~Eの場合~
女性に対する性的、暴力的な表現があります。
ご注意ください。
身体がひどくだるくて目が覚めた。目を開けて、見慣れない角度の風景に自室のソファで寝ていたことを知る。夏風邪でも引いたかと寝返りを打った瞬間にあらぬところが痛んで、梢はようやく、あったことをすべて思い出した。
何がきっかけだったのかと、一糸纏わぬ身体をそっと抱いた。
外は暗い。だるさの残る身体をなだめながら時計を見れば深夜の一時だ。ゆっくりと身体を起こし、窓から差し込む月明かりに助けられながら、男に剥ぎ取られた制服を集める。
テーブルの上に置かれた二つのグラスには氷の残骸が底のほうにわずかに残っていて、そのほとんどを自分に口移されたことを思い出して、身体を一つ、震わせた。
父の九回忌法要が終わって一週間後の金曜日。高校からの帰り道で彼を見つけたのは本当に偶然だった。市内と病院を周回するマイクロバスをこっそり通学に使って帰ってきたのは夕方の五時少し前。季節は夏のため、日が落ちるまでにはまだだいぶ時間があった。
外来病棟の玄関前に着けられたバスから、梢一人が下りる。代わりに診察を終えたらしい高齢者が数人乗り込んでいった。
兄や母の仕事終わりを待つこともあるが、そこから家までは基本徒歩だ。東回りに行くか西回りに行くかはその時の気分次第で、今日は赤レンガの建物を見ながら帰ろう、と決めた。
丘の上に立つ病院が白亜の城なら緑の中に佇む赤は小人の家のようで、梢はこの可愛らしい建物がお気に入りだった。時折、二階から知り合いが手を振ってくれる。
夏服の短いスカートを翻して一定のリズムで歩いた。ローファーが石畳を叩く音が小気味いい。
じっとりとまとわりつく湿気は不快だが、むせ返る程の木々の匂いはこの時期しか感じられないため、梢は思う存分深呼吸した。
赤レンガの建物は、二年ほど前に義兄が起こした事件を受けて少し改修された。丘の上にあった研究施設を管理棟の丘側に配置し、連絡通路を設けることで警備をしやすくしたのだ。
父が亡くなってから、周囲がひどく物騒だ。兄と慕っていた幼馴染は消息を絶ったし、義兄は事件を起こして亡くなった。
警察官が家に出入りすることなど普通はないはずなのに、五年ほどで二回も話を聞かれた。
瑠璃のことを聞かれた。蒼一のことを聞かれた。だから優しかった二人のことを話して聞かせた。険しい顔をした刑事さんたちは信じてはいないようだったが、それ以上の追求は基樹が止めてくれた。
十歳も上の兄にはからかわれることの方が多いが、そういったところは頼もしい。
家も間近に迫った木立の中で最初に気付いたのは、自分のものではない足音だった。規則正しいそれは、自分のしばらく先を歩いているらしい。
この先は本邸しかない。
誰が何の用だと目を凝らして、その後姿を見つけた時、梢は迷いなく駆け出していた。通学中、あるいは誘われて遊びに出た道すがらよく見た背中。今にも振り返って、「梢、おいで」と呼び掛けてくれそうな…。
「リュウちゃん!」
登りの坂道をダッシュした分だけ息が上がる。それでも掴んだ裾は離さない。
半そでの白いワイシャツに黒いスラックス。髪はだいぶ伸びて後頭部で緩い団子に纏められているが、姿勢の良さや歩き方の癖は間違いようがない。振り返った顔は切れ長の目を少しだけ見張っていた。
消息を絶って六年と二か月。己の年から計算すれば今年二十三歳か。
「梢?」
瑠璃の声に呼ばれて笑みがこぼれる。
「やっぱりリュウちゃんだ」
母を真似た呼び方は、高校生にもなると少し気恥ずかしい。
それでも再会できた喜びのほうが大きく、捕まえる先をシャツの裾からその腕に変える。男性特有の固い皮膚の感触に甘く緊張した胸の内は隠して、彼の手を引いた。
「お帰りなさい。すごく久しぶりだね」
消息を絶った理由は今も知らない。小学生だった梢には理由を教えてくれなかったし、今は話題に出すことも憚られている。
瑠璃を家に入れた梢は迷いなく二階の自室に招いた。五時上がりのお手伝いさんに別れを告げ、グラスにたっぷりの氷とお茶を入れて部屋に持っていく。お茶菓子も少し。
「お待たせ」
瑠璃は窓際に置いたソファに寄りかかって座り、外を眺めていた。耳ではラピスラズリの小さなピアスが夕日を反射している。
窓の外はちょうどお手伝いさんの車が帰っていくところだ。ソファの前のテーブルにお茶と菓子盆を置き、瑠璃の隣に腰を下ろした。
三人掛けのソファは二人が座ってもまだ余裕がある。
「今は通いなの?」
「お手伝いさん?そう。夕飯と次の日の朝ごはんの下ごしらえしたらおしまい」
私もある程度できるようになったしね、と返せば「ふーん」と興味のなさそうな声が返ってきた。
「優樹ママと四代目は?」
「ママは今日、施設に泊まり。金曜はいつもだよ。お兄ちゃんは遅くなるって聞いたけど?」
汗をかいたグラスから麦茶を飲みながら答えて、隣から聞こえた舌打ちに胸が冷えた。
瑠璃はもとから喜怒哀楽の表現が激しかった。だが、梢の前で負の感情を表すことはほとんどなかった。それは兄たちも同様で、初めて間近で目の当りにする男性の怒りに恐怖が募った。
名を呼ぶ声が震えた。
「リュウちゃん?」
「帰るわ」
不機嫌にそう言って立ち上がった瑠璃を、恐怖を覚えながらも慌てて引き留めた。今帰してしまったら二度と会えなくなる気がした。そしてそれは間違いのない未来だ。
「ヤダ!行かないで!」
駄々をこねて瑠璃の腕に縋り付いたのはいつぶりだろう。泣き虫は卒業したはずなのに、視界が歪んでいく。こみ上げるもの必死に堪えながら「おねがい教えて」と、身長のほとんど変わらなくなった顔を覗き込んだ。だが、視線はこちらを向いてくれない。
「今までどこにいたの?」
「その辺」
「何してたの?」
「ケーサツと本気のかくれんぼ」
「なんで」
「なんでだろ」
はぐらかすための返答に手が伸びる。襟元を掴んでようやく彼の視線がこちらを向いた。冷徹さや怒りを写す目は、あの頃とは決定的に違う。自分の知らない彼の時間が彼女を動揺させた。
「ねぇ、何があったの?お母さんもお兄ちゃんも何も教えてくれないし、蒼ちゃんもあんな事件起こしちゃうし、リュウちゃんもいなくなっちゃうし」
感情が昂って幼い頃の距離感で食い下がる。せっかくこちらを向いたのに、彼の目を見ていられなくて、掴んだ胸元に顔を埋めた。それは昔のように。
昔のように、頭を撫でてはくれまいか、と。
視界の端で、常磐会の唐花菱が揺れた。青い石が夕日で染まる。
「それ、誘ってんの?」
それは叶わないのだと、その声を聴いて理解した。咄嗟に彼から離れようとして、けれど彼の捕捉が早い。
視界が回り、天井を背景にした男が梢を見下ろす。背中の柔らかい感触は、布張りのソファだ。
「逃がさねぇよ」
見下ろされて混乱した。夕日の強い光を受けてなお分かる、この仄暗い光はなんだ。何をどうすればあの瑠璃がここまで狂う。目尻から耳に向かって、涙が流れた。
なんで、なんで、なんで。
「お願い」は唇で塞がれ、「待って」は性差で捻じ伏せられた。
夏服は簡単に用途を失くし、指で、目で、唇で全身を余すことなく暴かれた。初めての身体に教えられる感覚に追い詰められて呼吸が詰まる。与えられる熱が辛いと訴えれば唇に冷たい液体が流し込まれて、そしてまた最果てを教えられた。
逃げようとしても決して許されなくて、男が避妊具を取り出す頃には身体を隠す力すら残されていなかった。
慣れた手つきに、絶望をまた一つ。
「お願い、リュウちゃん…」
助けを求めるように伸ばした手に絡んだ指は何を意味するのか。乱れた呼吸が、男の唇が、言葉を塞ぐ。
「もう…」
続けようとした言葉はイヤかヤメてか。瑠璃は梢の願いを聞くことなくその行為を済ませて、済ませた後はすぐに身支度をして出ていった。
“こんな風に実らない初恋もあるんだな”と感じたのが最後の記憶だ。
泣きながら眠ったせいで頭が痛い。目も浮腫んでいるのだろう。肌の上に、身体の奥に、与えられた感覚が残る。せめてと素肌にワンピースを纏うその腕が上がらない。バスルームへ向かう膝が笑う。
階段を降りたところで基樹と鉢合わせた。リビングから漏れる光が逆光となり、基樹の表情の細かいところまでは分からない。
「今からお風呂?」
涼やかな声は何かを責めるものではないはずなのに己の短慮を見透かしているような気がするのは何故だろう。瑠璃を家に上げたことか、それとも二人きりになったことか。
「ゆっくりしておいで」
そんなことはない。兄は優しいままだ。「うん」と短く返して兄とすれ違う。
そしてまた愕然とした。バスルームのライトに晒された、胸元に、腹に、脚に残る紅い内出血の跡。何かの証明のように刻まれたそれらに兄は気付いただろうか。
シャワーを出し、頭から被る。こぼれた嗚咽を水音に隠して、その行為をなかったことにしようと全身を擦った。
けれどなかったことになるわけもなく。バスタオルで表に見えるところの痣を隠してバスルームを出る。リビングの明かりは消えて兄は部屋に戻ったようだ。
足音を立てないように階段を上がり、己の部屋とは廊下を挟んで向かいにある兄の部屋の中から聞こえた話声に足を止めた。答える声がないので電話だろうか。
時間は真夜中だ。
相手はそれほど気心の知れた相手なのだろうか。と。
「梢が泣きはらした顔してたんだけど?」
唐突に聞こえた自分の名前に動きを止め、聞き耳を立てた。家族にしか分からないほどだが、愉快そうな声色が続く。
「突然会えなくなったなんて言われたからどうしたのかと思ったけど、しっかり梢には会っていったんだね」
電話の相手は瑠璃か。瑠璃は兄に会いに来たのか。
何があったのかを兄に知られたくなくて、けれど今入っていけばその答えを渡してしまう気がして動けない。その半面、瑠璃はなんと答えるのだろう、と。なぜあんな行為をしたのか、電話をむしり取って問い詰めたい衝動に駆られる。それに突き動かされるまま兄の部屋のドアノブに手を掛けて兄の言葉に耳を疑った。
「いいんじゃない、犯罪者らしくて。キミのそういう思い切りのいいとこ、ボクは好きだよ」
彼にされたことを兄はもう知っているのか。それを知ったうえで瑠璃を赦すのか。ドアノブに掛けた手を放して自室に逃げる。部屋の鍵を掛け、バスタオルを苦しいくらい身体に巻き付けて、布団に潜り込んだ。
ソファのほうもドアのほうも、もう見れなかった。
※
『聞かせてんのか』
不機嫌な瑠璃の声に口角が上がる。従順な彼が感情を表すのは、最近怒りだけだ。
「もちろん。間違いなく受け取ってもらえたみたいで嬉しいよ」
『悪趣味だな。あいつに何されたか分かって言ってんのかよ』
もう一度「もちろん」と通話口に吹き込む。
「キミがおしゃべりだけで二時間も三時間も過ごせるわけがないだろ?」
聞かせようとしていない瑠璃の舌打ちにまた目尻が下がるのが分かった。パソコンの画面に呼び出していた警備会社の防犯カメラ映像に視線が落ちる。そこには、玄関を出入りする男の様子が時刻とともにはっきりと映っていた。
「そろそろ梢にも研究室を手伝ってほしくてね。キミがいるって分かれば嫌とは言わないだろ?」
『んなわけねェだろ』
苛立った彼の声のトーンがひと段落落ちる。
『用がそれだけなら切るぞ』
「つれないね。もう少しおしゃべりしようよ」
『うるせえよ』
ぷつりと切れた通話に満足した四代目理事長は、パソコンの電源を落としてからベッドに横になった。
剣道の引退を決めた十五歳の頃が、基樹にとって一番の反抗期だった。
成績は伸び悩み、苦手とはいえ剣道の実力も義弟たちに越されるのは目に見えていた。母の優しさも、義弟たちの無邪気さも彼を苛立たせた。
そんな折、基樹は父に研究室に呼ばれた。
総合病院設立とともに立ち上げられた研究室で、見学という名目でいろいろと検査を受けさせてもらう。基樹には何をしているのかも分からないそれらの器具を己の手足のように操る研究室の人たちは、内容など分からなくても凛々しくて。
「理科の実験と同じだよ」と教えてくれた理知的な女性は、母と学部は違うが大学が同じだという。
「仮説を立て、実験して、検証する。=か≠か、あるいは≒か。希望する結果を得るには何回も実験を繰り返すの。キミたちのパパが私たちの後ろ盾になってくれてるから、私たちは自由に実験ができるのよ」
人を助けるという目的のために手段を探す。未知の世界に挑む彼らの覚悟。彼女の目には父に対する確かな尊敬があって、基樹は己の将来をそこで初めて父に重ねた。
それは確かに、常磐基樹の意思だった。
そしてその将来が近いものだと知ったのは二十歳を迎える年の春先で、父に脳腫瘍が見つかったと知らされた。手術のできない場所だと。
四代目に基樹を据えることは決まっており、大学卒業までは母が代理を務めると聞いた。
それが七年前だ。
「理事長?」
「聞いてるよ」
理事長室で報告を受けていた四代目は、くるりと椅子を回し、窓の外へと視線を向けた。
「もどかしいな、と思ってね」
日の落ちた外は見えず、室内の様子が鏡のように映る。
「あの子たちがあんなことをしなければ、今ごろもう結果が出ていただろうからね」
窓越しに冷ややかな視線を投げ掛ければ、主治医と事件後に就任した研究室長はそれぞれ顔を背けた。最近自分と目を合わせて話ができるのはあの二人だけだ。
ため息を一つ。
「もういいよ」
椅子越しにヒラヒラと手を振って退室を促し、二人を部屋から追い出す。そして、“あの二人”のうちの一人に視線を投げた。
「起きてる?」
ここのソファは仮眠ベッドではない、と何度も言っているのに、瑠璃は来客用の二人掛けソファを自分の居場所と定めているようだ。こちらの問い掛けにひらりと手を振って答える。隙さえあれば仮眠をとる男は、何かあればすぐに初動を取れるように自分の行動を律していた。その何か、と言えば蒼一の関係だ。
「そんなところで寝てないでしっかり休みなよ」
「テメェが寝るなら帰るさ」
本当に寝ていたらしい瑠璃は、寝起きの掠れた声で答え、腹筋だけで上半身を起こして立ち上がった。勝手知った動作でサーバーからコーヒーを入れて飲み始める。
「ボクにも頂戴」
「自分でやれ」
にべもない返答に、仕方なく立ち上がる。自身用のコーヒーサーバーは自分の分を注いだらほとんど空で、デスクに戻ってから内線で秘書に片付けを頼んだ。
「で?あれからどうなの?」
執務用の椅子に座り、からかう目的で瑠璃の横顔にそんなことを聞いてみる。途端に分かりやすく不機嫌になった瑠璃は、「あれから?」ととぼけた返答を寄越した。
「梢とさ。ボクの顔を見ると逃げてくのは面白いんだけど」
問い詰められると面白くない。けれど逃げられると追い掛けたくなる。悪い癖だとは分かっているのだが、自重には至らない。
もう一押ししてみようか、と思いついたのは、白いシャツに身を包んだ瑠璃の姿勢があまりにも清廉としていたからだ。この男が這いつくばる姿をまた見たい、無様な姿をまた見たいと、己の中の何かが囁く。
「瑠璃」
少し考えてから、眉間に皺を寄せる瑠璃に、執務机の引き出しに入れておいたキーケースからその中の一つを放った。
「それあげるよ」
先ほど退室していった彼らの報告書を読んでいた瑠璃は、反対の手で危なげなくそれを受け取って、受け取ったものを見て怪訝な顔をした。
「うちの鍵。優樹、今週は土日も出張でいないから、梢で遊んでおいで」
「っとにいい趣味してるよ」
書類を放り出し、最後に残ったコーヒーを煽った瑠璃は、ポケットに鍵を突っ込んでソファを立った。紙コップを荒々しくゴミ箱に投げ捨てる背中にもう一つ。
「しばらくは遊んでもいいけど、最後はちゃんと研究室に連れてきてね」
「ヤだね。テメェらにゃやらねぇよ」
「返さねぇからな」と言って出ていった彼は次に会う時どんな顔をして現れるのだろう。想像するだけでじわじわと快感に近い何かが背中を撫でる。
(一を聞いて十を知り、十二分に応えてくれるから手放せないんだよね)
常磐の森を支配するラプター。彼は常磐家の盾であり矛だ。
その感覚を男はしばらく楽しんで、秘書に週末は仮眠室に泊まることを伝えた。
そうして少女は、二度目の、その時間を過ごすことになる。
…―――だが。
彼女は彼の「おいで」に逆らえなかった。
初めての時とはまるで違う地獄のような蜜月に彼女は溺れ、やがて、彼は、彼女に自ら快楽を得ることを、そして彼の腕の中で眠る心地よさを教えた。
秘密の逢瀬は、梢が大学生になるまで続いた。