第17話 解け始めた心
馬車は、ゆっくりとイグナリエル伯爵家の門をくぐり、静かに止まった。
道中、私はオルガから――学園に行っているあいだの伯爵家の様子を色々と聞いていた。
本邸の使用人たちは、オルガとミリアに冷たくすることもなく、むしろ温かく迎えてくれていること。
ミリアは、年末の夜に交わした約束どおり、毎日一生懸命に励んでいること。
バルドは、私が戻ったときにまた弓術を教えられるよう、鍛練を欠かしていないこと。
そしてオルガ自身は、侍女長のマルタに付き、新しい仕事が増えたぶん、毎日がとても充実していること。
今回、伯爵夫妻に随行しているのがエリオットとオルガなのは――
いつも同行するハロルドが、ぎっくり腰で動けなくなってしまったからだという。
馬車が静かに止まった先は、なぜか本邸の玄関前だった。
「オルガ……離れまでは、このまま歩いていくの?」
けれど、返ってきた言葉は、予想もしないものだった。
「いえ、リーナ様。今日は本邸にお入りください。そして、周りの目もありますから、邸内ではエルリーナ様と呼びますね」
「え?……あ、そうか……そうだね。 でも、本邸に入っていいのかな?」
足が止まり、少しだけ緊張する。
離れに戻るつもりでいたから、心の準備が追いつかない。
オルガに案内され、本邸の廊下を歩いていく。
どこへ向かうのか分からず、落ち着かない。
「こちらです、エルリーナ様」
オルガが扉を開けると、そこには――整えられた一室があった。
「……え? ここ……誰の部屋?」
「エルリーナ様のお部屋です。本日から、こちらをお使いくださいと、旦那様と奥様より」
「……私の……?」
言葉がうまく出てこなくて、ただ立ち尽くした。
離れではなく、本邸に、しかも最初から“私の部屋”として整えられている――
部屋の中は、華美ではないけれど、温かい木の色を基調にした、落ち着いた空間だった。
控えめな刺繍のクッション、柔らかい色合いのカーテン。どれも派手さのない、上品で静かな飾りつけ。
(……なんだか、母様の趣味に似てる)
幼いころに見た、母様の部屋の雰囲気。その穏やかさとよく似ている。
「今日は、体調を考えて……お夕食は、こちらで召し上がるようにとのことです。すぐに準備いたしますね」
驚きと戸惑いの中、オルガの言葉がやさしく耳に落ちる。
用意された夕食は、部屋でゆっくりといただいた。
とても美味しいけれど、食べながらも胸の奥がざわざわとして、箸が進まない。
「エルリーナ様……あまり召し上がれませんね。体調がまだ悪いですか?」
オルガがそっと心配そうに声をかける。
「ううん……大丈夫。今日は、色々あったからかな……料理長さんには、美味しかったと伝えてね」
私は少し照れくさそうに微笑み、そう答えた。
「はい。承知いたしました」
心の中では、まだ驚きや戸惑いが混ざったままだった。
「エルリーナ様、旦那様と奥様が、もう少ししたらお部屋にいらっしゃる予定です。体調は大丈夫ですか? 明日に変更することもできますが……」
「今日がいい。私も聞きたい事があるから」
胸の奥のざわめきが少し落ち着いたのを感じながら、私は静かに答えた。
オルガは微笑み、そっと頷く。
しばらくして、静かなノックの音が扉から聞こえた。
思わず肩が少し強張る。
私はオルガに目配せすると、オルガは静かに頷き、扉をゆっくりと開ける。
扉の向こうに、伯爵夫妻の姿があった。
セラフィナ様の側には、控えめにマルタが付き添っている。
「……」
そのまま部屋に入った伯爵夫妻は、どこか緊張を含んだ様子で私を見つめている。
伯爵夫妻と私、向かい合わせでソファーに座り、沈黙が部屋にゆっくりと流れた。
マルタとオルガが、お茶の準備をしている音だけが、部屋に響く。
そして、目の前に置かれたお茶を見ながら、そろそろ私から切り出したほうがいいかもしれない――そう思って、そっと口を開こうとした、その瞬間。
「……エルリーナ。今日は、私を庇ってくれてありがとう。怪我の具合はどうかしら?体調は?」
先に声を発したのは、セラフィナ様だった。
いつもとは違う口調に戸惑ってしまう。
「だ、大丈夫です。傷も浅かったので、跡も残らないそうです」
「そう、よかったわ。……」
その声音は張りつめていて、けれどどこか震えていた。
「エルリーナ、今までのこと……ごめんなさい……私の過去の過ちを、聞いてくれる?」
私が頷くと、セラフィナは両手を膝の上で組み、視線を落としたまま話し始める。
その内容は――
セラフィナとオーレリアは親友だった。
学園に入ったころからマーカスへひそかに想いを寄せていたセラフィナのために、オーレリアはさりげなく動いた。
マーカスの双子の兄、セドリックと話すきっかけを彼女が作ったことで、自然と四人で過ごす時間が増えていった。
いつの間にか、二組の並びが形になった。
――オーレリアとセドリック。
――セラフィナとマーカス。
それは、ごく自然に、当たり前のように思っていた。
だが周囲は、セドリックが伯爵家を継ぐだろうと噂し、伴侶はセラフィナだろうとも言った。
しかしセドリックはオーレリアと共に貴族を捨てた。
そのことでセラフィナは、「親友に男を取られた令嬢」と陰口を叩かれ、オーレリアとの別れの際には、ひどい言葉を口にしてしまった。
「あなたと、義理でも姉妹になれると思ったのに……
平民として生きるなんて無理に決まってる!
ましてやハンターなんて野蛮だわ!
私はマーカス様が好きなのに、あなたのせいでこんな噂を……!
オリィ、あなたはもう親友なんかじゃない!
二度と私の前に現れないで!」
その声には怒りと悲しみが混ざっていた。
それがオーレリアと話した、最後の言葉だったと――
「本当に……もう会えなくなるなんて……思わなくて……」
そう呟くと、セラフィナ様は肩を震わせ、静かに涙を流した。
横で見守っていたマーカス様は、そっと手を伸ばし、セラフィナ様の手を優しく握る。
「エルリーナ……あなたを見ると、オリィに言ってしまった言葉を思い出してしまって……うまく感情が制御できなくて……ごめんなさい」
しばらく黙っていたマーカス様も、ゆっくりと口を開いた。
「……私も、間違っていた。兄と比べられることが怖かった。お前を見るたび、自分の弱さを見透かされているようで……」
低く沈んだ声に悔いが滲む。
「遠ざければ楽になると……愚かにもそう思っていた。……私の不安を、押しつけてしまったんだ」
その言葉には、長いあいだ抱えてきた迷いが滲んでいる。
「そうだったんですか……」
(だからあんな風に、私を遠ざけていたのね)
静かな沈黙が落ちたあと――
私は母様の日記にあった、ある日の出来事を思い出しながら、そっと口を開いた。
「……お二人は、結婚式で大きな虹を見ましたか?」
私の問いに、マーカス様もセラフィナ様も、少し戸惑った表情を浮かべながら頷いた。
「……ああ、見た。オーレリアの虹みたいだなって」
と、マーカス様。
「見たわ……学生の頃、オリィに見せてもらった虹に似てると思って」
と、セラフィナ様。
二人は思わず互いに目を見合わせていた。
「母様の日記を保管してくださっていた方が、最近、私に託してくださいました」
その言葉と同時に、セラフィナ様の瞳からまた涙がこぼれた。
「おふたりの結婚式の日、父様と母様は変装して、こっそり見に行ったそうです」
「リックが変装……? 見たかったな」
マーカス様が小さくつぶやく。
「母様は、直接お祝いを言えない代わりに……虹を出した、と」
「……やっぱり、そうだったのね。オリィ……」
セラフィナ様は涙を拭いながら、懐かしげに微笑んでいた。
「緊張して難しい顔をしているマーカス様が、父様に似ているって書いてありましたよ」
「え? そ、そうか? はは……双子だからな」
「ふふふ」
ふたりは顔を合わせ、小さく笑った。
「セラフィナ様は、母様のこと……今でも親友だと思っていますか?」
「当たり前よ! 私の親友はオリィだけよ!……で、でも、オリィは……」
身を乗り出した勢いがしぼんで、セラフィナ様はそっと座り直した。
「母様は、ずっとセラフィナ様を親友だと思っていると、幸せを願っていると……そう書いてありました」
「っ……!」
口元を押さえたセラフィナ様は、そのまま泣き崩れ、
マーカス様がそっと寄り添って支えていた。
その時、静かなノックが扉の向こうから聞こえた。
マルタがそっと扉を開けると、エリオットが立っていた。
学園の救護室から、お薬を届けに来てくれたようだ。
マーカス様は涙を拭うセラフィナ様に目をやり、そして私へ向き直る。
「……すまない。話が長くなってしまったな」
落ち着いた声で、けれどどこか気遣うように言葉を続ける。
「今日は、本当にありがとう、エルリーナ。ゆっくり休んでね」
そこには、柔らかく笑うセラフィナ様がいた。
♦︎♦︎♦︎
ふたりが部屋を出て行ったあと、エリオットは薬の包みと一緒に、一通の封書をテーブルに置いていった。
差出人は――ルーカス兄様。
私はソファーに座り直し、手紙を読んだ。
「オルガ……ルーカス兄様、ちょっと怒ってるかも……」
ティーセットを手際よく片づけながら、オルガが振り返った。
「え?“ルーカス兄様”とお呼びになっていらっしゃるのですか?」
「うん。学園で話して……そう呼ぶようになったの」
「まぁ……!それは本当によかったですね。ですが――無茶をなさったのですから、叱られて当然ですよ」
「……だよね」
優しく微笑んでくれるけれど、言うべきことはきちんと言う、そんなところがオルガらしい。
「それから、上級生の試験は、明後日に延期になったみたい。体調が良くなって、大丈夫そうなら観においでって書いてある」
その時、控えめなノック音が響く。
「誰かな……?」
私が小さくつぶやくと、オルガはふっと笑みを浮かべ、返事をせず扉を開けた。
「エ、エルリーナ様……! お、お休みになる前の果実水を、お持ちしました……!」
そこに立っていたのはミリアだった。
今にも泣きそうな顔で、笑っている。
「ミリア。落ち着きなさい。普段はきちんとできているでしょう?」
オルガが呆れたように優しく注意する。
「は、はい……すみません。でも……リーナ様に会えて……嬉しくて」
ミリアは耳まで真っ赤になって、果実水を差し出してくる。
やっぱりミリアは素直でかわいい。
「ありがとう、ミリア。会えて嬉しいわ」
顔を上げたミリアの瞳が、ぱっと輝いた。
「リーナさまぁ!」
オルガはその横で、仕方ない子ですね、と微笑ましげに息をついていた。
♢♢♢
初めて眠る、本邸の――“私の部屋”。
天蓋付きのベッドは初めてで、どうにも落ち着かない……
疲れているはずなのに、目だけが冴えてしまっていた。
そっと寝返りを打ったその時、ふわりとベッドの端が沈む気配がした。
「……セラ? やっと来たんだね」
『ああ。少し念入りに見回りをしていた』
いつもより声が低く、どこか慎重な気配がある。
「今日は本当に色々ありすぎて……疲れているのに、眠れなくて」
『そうだな。……怪我は、大丈夫か?』
「うん。ちゃんと治療してもらったし、もう痛くないよ。……どうしたの?」
セラの声がいつになく小さく沈んだ。
『……守れなくて、すまない』
「セラ……天使は、存在を隠したり、誤魔化したりは出来るけど、干渉はできないんだよね? 大丈夫、わかってるよ」
『それでも……すまない』
(だから、念入りに見回りをしていたのかな?)
『伯爵家の周りには、怪しい気配はなかったから、安心しろ』
そう言って、私のベッドの隅に丸くなってしまった。
いつもは離れて寝るのに、珍しい。
その丸まった小さな背中を眺めているうちに、私はようやく、まぶたが重くなっていった。
「ありがとう、セラ。おやすみ」
こうして――初めての“私の部屋”で、そっと眠りに落ちていく。
読んでいただき、ありがとうございます。
また来週投稿できるように頑張ります。




