Day8, Sep. Kommt Zeit, kommt Rat.
最後のおまけみたいなパートに若干下品な要素が入っているので、苦手な方は読み飛ばしてもらえると幸いです。
――東区。カンディア島。
夏はからっとした暑さで、その分冬は湿っていて比較的暖かい。今は9月だから、照り付ける日差しがまだ痛いくらいの季節だ。お肌のことを気にするなら長袖がいいけど、外を歩き回るなら半袖の方がいい、といった具合の気温に汗ばむ。
久しぶりに私服に袖を通し、帽子を被って歩く。
薫る潮風と、青々とした空に手を伸ばすかのように聳え立つ校舎を曝け出した肌で感じながら。
やっぱり、私はここではただのよそ者で、少し寄っては帰っていくだけの存在なんだと痛感させられる。
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今回の寄港では下船することを決めていたから、この場所について予め尋ねておいた。といっても船上で聞けることもたかが知れている。だから小旅行の目的は2つだけ。1つは既に達成してしまったのだけど。
「メェーッ」
如何にも間の抜けた声で鳴いている、が、それがまた一種のかわいらしさのようなものを醸し出している。この動物の名前はアイベックス。これを見ることが私の1つ目の目的だった。似たようなものなら母国チステードの南部に生息しているらしいのだが、当然見たことがないので、新鮮な感覚だ。
鳴き声からして分かる通り、ヤギの仲間ではあるのだが、私が知っているヤギと比べると、角がとても長い。そして体がデカい。
「メェーッ」
そして何よりも特筆すべき点は、ずっと私について来ていることだ。
いや、ここがまだ都市から抜けていない場所であることの方が重要かもしれない。
学園は休暇中で都市の人通りも少ないことも考慮すれば――
――これ、逃げないとマズイのでは?
いやいや、てかなんでこんな町のど真ん中に動物がいるの? このサイズどう見ても家畜じゃないよね? 山ヤギだよね?
周りを見ても人っ子一人いないし。もっと外を歩け! 万物の始まりは外の世界と触れることでしか味わえないのだよ。だからさっさとアルケー、なんつって。
って、なんで今よくわかんなかった哲学の話を思い出してんの! 公子サマが紹介してくれたおっさんのしょーもないダジャレなんてどうでもいい。
こういう時こそ冷静に。メッサナの冷製パスタ食べておいた方がよかったかな......じゃなくて! 走馬灯みたいな回想も要らないから! 普段はダジャレなんて思いつかないのに、なんでこういう時にだけポンポン思い浮かぶのか。混乱していることの現れとも言える。
「メェーッ」
真剣に人が考えている時になんで間抜けな声で鳴くかなぁ。そこがかわいいとさっきは思ったけど、かえって鬱陶しくなってきた。
少し歩くスピードを速めてみる。少ししてから後ろに振り返ってみると――
こちらもまた歩くスピードを速めたアイベックスがいる。
思えば、下船したのがそもそもの間違いだったのかもしれない。
正直、言語が通じないとことがどれだけ大変なことなのかを知らなかった。公子サマは何食わぬ顔で寄港地に下船して帰ってきてたけど、あの人の無駄な高スペックさ加減を舐めていました。多言語話者
カンディアの文字は特に。チステードの文字の起源はここにあるらしいが......今私がいる場所は学園地区から離れた、地元住民の居住地区に当たるから、表記が世界語ではないのだ。「Δ」とかどう読んだらいいのか分からない。「三角形」とでも読めばいいのだろうか。
簡単な挨拶くらいは覚えてきたけれども、通じるかどうか......
私がこうして色々と考えを巡らせているうちにふと、背中側に妙な温かさと、そして服が引っ張られているような感触がして、振り返る。
振り返りながらも薄々感じてはいたが、実際に見てみるのとは話が別だ。
――そう。アイベックスが、私の服を噛んでいたのだ。
「怖い!」という危険信号が体を駆け巡る。こんなベイ〇ックスみたいな名前をした動物のせいで死にたくない!
私は大声を上げる。いつもの私なら一度手が出た後に声が出てくるのだが、近くにいるとより長く、太く、大きく見える角のせいなのかもしれない。鋭い叫び声が出た。
すると、アイベックスの体が一瞬硬直した。私はその隙に口に挟まった服を引っ張り出した後駆け出し、アイベックスから離れられたと思い一瞬安心する。
――野生動物に大きな音は厳禁です。驚いてこちらに危害を与えてくるかもしれません。
でも、この言葉を思い出した時には全てが遅かった。アイベックスは一際大きく「メェーッ‼」と鳴くと、こちらめがけて突進してきた。
だけど、私が叫んだことは完全に悪いことでもなかった。私の叫び声を聞いて、家の中から誰かが出て来た。
『こんにちは!』
この危機的状況で、挨拶しかできないのは語学力的にしょうがない。しょうがないのだが、間抜けだ。
だが私のことを認識はしてくれたようで、彼女は家の中に再び入り、ドアから手だけを突き出している。あそこまで走ってきた私を中に引き込んで助けるといった算段だろう。
私は必死になって走る。と同時に、気付くことがある。
――よく見たら、手に何か握られている。何か青々しい物......草?
訳も分からず、思わず立ち止まる。アイベックスが私からまだ離れていることを確認して、そっと、その走るラインから逸れてみると、アイベックスは私の方に向かってこない。アイベックスは、彼女の手に握られた草だけでなく、いつの間にか出来上がっていた草の山めがけて走っていく。
私を追い越して、幸せそうに草を食べる姿を見ていると、これまでの私の気苦労とは何だったのかと、嘆きたくなるような気分になるけれど、奥から草の女性が出てくる。
「こんにちは」
私は驚いた。なぜなら――
「なぜ私がチステード人だと分かったんですか?」
彼女が挨拶に使ったのはチステード語だったからだ。
「顔でなんとなく分かるものでしょう? それと、ここのグリシオス語の訛りは他の地域と比べても異質なんだけど、あなたの話し方は大陸の訛り方だったから、きっとここのことをよく知らない人なのかなと思って」
私の付け焼刃の知識は役に立ったということにしておこう。
「あなたもチステート人なんですか?」
「ええ」
この島に降りてから初めてチステード人と話をしたから、少し嬉しかった。
でもよく考えてみれば、私と同い年くらいのこの少女はなぜこんな所にいるのだろう、と疑問に思えてくる。おそらく彼女は学生なのだから、学生区に住んでいるはずなのに。
でも、この疑問は飲み込んでおくことにした。私はここからは日が暮れないうちに経ってしまうのだから、ここは深入りするべきじゃない。
「あの、このアイベックスは家畜なんですか?」
「勝手に懐いたのよ。こうやって時々餌をあげてるだけなんだけどね。それにしても、よくアイベックスなんて名前知ってるわね」
「事前に調べてたので」
勉強熱心なのね、と言って笑った彼女は、アイベックスの毛並みを撫でて話し始める。方言を知らなかったことに対しての皮肉のようにも思える文面だけど、彼女の話し方は自然とそういった気を起こさせなかった。
「優しい薄茶色の毛皮が本当に可愛いのよ、クリクリは」
クリクリというのは地元住民からの愛称らしい。奥から中に入るよう促す声が聞こえてくると、彼女は一緒に昼食をとることを勧めてきた。かける迷惑のことも考えたけど、私のもう一つの目標のことも考えると、情報は地元の人が持っているだろうし、断らない方が良いかも。どこかのタイミングで聞き出そう。
こうして中に入ると、思っていたよりも多く人が集まっていた。仕事はどうしたのかとも思ったけど、学園を建てるとき、当然地元住民の土地を買い取って建てるわけで、それによって農業などの生業が奪われた人もいる。そういう人は学園の職員になるのだ。
今は学園が休みの期間だから、職員も休みになるので、相当数の島民が暇を持て余すことになる。平日の昼間に人が集まるのはそういうからくりがあったわけだ。
椅子に座って待っていると、続々と料理が出て来た。そのどれもが、オリーブや魚介類などの地元の食材をふんだんに使った料理。
一際目立つのは、中に野菜が詰まったパイだ。肉が入っていないパイがメインで出されることに違和感のようなものを感じるが、中には肉厚の野菜がぎっしりと詰まっていて、そこからあふれ出る汁はまるで肉を食べているかのような錯覚を覚えさせる。
私は実に9日ぶりに、陸上で食事をしたのだった。
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一通り食べ終わった後、彼女と故郷についての話になった。
「私の故郷は小麦畑しかないような田舎町で、私にとっての都会はシュベリーンでした。連絡船の仕事についてからそこさえも田舎だと分かった時は驚きましたけど」
「もし私があなただったら、自分が慣れ親しんだ場所から離れたくないと思うわ。そんな中で頑張ってるあなたはすごいじゃない。仕事は楽しい?」
「楽しいか、ですか。今まで考えたこともありませんでした」
働くということは、生きるということ。私のまだ短い人生の中で得た教訓だ。そして、それ以上でも以下でもない。
「あなたがそこまでして得た仕事が、苦しいものだったら嫌じゃないかしら?」
私は船上での出来事を少し思い浮かべてから話し始める。
「人がやりたがらなかったり、できないことをしたりから、お金がもらえて、雇ってもらえるんだと私は思うんです。もちろん度が過ぎてはいけませんけど。だからこの仕事をする上で苦しいことがたくさんあることは確かです。
それでも、楽しいというか、笑えるようなことがあるのも確かなんです。聞いてくださいよ、私、ザクス=エルンストの公子様と知り合いなんですよ。時々というかかなりうざったい時もありますけど、面白いところもある人なんです」
すると、彼女は驚いて叫ぶ。
「あなた、公子様と知り合いなの⁉」
それぞれおしゃべりに興じていた周囲の人たちの視線がこちらに向かってくる。
「ごめんなさい。少し驚いちゃった」
「あなたは公子様とお知り合いなんですか?」
「え? いや、私の出身がただザクス=エルンスト公国ってだけよ」
突然彼女のもとに地元の人が近づいてきて、何かを話しかけると、彼女は軽くうなずいた。すると皆が話を止め、元の席に戻る。楽器を持ってきた人もいた。
「何が始まるんですか?」
「食事の後の余興よ」
彼女の説明を聞いていくうちに、これから始めるものこそが、今日の第二の目的だと分かった。
「その曲の存在は知っていたんですけど、ずっと劇場で歌われる戯曲か何かだと思っていました」
「そんなんじゃないわよ。こうやってたまに歌うだけ。正式な譜面なんてないから、人によって歌い方もまちまちだし」
こうして、各自が席に座る。歌ったり、楽器を弾いたりする人以外は、何か固い物を持っていたり、握りこぶしを作っていたりする。皆が神妙な面持ちをしていることからも、傍から見れば悪魔の儀式のようだ。
しばらくして、その固いものやこぶしをテーブルに当てつけてリズムを取り始めた。そしてギターによく似たリュートという楽器の音色と共に歌が聞こえ出す。
私は手元にあったコップで机を叩いて周りの行動に合わせた。歌詞の大まかな内容は歌い終わった後に教えてもらった。
――重臣の息子エロトクリトスは、王女に恋をする。身分違いの恋だと分かりつつも、彼は毎晩隠れて彼女がいる部屋の下で愛の歌を捧げずにはいられなかった。王女も時が経つにつれて、全く知らない歌声の主に恋をするようになり、父親である王はその正体を探ろうとする。
王の考えに気づき、自分の行為が明るみに出れば父親に迷惑をかけると思ったエロトクリトスは、島を出て恋を忘れようとする。しかし、最後には王女と再びめぐり逢い、互いが互いを愛していることを確かめ合う。
自らの熱情を抑えきれなくなった王女はエロトクリトスに、二人の結婚を王に申し出るように頼む。父に相談した後にその通りに行動したエロトクリトスは、王の怒りを買い、ついに国から追放されてしまった。
「歌った部分の歌詞の意味はこんな感じね」
「『部分』というのは?」
「この曲は元々ある詩の引用だから、『部分』なのよ。適当な場所を引用して、即興のメロディに乗せる。すごく刹那的だけど、これがある意味魅力ね」
なんてがさつな......と思ったけど、こんな暖かい場所にいると色々と適当になってしまうことは仕方ないのかもしれない。
彼女たちに礼を言って、私はこの家を後にした。まだ外にいたアイベックス、もといクリクリに礼を言うのは何だか癪に障ったのでしなかった。
こうして、私は寄港中の短い旅を終わらせた。
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彼は学園区で適当に本を一冊買ったようである。
「出版人の名前は、読めねぇけどカンディア人っていうよりかはヴェネト人の名前って感じだな」
馬鹿っぽい言動から勘違いされがちだが、彼はれっきとした小貴族家の跡継ぎであり、教養人だ。
「話の内容は......? 身分違いのロマンス、カンディア版『ロミオとジュリエット』か。申し訳ないけどそのジャンルは現実で供給があるから満足なんだけどなぁ。
ちょっとエロそうな名前してたから買ったけど、これただの主人公の名前かよ」
そうして彼はトイレで鷲掴みにしていたそれから手を離し、部屋で寝そべりながら本を読むことにした。
「主人公のエロトクリトスは、追放中であったが戦争で窮地に陥った祖国のため、変装してまで密入国し、その窮地を救った。自らの正体を明かして追放を取り消してもらった後、王女と結婚してやがて王位に就いた、か。典型的な騎士道物語じゃねーか」
こうして彼は再び自身が求める小説を求めに学園区に向かう。
次に彼がトイレから出て来た時、彼は幸せそうな顔をしながら、入念に自らの右手を洗っていたという。
少し遅くなりました。すみません。
気持ちいつもより長めです。
ベイ〇ックスはこの世界に存在しません。筆者がノリで書きました。