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FAKERS  作者: 宇津木
彼らは存在を知られてはならない
6/35

~FあるいはAの場合~


 鈍色の記憶を夢に見た。結末の分かっている悪夢だ。

 仰臥する男にも倒伏する女にももはや魂はなく、その日少年が買った薄黄色の花だけが赤を身に纏い、活き活きとしていた。花言葉は「陽気」。薄い花弁は簡単に血の色をその身に映し、花言葉の意味を変化させる。赤いそれの花言葉の意味を知ったのは、ずいぶん後だ。

 外は梅雨空。鬱陶しくまとわりつく湿気が密度を増して少年の呼吸を妨げる。いくら吸い込んでも肺は酸素を取り込もうとはせず、夏に向かう季節の中で手指の先からひんやりと冷えていく感覚だけが鮮明だった。

 何の変哲もないファミリー向けアパートの一室が、殺人現場になった瞬間。仲のいい夫婦が死んだことなど、誰も思いはしない。殺された事実を知らず、公になって初めて、『まさか』と口をそろえて言うのだ。感覚が失せたその世界の中にリアルはなく、雨のせいで薄暗い部屋も、嗅ぎ覚えのない刺激臭も、外を通り過ぎる車の音も、総てはスクリーンの向こう側のように現実味を喪って、少年を責め立てるのだろう。

 テーブルの上に突き立てられた無骨なナイフが、まるで墓標のようだった―――。


 いつもより遠い気がする時計のアラームが、悪夢に襲われていた彼の精神を救い上げる。無機質な音で覚醒した彼を、七年間変わる事のなかった木目調の天井が迎えた。

 枕もとの目覚まし時計を手探りで止める。

 久しぶりに見たあの時の夢に頭痛を覚え、それを振り払うように頭を振った。今日は具合を悪くしている場合ではないのだ。

 昨年の八月に十八歳になって早七か月。年度末を迎える今日、この児童養護施設を出ていかなければならない。とはいえ、進学するわけでも外部に就職するわけでもない自分は常磐会の所有する寮に移るだけなので負担もそれほどではない。

 そもそもこういった施設に入所する子どもの私物は少ないうえ、布団やTVなどの大物の家具家電は共用。教科書や辞書の類は後輩たちに残していくのが慣例であれば基本大きめの段ボール一つ分程度にしかならず、それも内定が決まった後に寮に移してあるため、あとは残していた着替えをバッグに詰めて出ていくだけだ。

 藤枝 芳は手早く着替えを済ませ、今まで使っていた布団からシーツやカバーを剥いで洗濯室に、布団はクリーニングに出すため玄関脇の部屋へ運ぶ。

 今までさんざん見てきた毎年三月末日の恒例行事を、自分が行うだけだ。何かを思うほどその部屋に感慨はない。畳張りの部屋に友人を招いたこともなく、ただ涙で枕を濡らした日々があっただけだ。

 淀んだ空気を入れ替えるように自室の掃除を簡単に済ませ、バッグを机の上に乗せた彼は、食堂へ向かった。


 朝食を終え、屈託なくまとわりついてくる子どもたちを笑いながら何とか引きはがして施設長の部屋へ向かう。施設長は、常磐会四代目理事長の母だ。

 五十代の彼女は、ブラウンに染めた髪を肩口まで伸ばし、負の感情など在るのかと思うほど柔和な雰囲気で子どもたちを見守っていた。二十代三十代の子どもがいるようには見えず、十年以上前に三代目理事長だった伴侶を亡くして、その遺志を受け継いだ息子をバックアップしながら法人運営を担ってきた。

「失礼します」

 施設長の部屋には扉がないので、声を掛ける。

 扉がないのは何かあった場合いつでも駆け込めるようにとの配慮だ。プライベートな相談は重要度に関係なく応接室を使う。

 施設長室の間取りは子どもたちの部屋とほぼ同じだが、床は畳を取り払った板張りで、窓際の勉強机は出入口を向き、いつでも来客が分かるようになっていた。

 押し入れは上段が本棚、下段が金庫になっている。布団を敷くスペースには代わりにカーペットが敷かれ、ソファとテーブルが設置されてくつろげるようになっていた。

 本棚には施設運営関係のファイルとは別に歴代の子どもたちの写真が納まった紺色の分厚いアルバムが並べられていて、その数は十二冊を数えた。

 一年に一冊。そして年度を跨げば、もう一冊増えるのだろう。施設長は写真が好きらしく、イベントがない時でもよくカメラを持ち出しては子どもたちの普段の様子を撮っていた。そしてそれを子どもたちとソファで眺めるのだ。

 七年前からは己の写真も混じっている。

「いつでも遊びに来てね」

 いつもと変わらない声色に、ようやく“家”を出る実感が湧いた。目の奥に、のどの奥に熱いものがこみ上げる感覚を何とかやり過ごして返事をする。挨拶を済ませたら今度は寮監と寮長のところに顔を出さなければならないのだ。泣き腫らした目をしてはいられない。

「お世話になりました」

 頭を深く下げ、振り返った目線の先。厚いアルバムの脇に、日に焼けて色あせた薄いアルバムが申し訳なさそうに挟まっていた。

 やけに気になったが、手に取ることはせず。

 二度と来ることもないんだろうなとぼんやりと思って、出入り口でまた深く頭を下げた。


 藤枝は、高校の最終学年に進級する前後に、常磐会の事務スタッフへの就職を打診された。

 就職先として毎年採用枠は設けられているらしいが、そういった打診を直接受けるのは珍しい。施設に入っているとはいえ、その将来を方向付けることはその子にとってためにならないからだ。

 藤枝にその話が回ってきたのは、ひとえに、施設で義務づけられている武道への姿勢が評価されたからだ。

 曰く、「施設出身者は、ただそれだけで忍耐を強いられる」

 それは真理だ。事情がどうであれ子どもたちは親の不在を無邪気に口にする。だから施設長は子どもたちに武道の習得を義務づけた。それは相手を武で制するのではなく、忍耐の力をつけるために。

 病院スタッフの中にも経験者は意外に多く、各道場へのつなぎもスムーズにいった。

 藤枝も施設に引き取られてから合気道を始め、繰り返し繰り返し基礎鍛錬を積んだ。それを選んだのは、試合がなく、人を攻撃しなくても済むと知ったからだ。

 何も考えなくて済む時間は、彼の傷ついた何かを癒すのには十分だった。

 小学校に入ったその年の、その日その時。

 彼が見ていた夢は現実のものとしてそこにあった。

 父と母の最期。現実味のないリビングに足を一歩二歩と足を踏み入れた彼の視界は次の瞬間に暗転し、暗闇と清涼な香りに包まれた中で、今までいた部屋が吹き飛んだ熱風を肌に感じた。

 気が付いたらアパートの玄関先にいて、雨の中、警察が来るまで付き添っていてくれた近所のおばさんが放った言葉がいやに耳に残った。


「巻き込まれなくて、よかったね」


 良かったとはなんだ。父と母は、もうこの世にいないのに。

 爆発・炎上した部屋は幸いにも雨に助けられてすぐに鎮火したが、彼の思い出にあるモノはすべて面影を亡くしていた。彼の脳裏に焼き付いた映像の強烈さは、それまでの彼の記憶と言葉を奪い、眠るたびに彼の夢に映っては、その時には出なかった悲鳴を上げさせた。

 警察の捜査は今も難航し続けている。

 雑誌の記者とはいえ、生活コラムを担当していたらしい父と専業主婦だった母にトラブルの気配はなく、物色されたような形跡はあったものの現金やカードは手つかずで残されており、その他に部屋の中から失せた物があるかどうかも幼かった彼には判別できなかった。

 雨のせいで目撃者が少なかったことも難航した理由の一つだ。

 現場方面から走り去る不審なバイクの防犯カメラ映像が提出されたのは発生から数時間後で、その所有者が金山瑠璃という十七歳になる前の少年だと聞いたのは翌日だった。

 近くの工業高校の二年生だったらしく、何かを睨むような学生証の写真を見せられたが、彼が見たのはバイクに跨った後ろ姿だけだったので頭を振るしかできなかった。

 だが、爆破された部屋にわずかに残された右手の指紋が、のちに警察が押収した財布や携帯、彼の自室のものと一致したのが彼を容疑者とする決定打になった。

 常磐基樹の友人だったために常磐会も一時警察の監視下に置かれたが、少年はその後、忽然と姿を消した。

 男を追って警察になることも考えたが、それ以降に引き取られた親戚宅にいた警察官は碌でもなかったし、名前も顔も分かっている相手を捕まえられない警察に希望もなくしていた頃だったので打診を受けた翌週には承諾の返事をしていた。拾ってくれた恩返しをしたほうが建設的だと親も喜んでくれるだろう。

 例の災害が原因で当時いた施設が閉鎖して、常磐会の施設に移ってから受けた小児精神科のカウンセリングやボイストレーニングのおかげで、人並みに話せるようになったのは高校に入学してからだ。

 その時は優樹がわが子のことのように喜んでくれた。

 就職にあたっては他の就活生と同じように試験を受けたが、試験会場に道場関係の顔見知りも多くいたためかあまり緊張もせず、ほかのクラスメイトよりも一足早く就職先は決まり、高校生活の残りは就職先から指定された資格と運転免許の取得に費やした

 そして今、スーツに身を包んだ彼は常磐会の会議室で十名ほどの同期たちと研修を受けていた。事務スタッフとして採用されたメンバーだ。

 基本理念、変革、コンプライアンス、顧客満足度の重要性…おそらくほかの一般企業と変わらない研修内容は、個人情報の部分だけほかの項目より長い時間を取って説明があった。

「病院という性質上、我々は患者さんの生活のより深いところまで詳細に知ることになります。それは目に見える、例えば障害の有無などだけではなく、家族関係や虐待、アルコールや薬物への依存や性的な嗜好など多岐にわたります。それらを口外することは、家族であっても許されないことだと認識してください」

 休憩を挟みながらそんな話を聞き、定時まであと一時間となった頃「それでは配属先に向かってください」と、それまで講習を進行していた研修課の女性が場を締めた。

 研修会場になっていた管理棟五階の会議室を出ると、他の研修生たちはそれぞれ上着を羽織ってエレベーターで階下へと降り、植樹された木立の中を病棟のほうへ歩いて行った。

 四月とはいえ、この地方はまだまだ寒い。雪はさすがに残っていないが、桜の季節はもう半月ほど先だ。

 それでも木々は色を変える。冬の、立ち枯れした覇気のない緑ではなく、雪解けの水を含んだ土が太陽に温められて活性していく時の萌黄の色に。梅や山桜はぽつりぽつりとその合間に白い顔をのぞかせ、地べたには下生えが枯れた木の葉を養分にして芽吹いている。

 始まりの季節に彼は少し面映ゆい感情を覚えた。

 常磐会は市街地から離れた丘陵に広大な敷地を保有し、その施設を一つの街並みのように展開していた。

 ひときわ目につくのは、メイン施設でもある外来病棟だろう。南側の門前に据えた患者用駐車場から見える三階建ての瀟洒な白い建物は広く、一見では病院とは思われない。二十以上の診療科を擁し、その両脇に立つ二棟の十階建ての建物が入院病棟だ。八階以上は噂だと政治家資産家の御用達だという。

 そして、病棟を中心に大小さまざまな関連施設が立ち並ぶ。

 上空からは、丘の上のホスピス病棟と、少し離れて森に囲まれた常磐家本邸の青い屋根も見えることだろう。

 東側に建つのは先代が整備した学童施設で、小学校の下校時間が過ぎた今だいぶにぎやかになってきているだろう。もっとにぎやかなのはこの病院に勤めるスタッフの子どもたちを預かる小規模保育園だ。どちらもパステルカラーのその建物は、植樹された広葉樹によって病棟から隔離されてあまり目立たない。その奥の職員駐車場もしかり。さらに東側には、今まで藤枝が世話になった児童養護施設がある。丘の中腹まで行くと、社宅や社員寮が立ち並んでいた。

 対して西側は、リハビリや整体系の施設と、その半地下には柔道・剣道の道場が据えられ、その西側に重役室などがある地上五階、地下一階の管理棟があった。

 管理棟は赤レンガを外壁に使用したデザインで、こちらはこちらで存在感を示す。連絡通路で最北に立つ研究棟ともつながっているこの建物の二階が、藤枝の配属先だった。

 渡されたカードキーでセキュリティを解除し、エレベーターの階層ボタンを押す。

 慣性の法則に身を任せて数秒、扉が開くとすぐ、ワンフロアをぶち抜いて作られた部屋が現れた。エレベーターを背にして目前に広がるのは、窓を大きくとった開放的な部屋だ。

 耐震用の柱が、それと分からないように配置・デザインされ、取り巻くように作業用のデスクと椅子がおかれている。窓際にも、向かって左半分に作業用スペースがとられ、その日の気分で好きなところに座って作業ができるようになっていた。

 右半分は一段下げてデザインされ、休憩スペースとなっていた。こんなに必要か?とも思うが、基本がパソコン仕事のため身体を動かせるように少し余裕を持たせてスペースを取ったのだという。他の事務関係の部署も似たような部屋らしい。

 コーヒーサーバーはもちろん、ティーパックだがいろいろなお茶の銘柄も常備されている。一人掛けソファ二脚、二人掛けソファ二脚とローテーブル、サイドテーブルが置かれ、大型の冷蔵庫もある。

 デジタル対策室。所属しているのは藤枝含め五名ほどだと聞いたが、前回挨拶に行った時には出払っていて顔合わせが済んだのは室長ただ一人だ。

 室内に一人だけいたその人が、エレベーターの到着音で顔を上げた。黒い長そでのカットソーにジーンズパンツという、職場とは思えないラフな格好だ。

「いらっしゃい、研修お疲れ様」

 眼鏡の奥でにっこりと笑った女性は彼より年上のはずだが、前髪を完全に上げた髪型のせいかそれとも化粧っ気のない幼顔のせいか、同年代のようにも見える。

「よろしくお願いします」

 師範代に仕込まれた礼儀を思い出しながら会釈すると「よろしくね~」となんとも気の抜けた声が返ってきた。

「今日は注意点の確認と明日からの業務についてね」

・服装は自由だけど清潔第一。

・貴重品はエレベーター脇のロッカーに入れて鍵を掛けること。

・デスク周りは飲食禁止。

・個人携帯は休憩スペースのみ使用可。基本はロッカーに。

・冷蔵庫も自由に使っていいけど、私物には名前を書くこと。

・もちろんだけど使ったものは自分で片付けること。

・パソコン仕事だから適宜休憩をとって、目を休ませてね。

・運動もしてるんだよね、その習慣も続けてください。

「対策室と銘打ってはいるけどシステムは外注してるから、ほとんどの仕事はパソコンが苦手なおじいちゃん先生たちのお手伝いになります。あとはここで各部署から上がってくる照会の対応ね。メンバーがここに集まることはあんまりないかな。藤枝くんの当面の仕事は入力に慣れること。同意書をもらった患者さんのカルテの電子化で、いずれは外来とか入院病棟とかにも出向いてもらいます」

 研修期間は誰かと一緒に動いてもらうし、ほかのメンバーもそれぞれPHSを持ってるから何かあれば鳴らしてね。藤枝くんには明日支給します。と淀みなく説明をしたのが、室長の浅葱沙良だ。優しいを通り越して緩い雰囲気のその人は、パソコンを前にすると恐ろしいほどのパフォーマンスを発揮するそうだ。

 そうだ…というのは、後に歓迎会で顔を合わせたほかのメンバーから聞いた話だからだ。最年長でも三十五歳というデジタル対策室は総じて若いが、今までの最年少は室長で、二十六歳だったという。

 男女比四:一の職場で異論が出なかったのは、能力重視のメンバーと室長の人柄のおかげだった。

 完全なる末っ子気質で甘えたがりの彼女は年上部下を上手に使うことに関して右に出る者はおらず、さらに他の課との折衝においては押し付けられる無理難題をさらりと受け流し(時々こちらに有利な条件を付けてもらってくることはあるらしいが…)いつしかおじさんキラーと命名された。

「そんな室長が藤枝くんには年上ぶってるでしょ?それがもう面白くって」

 いい具合に酒の回った宴会の席は年下上司の気安さもあって明るく盛り上がっていた。

「でもなんで補充したんですか?一応足りてましたよね?」

「あたしのアシスタント候補~」

 一足先にクラゲのように成り果てた室長は、酒に弱いのか強いのか。飲んだグラスの総数と度数は他のメンバーをはるかに超えているが、呂律は回っているように見える。

「実は室長が年下欲しかっただけなんじゃないんですか~?」

 室長の勢いに飲まれて杯を重ねたのは次点の二十八歳だ。ムードメーカーな彼は酔うと声が大きくなる質らしい。もう一人の先輩と笑い合いすっかり楽しくなっている。見ると、副室長がほかのメンバーのグラスをノンアルコールに替えていたので、藤枝もそっとそれを手伝った。

「すまんな、未成年」

「いえ、楽しいです」

 大人な副室長に「せっかくうちに来てくれたんだ。当分雑務ばかりだが頑張ってくれよ」と背中を叩かれ、気合が入る。

 それが今年の四月。

 時々下ネタも混じった雑談を交わしながら、六ケ月という長めの研修期間はあっという間に過ぎていった。途中に何回かあった同期たちとの研修旅行も酒を飲んでつぶれた年上同期にはうんざりさせられたが楽しかったし、先生の往診にドライバー兼アシスタントとしてついて街に出るのも勉強になった。

 短かった夏が終わり、九月下旬。空気は冷たくなり、秋の気配が眼下の樫の木にも見え始めた頃、久しぶりに対策室に室長と二人きりになった。昨日は月一の別働の日だったらしく、眼鏡も放り出してデスクに突っ伏しているところを見ると、パソコンを前にしていても仕事をする気はないのだろう。

 昼下がりから夕方にかけての時間はこちらもなんとなく仕事に身が入らないため、「コーヒーでも飲みますか?」と声を掛ける。

「ミルクたっぷり~」

 このミルクはポーションでなく牛乳の意だ。室長はこの半年で年下にも甘える術を身に着けてみせた。アシスタントというか世話係というほうがしっくりくる。

 彼女はのそのそと休憩スペースに移動し、二人掛けのソファを丸々占領して沈み込んだ。

「そんなになるまで毎月何してるんですか?」

 うっかりすると敬語が抜け落ちるので慎重に口を開く。ため口になり掛けて舌を噛んだのはこの半年で片手を超えた。

「気になる?なるよね~」

 先輩たちも知らないもんねぇと、室長はどこか嬉しそうだ。

 姿勢を少し正して自分のマグカップを受け取った彼女は、眼鏡の奥で、見たことのない顔つきで笑った。

「実は藤枝くんには許可出てるんだよね、最初から」

 ミルクのおかげでだいぶ飲みやすくなっているだろうコーヒーを、室長は殊更ゆっくりと味わっている。

 室内は空調が行き届いていて、夏も冬もそう服装は変わらない。その日も室長は薄手のカットソー姿だった。

 嚥下するたびに動く喉元。そこに白く光るチェーンを見つけて先をたどれば、華奢な鎖骨の間でネックレスが揺れていた。

 前に見掛けたのはバッチだった。常磐会の家紋・唐花菱を模ったもので、中央の緑を守るように青、赤、白、黒の石が四方に配置される。小ぶりのそれは位置と色でその所属を表した。

 赤く、しかしそれなりの透明度を持った石をはめたそれは南。常磐会では、情報統制・管理への所属を表している。石付きのものは幹部にしか与えられないもので、“この人はどういう立場だ?”と考えるに至って、彼女がじっと自分を凝視していること、また、自分がずっと彼女を見ていたことに気付いた。こちらに視線を据えたまま、彼女は細い指でネックレスのチェーンを手繰る。トップの石を撫でる様子がいやに艶めかしくて、慌てて視線を逸した。

 衣擦れと携帯を繰る音がして。

「副室長?これからちょっと藤枝くん借ります。部屋、不在になるからね。うん、藤枝くんは直帰させる予定。施設内には居るので何かあったら電話ください」

 そういって電話を切った室長はマグカップの中身を飲み切って片付け、「おいで」とエレベーターに誘った。直帰とのことなのでPHSとパソコンは充電器に戻して続く。

 室長のカードキーでセキュリティをパスして向かったのは地下だ。

 そこは、今までの解放感とは打って変わり、訪れた彼を威圧していた。いくつかの扉と地下室特有の陰鬱さを人感知式のライトが白々しく照らし、機械が発する熱気と空調の冷気が交じり合って頬を撫でていく。それに気付いているのかいないのか、室長はまたカードキーを使って手前の扉を開けた。

「奥はサーバー室だよ。あたしがいつも籠ってるのはこっち」

 会議室のようなその部屋は数台のパソコンがセッティングされていた。誰もいないその部屋で手近なパソコンの電源を入れると「そっちのモニターに出すから適当に座って」と自身も椅子を引きながら指示した。

「八年前、常磐会であった事件、藤枝くんはどのくらい知ってる?」

 相変わらず神速のブラインドタッチでパソコンを操作しながら、室長がおもむろにそんなことを聞いた。

 八年前といえば、藤枝は別な施設にいた頃だ。災害が強烈すぎて、その直前に起こったという事件のことは彼の記憶にない。

 施設に入った頃には事件があったことは大人のほとんどが口に出さず、企業研究の一環で調べた時にようやくそんなことがあったのだと知った。

「放火されたやつですよね?薬品に引火して被害が大きくなったって」

「そう、世間的にはね」

「え?」と口をついた驚きは、パソコンの駆動音にもかき消された。

 部屋の奥の大型モニターに映ったのは、己と同年代の男の写真。履歴書の写真だろうか、黒髪を短く切り揃えて正面を見据えている。精悍と言える顔つきにほんのわずかに笑みが浮かび、自信に満ちていると分かる写真だった。

「彼が常磐蒼一。これは十八歳の時に撮った写真だよ」

 今の藤枝と同年代の頃の写真なのに、この雰囲気の違いは何だろうと焦燥にも似た嫉妬が胸の中に湧き上がる。握った拳にそっと力を込めたところで、初めて知る情報が室長からもたらされた。

「ちなみに、この時の経歴はキミとほぼ一緒」

「え?」

 今度こそ言葉になった驚愕に、室長は満足そうな笑みを浮かべた。

「幼い頃に家族と死別。常磐会に拾われて生きてきた」

「…室長はこの事件を調べてたんですか?」

「半分外れで、半分当たり。動画ともう一枚も見てくれる?」

 切り替わった動画は、防犯カメラの暗視映像のようだった。暗い画面の中を何度か白い人影が映る。

 音声はない。人影が一つ、二つ。画像が切り替わり。追いすがり、振り払い、また、切り替わる。何かを抱え、ぶつかり、倒れ、そして暗転した。

 説明されなくても分かる。事件の時の画像だ。画像は荒いが何度か常磐蒼一の姿もあった。

「画面越しで見てもひどいありさまだったよ」

 昔の研究室は丘の上のホスピス病棟の奥にあったという。

 爆破の一報は夕方の定例会に出席していた四代目にももたらされ、その年の夏に二十五歳になる彼はすぐさま情報の収集と避難を指示した。何しろ、事故か事件か分からなかったのだ。

 地上地下共に三階建ての建造物は瓦礫の山と化していた。消防車と警察車両が入り乱れて停まり、常磐会の救急スタッフがトリアージを実施。だが、タグが示すのはほとんどが黒だった。

 事件だと分かったのは、明らかに他人に害されたと分かる遺体が出たからで、朝倉蓮華というのが被害者の名前だった。時を前後して、一人の男が施設内のシェルターから救助された。わき腹に重傷を受けていた彼は「蒼一だ」と四代目に告げたそうだ。

 緊急招集を受けた浅葱沙良は、手当てを受ける男を医者の背中越しに見ていた理事長から「計画」を聞かされた。

「さっき、世間的には、って言ったね」

 はい、と藤枝は答えたつもりだったが、喉がカラカラに乾いて声は出なかった。さっき何も飲まずに部屋を出てきたことが悔やまれる。何か、とんでもないことを言われるんじゃないか。心臓が早鐘を打ち始めた。

 モニターから視線を外さない室長は、無言の藤枝を気にすることなく言葉を続けた。

「常磐蒼一は、生きてる」

 思わず腰を浮かせた藤枝に、「座って」と浅葱が指示する。静かな光を湛える彼女の瞳は正気のようだ。けれど、彼女の言葉が真実なら、それを隠すことは犯罪のはずだ。

「座りなさい、藤枝くん」

 有無を言わせない声色に、そっと腰を下ろす。力尽くで逃げ出すことはできるだろうが、それをさせないのは彼女のその目が自分の正しさを信じていたからだ。キーボードを叩いていたその手はパンツのポケットから彼女のものと同じネックレスを取り出した。ただし朱の着色があるだけで石はない。

 それを藤枝のほうに押しやった室長は、静かにその話を続けた。

 常磐会の研究室は再生医療と遺伝子研究に特化していた。病気や怪我で機能を失った組織や臓器を修復、再生させる。最終的に一般にも裾野を広めようと研究者たちは昼夜を惜しまず心血を注いでいたのだ。

 蒼一は研究室を爆破することによってバックアップデータのほぼすべてを破壊し、関係者を葬りさることによって、施設を一時、閉鎖まで追い込んだ。そして、その研究の成果の一つとデータを盗んで逃げたのだ。

 それに激怒した理事長は彼を自らの手で断罪することにしたのか。

 警察を欺いてでもそうしたいと思ったのは、信頼を裏切られたせいか。理事長の人となりを直接知らない藤枝には分からない。

 そして、警察を欺くための資料を作り出したのは、十九歳だった室長だという。防犯カメラの画像や書類を一部加工し、常磐蒼一の死を偽装する。残念ながら追手をすぐに出せず行方を見失い、今は地道な捜索を続けていた。

「なんで俺にこんな話…?」

 室長は黙ったままキーボードを叩き、また画面を切り替えた。切り替わった写真は、一軒の白い洋風の、大きな家の前でとられたスナップショットだった。

 写っているのは四人。

 向かって右側に未成年の頃であろう理事長。その左隣に最初の写真よりは幼い常磐蒼一が並び、涙を浮かべた小さな女の子を挟んで、その子に目線を合わせてしゃがんだもう一人。

 もう一人、を視界に入れてぎょっとした。

 それは、警察が持っていた写真でしか見たことのなかった金山瑠璃だった。あの時見た学生証のものではなく、年相応の明朗快活な笑顔を見せている。年は全員同じ頃のように見えるが、画質の荒い写真なのでよく分からない。理事長の線の細さや、常磐蒼一の長身、金山の健康的な肌の色でそう見えるだけかもしれなかった。

 事情の知らない人が見れば幸せな過去の切り抜きに一つ息を飲む。

 そして今度はその人のアップだ。

 知っているのだ、彼女は。この金山瑠璃が自分にとってどういう男かを。そしてきっと、知っているのだ。この男の所在を。

「研究所から助け出された男、ってのが、こいつ。で、こっちが今の金山瑠璃」

 さらに画面を切り替えて、建物の白い通路を歩く一人の人物を映す。

 防犯カメラの映像だろう。上から撮られた画像は、黒髪を伸ばし、黒縁の眼鏡を掛けて輪郭を隠した人物を映す。中性的な顔は小柄な体格と伸ばした髪とを合わせてみれば女性にも見えたが、モノクロの画像越しでもその眼光に宿る意思の強さは隠しきれていない。

「これ、どこですか?」

「どこでしょう」

 言葉遊びのようなやり取りが空虚を滑る。

 もう一度画像をよく見る。まっすぐに伸びる廊下、オフホワイトの壁と、ところどころにある重厚感のある扉に、この建物の三階にある重役室を思い出した。右下の日付と時間を確認するとわずか三十分前だ。

 室長を振り返る。

「今は理事長の飼い犬だよ」

 ほら、首輪、と室長が首元をアップにする。ネクタイを付けていない開襟シャツから覗く鎖骨の間に、渡されたものと同じネックレスが写っていた。石の配置は東で、少し色濃く見えるそれを実際に見れば青のはずだ。

「藤枝くんが彼を忘れて生きるなら、この話はしないつもりだった。でも、用事で外に出る時、あるいは病棟で似た背格好の男を見る時、暗い目をしていると報告が上がった」

 現実味のない言葉は、あの時の夢の続きのようだ。この男に正当な罰を受けさせるつもりがないのだろうというのもなんとなく分かる。

 室長の言葉が、意識の上を滑っていく。

「理事長から伝言」

 なぜ父と母を殺めたのか、その理由がただ知りたいだけなのだと、ただ償いをしてもらいたいだけなのだと、藤枝が誰かに叫んでもきっと信じてはもらえないようなストーリーを彼らは紡ぐのだろう。

「手伝ってくれるなら、キミに復讐のチャンスをあげる、だって」

 何かに飲み込まれた感覚が、腹の奥底にゆっくりと落ちていった。


 ※


「楽しいと思っちゃったんだよね」

 「室長は、なんでこんなことに手を貸しているんですか?」と問われて、彼女はそう答えるしかなかった。

 絶望にまみれた声はこちらを責めている。それはそうだろう。倫理観の欠片もない話はあたしだって重い。

 こちらを向く視線は若い。先月十九歳になったとは言え、だいぶ年下だ。その頃に会えていたら何か変わったかな、と埒もないことを考えて取り消し、自分の記憶を掘り返した。

 常磐会に救われた子どもは多く、彼女も前代理事長に救われた子どもだった。父親は最初から知らず、母親も顔を覚える前に失踪した。祖母の家に預けられた少女は「サラ」と呼ばれ、幸いなことに礼節をわきまえた祖母に育てられることになる。

 問題だったことは、少女に戸籍がないことだった。少女の誕生日や年齢を祖母も知らず、少女が小学校に入らなければならない年齢を過ぎていることに祖母が気付いたのは彼女が預けられて五年以上経ってからだった。そして、小学校入学に向けて手続きをしていた祖母が、たった一回の転倒で腰を痛め、ベッドの上の住人になってしまったのだ。児童相談所や市の担当者も最初は親身だったが気が付けば足が遠のいていて、寝たきりの老人と少女は世界から取り残されてしまったのだ。

 食事の作り方を知っていた少女だが食料を賄う術は知らず、食事のとれなかった老人は、猛暑と言われた気候にあっという間に命を奪われていった。

 近所の人に保護された彼女は警察とともに家に戻り、祖母の末期を知らせた。そして、行政解剖のために祖母の遺体が運ばれたのが常磐会の病院だった。付き添っていた少女の細さを小児科医が見留め、話を聞いて検査したところ極度の栄養失調だったため緊急入院の措置が取られた。

 その頃はまだ養護施設は設置されておらず、常磐家も末の娘がすでにいたので引き取ることは難しかったが、代わりに三代目理事長は特大のプレゼントを準備した。

 市役所、児童相談所の手を借りて祖母宅を捜索し、古びた箱の中から母子手帳と提出されていない出生証明書を発見した。出生証明書に記載された産院に連絡を取り、該当のカルテを取り寄せ、サラとそのカルテの子どもの身体的特徴を照らし合わせ、更には、祖母と孫娘のDNA鑑定を行い、血縁関係を証明したのだ。

 浅葱沙良、と書かれたブルーグレーの用紙。末筆に、市長の名前と印鑑が印字されたそれは、医療法人だからできた力技だった。

「キミの名前と誕生日だよ。苗字と良の字はおばあちゃんからだ」

 戸籍の存在をありがたいと思えるようになったのは高校生活を送るようになってからで、当時は優しい声でそんな説明を受けても何も分からなかった。

 引き取られた施設には怖い先生がいたので不登校は許されず、かといって通うようになった小学校に居場所はなかった。

 分からない授業は余計に彼女を孤独にし、下校の時間になると決まって小学校近くの公園で膝を抱えた。探しに来た養護施設の先生に怒られたのも一度や二度ではない。

 そうして二年が過ぎたその日「お姉ちゃんって、お姉ちゃんだよね」と声を掛けてきたのは、当時同じ小学校の二年生になっていた梢だった。常磐家の子どもたちはよく小児科病棟に顔を出し、(感染症の心配がない場合のみだが)入院中の子どもたちと交流していた。

 送迎付きで連れていかれた常磐家には、テスト期間で早帰りだったという兄の基樹もいて、勉強が分からないというと一年生の問題から丁寧に教えてくれた。

「人を助けるのが医者だからね」と笑ったきれいな顔を、今でも覚えている。

 たった半年で小学校のそれを終了した浅葱沙良は、もともと要領がよかったのだろう。中学校でも優秀な成績を修めたが、高校は地元の普通科に進学した。

 時間が欲しかった、というのがその理由だ。

 小学校ではそこまで手が回らず、中学校で初めて接したインターネットという鏡像の世界を知り、そしてその世界に適性があることを知ったのだ。画面に向かう時間が増えるにつれ視力は落ちていったが、それは些末なことだった。

 そんな彼女の興味はその世界にいるほかの住人にも向いた。

 コードに残る痕跡は、きっと彼女にしか分からないものだろう。そしてその痕跡が何を意味するのかも。ハッカーと呼ばれる相手との遭遇に、けれど彼女はそのコードを見るだけに留めた。相手取り、やりあうには実力が足りないのは分かったからだ。

 気が付けばそこここに痕跡はあった。次々とそれを吸収していった彼女は、それを逆手に強固なネットワークシステムを構築し、それは今、常磐会の一部のネットワークに使用されている。

 高校で進学か就職かを問われて(施設育ちとはいえ母はとうに特定失踪者として鬼籍に入っていたし、祖母の少なくない遺産があったため国公立なら進学も可能だったが)彼女は迷わず就職を希望した。就職先は常磐会だ。

 一般職の応募だったが、入社直後からあちこちの課に顔を出してシステムの不具合を直しているうちに上層部の目に留まり、デジタル対策室なるものを立ち上げた。

 それから半年も経たないうちにあの事件が起きたのだ。

 あれから、彼女の生きる世界は変わった。考える暇もなく、ただひたすら残酷に。

 火に焼かれるような、あるいは薄氷を踏むような緊迫感に身を投じ、我に返った時にはもうすべて終わっていた。

 そしてその時から彼女は鏡の中にいる。現実世界に密接な関係を持っているのに決して触れることのできない世界。

 ALICE、なんて呼ぶ人間もいるけどキャラじゃない。

「あたしの話はこれで終わり」

 恩人に恩を返すというただそれだけが、なぜこんな犯罪行為になるのか。

 いくつもあるうちのたった一つの秘密を明かしただけでここに来る前までとは明らかに変わった彼の視線。断罪でも構わない。彼は、ここに留めなければならないのだ。

「俺が警察に行くと思わないんですか?」

「行ってもいいけど、お巡りさんが今の藤枝くんを信じてくれると思う?」

「っ、」

 息を飲んだ彼は、その一言で知らぬ間に共犯者に仕立てられていたことを理解したようだ。青ざめた表情が、握られた拳が痛々しい。

「入社して半年。その間キミは口を噤んでいたことになる。それに、もしキミが警察に行ったら金山瑠璃を匿った常磐会も罪に問われるよ?関連施設を含めたら千に近いスタッフ、倍以上の利用者。それに施設の子どもたちが寄る辺を失うことになる。キミはそれでもいい?」

 居場所がなくなる恐怖は浅葱とてよく知っている。俯き拳を震わせる彼を見て、ひどいことを言っているなぁ、と他人事のように思った。

 一発くらい殴られるかな。殴られたら痛いだろうな、とも。

「明日、半年に一回の会議がある。せっかくだからあいつと理事長に会わせてあげるよ」

 思い出す。あの男の言葉。

「あの男を捕まえて」

 事件直後、浅葱を呼び出してそういった男は、勉強を教えてくれた彼とは別人だった。

「必ず生かしたまま」

「ボクの前に、連れて来て」

 しかし、当時はネットワークにつながれている街の防犯カメラは少なく、間もなく発災したそれに常磐会も否応なく巻き込まれ、追跡の手は途切れた。

 警察のネットワークシステムに侵入して顔認証を仕込んだりSNSにアップされた写真を自動解析に掛けたりしているが、その数は天文学的な数字になり、確認作業だけで手がいっぱいになってしまっていた。

 鏡の世界は“幽霊”を探すのには最も向いていない。

「さ、今日は帰っていいよ。明日は五階の会議室ね」

 のろのろと動き出した彼は何を思うのか。

 明日、親の仇に会ってどういった対応をとるのか。

 地上に戻っていくのを防犯カメラで見送り、次に呼び出したのは、彼用に編集したものではなくオリジナルのカメラ映像だ。

 ことの発端。朝倉蓮華が“それ”をサークルの中から抱き上げた様子がはっきりと映る。取り返そうと手近にあったはさみを握ったのは仲間だったはずの研究員だ。倒れた彼女から“それ”を奪おうとした研究員の男は、竹刀を持って駆け付けた常磐蒼一によって倒された。屈みこんで蓮華とどんな言葉を交わしたのか。力強く蓮華の細い身体を抱きしめた常磐蒼一は、彼女の腕から“それ”を受け取り、カメラの前から姿を消した。

 時系列を追ってカメラの画像を映すように設定し、浅葱は見るだけの体制に入った。

 次の画面は、地下二階だ。研究室強襲の報告は、先に金山瑠璃に上げられたらしい。

 研究員など何人いても相手にならず次々と昏倒させていった常磐蒼一だったが、金山が相手では多少苦戦している様子が分かる。金山が破門されたとはいえ同じ師を仰いだ二人の実力はわずかに武器持ちの蒼一が有利のようだ。

 一歳違いの幼馴染は、何か言葉を交わしながら、険しい顔をして拳と剣を交えていた。

 均衡の崩れない戦いに凶器を取ったのは実はどちらでもなかった。激しい諍いの最中にいつの間にか割れたガラスの破片を、隠れていた一人の研究員が常磐蒼一の背中に向けた。けれど、それを黙って受ける男ではなかった。踏み込んだ金山瑠璃をその研究員のほうに振り払い、体勢を崩した小柄な身体はそのまま研究員とともに倒れこんで、実験机の陰に隠れて見えなくなった。そして、肩で息をしていた常磐蒼一も、それを整えることもせずカメラの前から姿を消した。

 そこでカメラの映像は途切れる。

 それでも、そのあとは事実しかない。冷却用のガスのバルブを閉め、空調システムに可燃性ガスを送り込む。オーバーヒートした熱が引火点を超えた時、炎が一気に建物内を蹂躙した。

 スプリンクラーでなくガスでの消火だったことが、人的被害を大きくした。

 朝倉蓮華が始めたのが十五時過ぎ。理事長に報告が上がったのは十七時なので正味二時間の時限装置を仕込んだことになる。

 病院の車を使って一時間ほどかかる県下最大の都市にある駅に向かったことは分かったが、新幹線も乗り入れているその駅からどの方面に逃げたかまで追うことはできなかった。いくら彼女といえどもネットワークにつながっていないカメラの映像を見ることはできない。警察のような捜査権は持っていないのだ。

 最初どちらに向かっても、目的とするなら普通は東北の沿岸部だろう。あの混乱は、訳ありの人間をたやすく飲み込んだ。だが、といつもそこで思考がストップをかける。あの時のあの男は、普通ではなかったのだ。

 逃走用に使ったのは、自身の所有していた大型バイクでなく病院所有のミニバンで、機動力ではなく、居住性を重視した選択した理由が“それ”だ。

 “それ”らを連れて、大人だけでも大変な被災地に逃げるだろうか?と。

 いつも行き詰るそこで行き詰って、パソコンの電源を落とす。一つ伸びをすれば、一緒に首の筋肉がきしむのを感じた。

 立ち上がって部屋を出る。食欲はないが何か腹に入れないと明日の会議に支障が出るだろう。いつものように一階のカフェで軽食を頼む。社員証を提示すれば経理に請求が行き、給料から天引きしてくれる。

 窓際のテーブルに陣取って、庭に落ちる影を見る。二階はもう誰もいないようだ。時間はいつの間にか十九時を回っている。

 今日は眠れないだろうな、と先ほど帰っていった彼を思い出す。当事者でさえ思い悩み眠れぬ日を過ごしたのだ、巻き込まれた形であればその比ではないだろう。

 味気のない夕食を口に運んでいるうちに、目の前の椅子が引かれた。顔を上げれば顔見知りの医者だ。

「栄養偏りますよ」

 物腰穏やかなその忠告に肩を一つすくめる。カロリーさえ取れればいいのだ、との意思を込めて。

 そんな様子を見て彼も呆れたようなため息をつき、コトリ、とテーブルに温かい野菜スープを置いた。自身はコーヒーをテイクアウトしたらしい。

「いつもどうも」

「そう思うならそろそろ学習してください」

 必要と思ってないんで。と続ければ、もう一つ盛大なため息が降る。

「今日は何か?」

 この人が用もなく自分に会いに来ることはない。いい報告も悪い報告も大体彼からもたらされる。いつもと変わらない平静な声で男が告げる。

「麒麟が眠りました」

 それはどちらの報告か。

 一瞬だけ動きを止める。動揺は思ったよりない。内臓の冷えるような感覚だけだ。

 用件を済ませたらしい男は「では、明日の会議でお会いしましょう」と言いおいて席を立った。

 彼女も、冷えた内臓を温めるようにスープを飲み干して席を立つ。向かった先は先ほどの部屋の、その隣。

 そこは、金山瑠璃と同じく、理事長の飼い犬である彼女に与えられた居室だった。

 シンプルな部屋はビジネスホテルのようだ。一応は独立した風呂とトイレ、狭い洗面所と簡易キッチン、クローゼット、小さな冷蔵庫、ポットなどもそれを思わせる。例外は小型の洗濯機くらいか。

 憂鬱案件が増えたせいでシャワーを浴びてもすっきりしなかった彼女は冷蔵庫から缶ビールを一本取りだして寝酒にし、無理やり夢の中に旅立った。


 大会議室にその日集まったのは三十名弱。

 二人掛けのテーブルが十六脚。両脇と中央に通路を確保してセッティングされている。

 最前列でこちらを向いて座ったのが四代目を始めとした中心メンバーだ。昨日の彼もそちら側に座っている。年嵩の(と言っても四十代五十代だ)医療班と研究班が上座を締め、若い年代の実働班と情報班は末席に追いやられていた。

「どっからこんなに…」

 呟いたのは左隣に座った藤枝だ。声に出してしまうのがやはり若い。

 自前のノートパソコンにテキストを叩き、画面を見せる。

『聞かれてると面倒だから小声でね。これでもまだ半分だよ』

『医療班と研究職は、倫理観なんかどっかに落っことしてきたサイコパスたち。四代目がリクルートしてきてるから忠誠心強め。実働部隊は親が例の事件に巻き込まれた子どもたちが半分。もう半分は理事長に心酔してる兵隊。常磐蒼一のことも、金山瑠璃のことも知ってる』

 テキストを読み込んだらしく、彼が口を噤む。実際、ここにいるのは理事長を盲目的に崇拝する人間ばかりだ。だから、金山が警察に追われていると知っていても口に出すものはいない。尤も、金山は事件後から偽名を使っており、本名を知るものもわずかなのだが。

 会議開始時間もぎりぎりになってほとんどの席が埋まる中、彼の反対隣りにようやく人が座った。ぎくりと隣の肩が緊張するのが分かる。

「ちょっと。うちの子、怖がらせないでよ」

 身体を投げ出すようにパイプ椅子に座り腕を組んだ金山瑠璃は、いつもと同じワイシャツとスラックス姿だ。伊達眼鏡の奥から初顔の彼に視線を据える。

「新人か?ご苦労だな」

 思ってもいないだろう感想によくもまぁ、と呆れる。もう一つ噛みついておきたかったが、理事長が会議の開始を知らせて叶わなかった。

「まずは研究班からの報告です」

 前半は復元された研究データから進められている実験などの報告だ。復元してやったのはこっちだというのに感謝もなく次を要求してくる。聞いていると腹が立ってくるので、金山に倣って腕を組み、目を閉じた。長ったらしい報告が人を変えて一時間ほど続き、次いで医療班の報告も始まった。お偉いさん方の診断結果などだ。こちらも聞いていても分からないのでスルーする。

「次、情報班」

 愛想のない進行に心の中で悪態をついて、起立する。

「進展はありません。データの復元はほぼ完了しました。物理的に焼けてしまったデータはどうやっても復元の見込みはありません。追跡のほうも、駅から直接アクセスできる主要都市はこの七年で調査はほぼ終わっています。可能性の一つとして混乱期の東北沿岸も考えられますが、常磐会として派遣した医療スタッフ、ボランティアスタッフともに捜索する余裕がなく、成果は上がっていません。その他、警察のシステムやSNSに上がってくるデータに顔認証を仕込んでいますが八割はエラー、二割は他人の空似です。その場合、現地に人を派遣して確認しています」

 派遣されるのはほとんどが金山瑠璃だ。実働班はほぼ全員蒼一の顔を知っているが、蒼一の実力に敵うのが金山しかおらず、結果として男は単独行動を取ることになった。

 以上です、と締め着席する。前のほうから“役立たず”と聞こえたが、苛立ちは一度腹の中に収める。次に指名されたのは実動班の班長である男だ。

 だが、起立したのは副官の滝澤だった。理知的な顔立ちとスーツが長身によく似合う好青年で、彼も確か格闘技を経験しているはずだ。

「現在、施設所属のうち関係児童十二名の適性はこちらで確認しました。五名は運動能力への適正なし。七名はこちらで預かり育成する予定ですが、おそらく平均的な能力の保持に留まると思われます。以上です」

 会議の後半は大体定形になってきた。七年近く続けば当たり前か。

 過去一度だけ、捜索を外注してはどうか、という話が出た。全国規模でネットワークを張るグレーな商社だ。その時は珍しく金山が強く却下を出した。

「奴らにその手の頼みごとをすると未来永劫強請られるぞ。金じゃなく、人や技術をだ」

 それには理事長もおおむね賛成し、以降その話題は出ていない。

 理事長が解散を宣言し、仕事に余念がない大半のメンバーは自分の持ち場に戻っていった。残っているのは理事長含め六人だ。

「今日もだんまりかい?」

 口火を切ったのは理事長だ。座ったまま最前列中央のテーブルで肘をつき、目的の男に声を掛ける。それなりの広さがあるこの会議室でも通る声は涼やかで、大勢の前で話すことに慣れていた。

「もう少し積極的に参加してほしいんだけど?」

 対して男は身体を投げ出したまま、理事長に視線を返した。薄い唇から、こちらも張り慣れた低い声が出る。

「だったら許可出せよ。あいつの関係者、一人ずつ吹っ飛ばせば出てくんだろ」

「それはダメだって言っただろ。そういうことをすれば捕まるリスクが高くなるからね。キミがもし捕まって、自白されたら困る」

「言ってんだろ、オレはテメェの駒だ。口なんざねぇよ」

 埒が明かないと首を振った理事長は、今度はこちらをターゲットにしたようだ。

「キミはどうなんだい、アリス。人も増やしたんだ。そろそろ見つけてもらわないと困る」

 藪蛇か。先ほど収めた苛立ちが頭をもたげる。狸に噛みついたらぽっくり逝きそうだが理事長くらいなら死にはすまいか、と言葉を返す。お手上げ、のボディランゲージ付きだ。

「人増えたって言ったって一朝一夕じゃ無茶です。日本の面積知ってます?三十七万八千平方キロメートル。そこに総人口一億二千六百十六万七千人。プラス無戸籍者は推定六万人。手掛かりなしじゃ“大海の一滴”ですよ」

「言い訳は聞きたくないね。いい加減待つのは飽きたんだ」

「理事長、そろそろ」と秘書の笹原に促されてようやく立ち上がった理事長は、退室するためにこちらへと歩みを進めた。そのまま諳んじるのは漢詩の一節だ。

「蒹葭 蒼蒼たり、

 白露 霜となる。

 謂う所の伊の人

 水の一方にあり。

 遡洄して之に従わんとすれば、

 道険しく且つ長し。

 遡游して之に従わんとすれば、

 宛ら水の中央にあり」

 会えぬ人を想う漢詩は、彼が詠むと意味を変える。目で、声で、動きでこちらを威圧する術を心得ている男は、いつの間にか呼吸すら躊躇われる緊張感で場を支配した。ギシリ、と金山が体勢を変えた時の椅子の軋みにすら心臓が跳ねる。

「奪われたものに興味はないよ。でも蒼一には罰を受けてもらわなきゃ困る」

 涼やかな声の裏側に狂気がにじむようになったのはいつからか。静かに隣までやってきた男にポン、と軽く肩を叩かれて心臓が委縮する。肩に置かれた手に力が籠められ、耳元に理事長のきれいな顔が近寄って。

 サラリと理事長の柔らかな髪が頬を撫でた。

「こういう仕事ってあんまり交代させたくないんだ。だから、キミには期待しているんだよ」

 潜められ、微かに掠れた声。掴まれた肩に痛いほど力が籠められ、そして唐突に離れていった。

 理事長の視線はそのまま新人の彼に移り、じっとりとした熱を持って嬲る。

「藤枝、くんだね?」

 理事長の手が、彼の肩に置かれる。ゆっくりと、その肩を叩き、「よろしくね」と言って離れていった。コツリ、コツリ、と革靴の音がゆっくりと移動し、やがて出入口の扉が開く。

 パタリ。軽い音を立てて退室した扉が閉まり、ようやく息をついた。

「…あの人ホントに妖怪じみてきたね」

「藤枝くん大丈夫?」と聞けば、隣に座ったままの彼が放心状態でこちらを見上げた。かわいそうに、毒気が強すぎたか。片付けに残る金山らに別れを告げて、藤枝と二階に降りる。

「どうだった?」と水を向ければ、いまだに放心状態の藤枝は休憩スペースのソファに座ってぼんやりしていた。お茶を淹れてあげれば素直に受け取る。

「あれが理事長ですか?」

「そうだよ。金山瑠璃が霞むでしょ」

「ちょっと忘れ掛けました」

 正直な感想に少し口角が上がる。笑い事ではないのだけれど。

 言葉を紡ぐうちに、彼の目に力が戻ってきた。壮絶な過去を持つのに、そう言った意味では少しも擦れてない彼は少し手を貸してあげればすぐに立ち上がってくれる。それもこの半年でたくさん見てきた。

「警察、行く?」

「…いずれは。でも」と言いながら視線は宙を漂い言葉を探す。

 それを待つのは嫌いじゃない。一点に定まった時、恒星のような力強い光を放つからだ。

「あそこにいた人たちは自分の仕事に誇りと自信を持ってました。それはあの人もです。それを、何が支えているのか知りたいです」

 きれいな光。窓ガラス越し。眼前に広がる木々に視線を送り、夏から秋、そして冬に向かう季節に、浅葱は思いを馳せた。


 それはここにいない誰かへの哀悼もあったかもしれない。


出典:中国名詩選(上)兼葭 第一節

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