」
セラは出窓に戻る。
そこに置いてあるクッションの上で寝るようだ。
エルリーナは瞳を閉じ、胸の奥にいるもう一人の自分に感謝して眠りについた。
セラ(白猫)の存在は、まるでずっと前から離れに住みついているような認識になっています。監視者のスキルのようなものです。




