第12話 心の波紋
ルーカス兄様のことを、頭の隅に追いやるようにして、私は図書館で借りた本を胸に抱き、寮へと歩いた。
夕暮れの光が校舎の石壁を淡く染め、春の風が髪を揺らす。
ヴェリテ寮の玄関ホールに入ると、帳簿を手にしていた寮付きのメイドが顔を上げ、微笑んだ。
「おかえりなさいませ、イグナリエル様。お荷物が届いております」
「……荷物、ですか?」
思わず首を傾げる。誰からだろう。
受け取った小包は、両手に収まるほどの小さなものだった。添えられた封筒の筆跡に、見覚えがある。
「……オルガ、ミリア、バルド……」
小さく名前を口にすると、胸の奥がじんと熱くなる。
「ありがとうございます!」
自然にそう言うと、メイドは一瞬目を瞬かせた。
「えっ……あ、いえ、その……当然のことを」
少し慌てた様子に、私は思わず小さく笑った。
包みを胸に抱え、私は自室の扉を開けた。
鍵をかけ、机の上に置くと、静かな部屋の中で紙をほどく音がやけに大きく響く。
中には三つの贈り物があった。
花模様の櫛は、オルガらしい優しい選び方。
刺繍入りのハンカチは、ミリアが一針ずつ丁寧に縫ったもの。小さな手の温もりが残っている。
そして、押し花で作られた栞――バルドの庭で見た春の景色が、そのまま閉じ込められているようだ。
添えられた手紙には、それぞれの言葉が並ぶ。
「リーナ様、お元気ですか」
「お誕生日、おめでとうございます」
「また会える日を楽しみにしてるぞ」
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
そうだ――今日は、私の誕生日だった。
すっかり忘れていたけれど、離れで過ごした日々の記憶がよみがえり、涙がにじむ。
「……ありがとう」
小さくつぶやくと、手にした贈り物たちが、まるで心を包むように輝いた。
春の光が机の上の櫛や栞やハンカチをやわらかく照らし、静かな部屋に穏やかな時間が流れる。
――窓辺では、セラが尻尾をゆるやかに揺らしながら、その光景を見守っていた。
♦︎♦︎♦︎
今月から、午後の選択学科が始まる。
「えーと、魔術科は週の一日目の4限と四日目の4限、薬師科は二日目の5限と四日目の5限……」
自分の時間割を確認しながら、少し緊張する。
共通学科の基本魔術は、リディア・フェルン先生が担当している。
穏やかな雰囲気で笑顔を絶やさないが、その裏には授業を妥協なく見守る厳しさがあるのがわかる。
学園に入学できるとわかった時から、魔術科は一番楽しみにしていた。
(今日、初めての魔術科の授業……主任のあの先生かな……)
胸の奥が少し高鳴る。期待と不安が混ざった感覚を抱え、午前中の授業を終えた。
――そして、午後の選択学科の授業が始まった。
アメリアは魔術科を選んでいないため、私は教室の後ろの席にひとり座る。
もちろん、周りのひそひそ声も耳に入る。
「イグナリエル伯爵家って……」「やっぱり“炎の伯爵家”の……」
心の奥で小さくため息をつくが、それより気になるのは、今日の担当の先生が誰かということだった。
扉の向こうから、靴音が二つ、近づく。
その瞬間、教室のざわめきがぴたりと止まった。
「静粛に」
低く、よく通る声。
入ってきたのは、背の高い男性。
短く整えた暗緑の髪に、薄茶の瞳。厳つい顔立ちだが、その視線は冷静で無駄がない。
(……この人が魔術科の先生?)
男性の後ろには、見慣れたフェルン先生が続く。
柔らかな笑みを浮かべ、今日は少し引き締まった表情だ。
「本日から、選択学科“魔術科”を担当する――マーティン・ヴァレンティスだ」
その声には風のような鋭さがあった。
「授業中に無駄話をする者、指示を無視する者は容赦なく退室。以上だ」
ヴァレンティス先生の短い自己紹介のあと、フェルン先生が一歩前に出る。
「補佐を務めます、リディア・フェルンです。皆さんが安全に魔術を学べるよう、全力で支えます」
その優しい声に、教室の緊張が少しほぐれた。
でも空気はまだ張りつめている。
前の席のSクラスの生徒が、青ざめて小声をもらす。
「ヴァレンティス先生なのかよ……」
(怖い先生なのかな?)
私は少しほっとしたが、胸の奥に小さな落ち着かなさも残る。
ヴァレンティス先生は気にも留めず、黒板の前に立つ。
「まずは君たちの“特化属性”を確認する。演習場に移動だ」
教室の空気が一気に引き締まる。
(特化属性……)
私も姿勢を正す。
今日から本格的に始まる魔術科。胸の鼓動が少し早くなる。
演習場に全員が入り、フェルン先生が魔道具に手をかざす。
空気が微かに振動し、光の線が地面を走る。
瞬く間に演習場全体を覆う透明な結界が完成。
「これで安全に魔法を試せます。外に漏れる心配はありません」
ヴァレンティス先生が頷き、低く通る声。
「魔力操作を基本魔術で習っただろう。手元に魔力を集中して、一番展開しやすい属性があるはずだ」
私は胸の奥で高鳴る鼓動を押さえ、手のひらに意識を集中。
(私の力は……水。それでいい)
指先に集まる魔力が静かに流れ、淡い水がふわりと浮かび上がる。
陽光を受けて細やかな光が瞬き、小さな星が散ったように見える。
生徒のほとんどはその違いに気づかない。
「炎の伯爵家なのに、水だけかよ……」
背後で小声が漏れる。
ヴァレンティス先生の視線が音もなくその方向を射抜く。ざわめきはすぐ消えた。
フェルン先生が静かに息を呑むのが見えた。
視線の先で、ヴァレンティス先生も僅かに目を細める。
二人の教師の間に、言葉にならない何かが流れた。
(……見られてる?)
私はそっと水の魔力を収める。
「よし、確認はできたか?」
演習場のあちこちで、焦る声や成功して笑う声が混ざる。
フェルン先生は穏やかに助言し、ヴァレンティス先生は的確に指導。
私は胸の奥で小さく息を吐く。
(……乗り切れた、かな)
指先の水の光を手の中に閉じた。
まだざわつく周囲をよそに、深緑の髪を揺らし静かに歩く人物が――。
氷のように澄んだ瞳を持つ、風と水の二属性の“暴風の公爵家”の嫡男。
ラファエル・グランデル。
「……イグナリエル伯爵家の令嬢が、水の魔術とは、少し意外だね」
思わず後退りする。
「え…はい。水の魔術が一番扱いやすかったので……」
ラファエル様はじっと見つめるだけ。特別な感情はなく、純粋な疑問の眼差しだ。
「何故だろうね……炎の伯爵家なのに、水を扱いやすかったのか?」
「……よし。全員、特化属性の確認はできたようだな」
ヴァレンティス先生の低い声が演習場に響く。
「今日はここまでにしよう。少し早いが、魔力を使えば疲労もあるだろう」
隣でラファエル様が口を開こうとする。
「……さっきの、水の――」
けれど、その声を遮るように柔らかな声が響く。
「エルリーナさん、少し講師室に来てくれる?」
振り向くと、フェルン先生が微笑む。
ラファエル様は一瞬こちらを見たが、何も言わずに下がる。
私は小さく会釈し、胸の奥で息を吐く。
フェルン先生の後について演習場を後にする。
廊下に出ると、外よりひんやりした空気が肌を撫でる。
沈黙が少し重く感じ、思わず口を開く。
「……あの、私に何か問題でもありましたか?」
「そんなことはないわ。少し確認したいことがあるだけ。心配しないでね」
優しく微笑む先生を見ても、不安は消えない。
講師室の扉を開けると、静かな空気と紙の匂いが広がる。
先生に促され奥へ進むと、重厚な扉の前で立ち止まった。
「主任室」と刻まれた銘板が目に入る。
(主任室……?)
緊張が喉の奥で小さく鳴る。
「連れてきました」
フェルン先生が一礼すると、ヴァレンティス先生は短く頷き、奥の人物へ視線を向ける。
「主任。水属性の魔術を使った生徒の中に、少し気になる光を放つ者がいまして」
「へぇ……光が、ね。それは面白そうだ」
机の向こうで書類を閉じたのは、肩下まで伸ばした白髪をひとつに結び、左に流した年配の男性――魔術科主任、ルキウス・リュミエール先生。
柔らかな笑みを浮かべながらも、どこか掴みどころのない雰囲気をまとっている。
フェルン先生が一歩前に出て、私の背を軽く押す。
「この生徒です」
「え、あの……エルリーナ・イグナリエルと申します」
思わず声が震える。
「イグナリエル……“炎の伯爵家”か。珍しいね。水属性とは――」
ルキウス先生は気の抜けたような調子で言いながら、何気なく私を見つめ――ふと目を見開く。
「……オーレリア?」
空気が、一瞬で凍りつく。
フェルン先生とヴァレンティス先生が、思わず主任を見る。
私は何が起きたのか分からず、ただ固まる。
「……あ、いや。失礼」
リュミエール先生は軽く咳払いをして目を伏せる。
けれど、その表情には確かに、動揺の色が残っていた。
胸の奥がざわつく。何が起きたのか整理しきれないまま、私は静かに息を吐いた――これから、何が始まるのだろう。




