~Sの場合~
高く突き抜けた青い空を恨めしく見上げ、深くため息を吐く。空調が効いた教室は快適だったが、彼女の乙女心は複雑だった。夏休み最後の補講が終わった解放感で騒がしい中、耐え切れずに机に突っ伏した彼女に友人二人が遠慮なく声を掛けた。
「何?悩み?恋煩い?」
恋煩いとはまた古風な…。だが、黒縁眼鏡が似合う文学少女らしい幼馴染の問い掛けに美琴は突っ伏したままくぐもった声で「両方」と答えた。
「どれ、恋煩いのほうから聞いてあげる」
ノリがいいのは高校で隣の席になった少女だ。腰を据えて聞く気らしくもう一人も近くの椅子に座り込んだ。姿勢は二人とも前のめりだ。諦めて起き上がり、二人に向かい合う。
硬い椅子に寄りかかると、抗議のようにギシリと鳴いた。
「相手は?」
「…スーツ姿のお兄さん」
「出会いは?」
「いつ?どこで?」
尋問のような勢いに苦笑する。空調の、乾燥した空気が頬を撫でるのを感じて、ポケットからリップクリームを取り出して塗った。伸ばした髪に付かないようゴムで纏める。
受験前から伸ばしている髪は、ようやく肩口を過ぎた。
「週末、市内に買い物に行ったの」
「ふんふん」
「電車降りようとしたら後ろにいたその人のボタンかなんかに髪が引っ掛かってさ、慌ててたら一緒に電車降りてくれて」
「べたなナンパじゃん」
ノリのいいほうがそうジャッジする。「やっぱり?」
「イケメン?」
「ちょっとお父さんに似てた」
「あんたファザコンだもんね」
「お父さんかっこいいよ」
「あんたの父さんに限っては分かる。道着姿、かっこいいよね。身長あるし」
文学少女のほうは何度か家にも遊びに来たこともあるので同意が深い。「その割にあんたチビだけどね」とは余計なお世話だ。
「で、なんで凹んでたの?」
少し浮上したテンションがまた沈没した。顔を覆って二人を指の隙間から覗く。
羞恥で耳が赤くなっているのが分かった。
「…お願い変態って言わないで」
「何?」
「めっちゃいい匂いしたの」
「変態じゃん」
「やっぱりぃ?」
もう一回机に突っ伏す。
何なら動けない自分を連れて電車を降りた時の、体温の近さとか背中に当たった鍛えているらしい身体とかも反芻しっぱなしだとこの二人に伝えたら大騒ぎになるだろう。
「連絡先は?」
「…名刺もらった」
その一言でやっぱり大騒ぎをして、生徒手帳のケースに差し込まれた薄い緑の小さな紙片を机の上に出した。一般的な様式に印字された名前などの確認もそこそこに電話を掛けさせられそうになって美琴はストップをかけた。
「むこう社会人だから!仕事中だから!」
友人二人に盛大なブーイングを受けて、最終的に進展があれば報告するように厳命をされて、美琴は鞄を持って立ち上がった。
「もう帰るの?」
「うん、今日は道場の日。外部の人も来るし」
「外部の人?」
うん、と顎を引いた美琴は二人に顔を寄せて小声になった。
「三月にまたおっきく揺れたじゃん?あれで県警さんの道場が壊れたらしくってこの半年くらいうちの道場使ってんの」
「なんで小声」
「あんまりお巡りさんがうちに来てるって知られたくないじゃん」
そんなもんか?という顔をした二人にそんなもんよ、と肩を竦めて、今度こそ手を振った。
「それじゃああたしも帰ろうかな」
そんなことを言いながら付いてきたのは文学少女のほうだ。他愛もない話をしていたと思ったら校門を離れたところで突然「んで?」と話を変えた。
「ん?」
「悩みのほう」
おや覚えていたのか。
相変わらず機微の細かいやつだ、と感心して、思い出した悩みにため息を一つ吐いた。蒸し暑い風に、テンションが駄々を捏ねるように下がる。
「親が、さ」
「うん」
「子どもに隠すことって何だと思う?」
校門からすぐのところにあるバス停で立ち止まって、いつも通り遅れているバスを待つ。
親の挙動がおかしいと気が付いたのは桜が散り切った高校の入学式直後だ。こそこそと話し合いをしてはこちらの気配に気付いて話題を変える、何かを話したそうな顔をしながら視線を外す、ということが何度もあった。半年ほど待ってみたがいまだに話を切り出す気配はない。
「離婚、かなぁ。やっぱ」
いつの記憶なのか定かでないほど、それは古いものだった。近所の誰かが、道場の脇に残されていた井戸に二人、三人と集まってひそひそと話をしていたのを覚えていて、災害後の水道が使えない時期だったことは推測できる。飲用水には使えないが、道具を洗ったり泥を流したりと言ったことには重宝したそうだ。美琴は幼すぎて仔細は覚えていない。
それでも会話の内容を覚えていたのは、幼心にも自分の家族のことを話していると理解したからだ。
「みっちゃんもかわいそうにね。結婚を考えてる人もいたんでしょ?」
「弘さんもちょっと横暴よね、いくら道場を継ぐ人がいなくなったからって」
「お兄さん、まだ見つからないんでしょ?」
「それがね、だいぶ前に亡くなってたって聞いてたそうなのよ。でも家を出た理由が駆け落ちでしょ?もう自分と縁はないって」
「茂和くんも悪い子じゃなかったけど、ねぇ」
幼すぎて意味など分からないだろうと目の前で繰り広げられたそれは、その頃は確かにただの音の羅列だった。
母の美春は災害後から市役所の臨時の仕事をはじめ、美琴が幼い頃は彼女が起きている間に帰宅できた記憶はなく、代わりに、道場の管理をしていた父が美琴の世話も一手に引き受けていた。混乱期の最中にあった美琴の幼少期は駆け足で過ぎ、小学校に上がって、初めて父は美琴を道場へ招き入れた。
ようやく、道場を避難所にしていたすべての人が自宅に戻ったのだ。
ブルーシートや段ボール、毛布の敷かれていない道場は父が磨いたのか、美琴の目に光って見えた。当時父は二十代後半に差し掛かったばかりで、その頃交流のあった県警の剣道部を相手に互角に渡り合っていた様子も彼女は覚えていて、凛々しい父の姿に憧れた。
昔聞いた井戸端会議の意味を理解したのは、小学校も高学年になってからだった。両親の結婚が幸せなものではなかったことを知って、いずれは来る日なのだろうと思った。
母は、別に好きな人がいる。その人と美琴は会ったこともなく、もし自分をいらないと言ったら母はどうするのだろう。
父とは、おそらく血のつながりがない。引き取ってくれることなどないだろう。
孤独になるかもしれない未来を想って、美琴は小さな胸を痛めた。
だがその心配もそれから長い間現実になることはなく、平穏なまま中学時代も過ぎていった。
そして今だ。喧嘩をしている気配でもないが奥歯にものが挟まったようなこの空気は、こちらからは打開できそうでできなくて、悶えるしかない。
「まぁ、なるようにしかならんでしょ」
ようやく来たバスに乗り込みながら、彼女が言った。
口調は軽いが中身まで無責任ではないことは長年の付き合いで知っている。
ありがたくその軽さを享受して、そこそこ混んでいるバスの吊革につかまって立った。
窓の外を流れる景色は、駅に向かうにつれて賑わいを増す。政令指令都市たるこの市は県民の半分が居住しているといい、丘陵と太平洋、川に囲まれた平野に市域を広げているためか自然も多く残っている。街路樹は夏の気候に誘われて緑の色を深くし、海風を含んだ特有の湿気も身体にまとわりつく。
駅前でバスを降り、改札を抜けて沿線のホームを目指した。二人の最寄駅までは数駅だがなんせ地方なので三十分ほど掛かる。
家に帰りたくなくてHRが終わった後に管を巻いていたのが効いて、一本前の電車が行ったばかりだ。間の悪さにため息をついて、並んでホームのベンチに腰を下ろす。
「アイスでも食べる?」
「賛成」
周りを見渡して、ホームに備え付けの自販機に財布を持って立ち上がる。お悩み相談の代金代わりに「出すよ」と言ったら、背後から聞こえたのは「チョコミント」だ。自分の分はグレープのシャーベットを買ってベンチに戻る。
「さっきの話だけど」
「ん?」
「なんかあったら逃げといで」
「ん」
彼女の母も同じことを言ってくれるだろう。感謝の返事をして、しばらくの間アイスの冷たさに浸った。
※
時は春まで遡る。
この前また大っきく揺れた、の“また”の部分に掛かるのは、例の激甚災害だ。
同じく三月。日付けは五日ほどずれていたか。
忘れるな、と言わんばかりに大きく揺れて、人的被害はなかったものの震源域が前回とは異なっていたためか、はたまた経年劣化のためか物的被害は大きく、それは彼らが活動拠点としていた道場も例外ではなかった。修理を申請したが、築数十年を経過していた彼らの職場の主要建物もかなりの被害を受け、年度末ということもあって修理の予算はそちらに回された。なんとも切ない理由だが彼らも鍛錬は業務の一環なわけで、前回の震災の際にも世話になったという個人所有の道場を間借りさせてもらうことになり、年度初日の今日、業務後に部長や先輩数人と挨拶に伺うことになっていた。
新米の彼が運転席に収まり、先輩のナビに従ってミニバンのハンドルを切る。
災害時、地域の民間避難所としての役割を果たしていたというその道場は、当時の上司たちが打診した活動拠点としての利用を快く承諾してくれた経緯があり、それを覚えていた部長が今回も連絡したようだ。
「避難所として使ってたのによく許可してもらえましたよね」
当時の混乱を彼は被災者の立場で覚えていた。通信手段を絶たれ、寒さに震え、そして海から逃げた。誰しもが家族、友人、あるいは知人を亡くし、家を失くし、電気もガスも、水すらも不足する中で弱い者から彼岸を渡っていった。
それでも毎日やらなければならないことは山のようにあり、涙にくれることもできずに皆、日が暮れるとともに泥のように眠った。その中で、自身を顧みず働く警察官や消防隊、医師や自衛隊に憧れたのは自分だけではない。
「あの時は火事場泥棒も多かったからな」
被災者に鞭打つような話は成長してから知った。そんな状況の中でなら牽制効果がある物なら何でも使うだろう。そんなことを話しているうちに、目的地に到着した。住宅街の入り口に昔ながらの道場が佇む。署から二十分と言ったところか。道路の込み具合ではもう少し掛かるかもしれない。
敷地内に車を停め、部長を先頭に純和風の家のインターホンを鳴らした。後付けのものらしくカメラはないので応答した声に来意を伝える。
しばらくして手入れの行き届いた引き戸を開けたのは道着姿の長身痩躯の男性だった。四月に入ったとは言え今日などはかなり冷え込んでいるのに、インナーなどは着ていないようだ。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
穏やかな笑みと声。短く刈られた黒髪に相応の年を重ねた精悍な顔立ち。姿勢もよく、足さばきを見るにかなりの実力の持ち主だと分かる。四十代前半、とあたりを付けてしまうのは悲しいかな職業病だ。
案内された広い和室で部長を上座に順に着座すると、案内してくれた男性は手際よくお茶を淹れてから「少々お待ちください」と中座していった。
部長がお茶に手を付けたので、各々それに倣う。お茶の良し悪しなど分からないが、それでも美味いと感じるのは淹れてくれた彼の腕前だろう。
仏間を兼ねたらしいその部屋の天井近くには、先祖代々の遺影が飾られていた。一番古いものはよく見れば写真と見紛うような精緻な絵で、それだけ長い年月、脈々と受け継がれてきたものがあるのだと見る者に教える。反対に、カラーで残された新しい写真には若い面影が何枚かあり、見てはいけないものを見た時の居心地の悪さを感じて彼は視線を逸らした。
逸らした先の仏壇には毎日取り換えられているのであろう水とお茶の湯呑、茶菓子が供えられている。昔ながらの香炉には白い灰が重なり、故人への想いが垣間見えた。
やがて、先ほどの彼に支えられながら老年の小柄な男性がやってきた。足が悪いのか、高座椅子に腰掛けて頭を下げた。
「高いところから申し訳ありません。膝を悪くしまして。師範を務めております白瀬と申します」
足は悪くしたといっても姿勢がいいのはそれだけ鍛えていたからだろう。言葉遣いや動作にも不安はない。
「こちらは息子のシゲカズです。道場のことは、今はほとんどこれに任せています」
父親にお茶を出した後、控えていた彼が礼をした。その彼に、部長が頭を下げる。
「お世話になります。部員は総勢六十名を越えますので、本日は代表を連れて参りました。我々六名で送迎をいたします」
上座から順に名乗り、挨拶を交わす。顔合わせが済んだところで息子と紹介された彼が、「すみません、門下生が来る時間なので失礼します」と退室していった。
「あとはうちの孫娘が道場を使っております。早めに帰ってくるようには言っておいたのですが…」
老人の正面の梁に掛けられた時計を見る。つられてそちらを見ようと身を捩った時、ふすまの外からハキハキとした元気のいい声が「失礼します」と告げた。
きちんとした動作でふすまを開けて、部屋の中に膝で滑り込んできたのは剣道で有名な高校の制服を着た少女だった。スカートなのに袴の動作をするので、膝を擦ってしまわないかハラハラする。
「白瀬美琴です。よろしくお願いします」
勝気そうな切れ長の目がしっかりとこちらを捕える。父親仕込みらしいきれいな礼で、伸ばしかけの黒髪が流れるのに見惚れた。
「間に合いましたな」
相好を崩した老人は、孫娘が可愛くて仕方がないようだ。これ以上ないくらい目尻が下がって皺が深くなる。部長が水を向けると、この春高校に進学したばかりの十五歳だという。入学式はまだだが、部活の見学に行ってきたということだ。
大人たちの挨拶にも退屈そうな顔をしない高校生はこっそり彼らのお茶を淹れなおしてくれた。その動作もこっそりだけれどきびきびしていて、見ていて気持ちがいい。
今どき、というと怒られそうな気がするが、これだけ目配りが効く高校生も中々貴重だろう。
「この度はご迷惑をお掛けします」
「いやいや、県警本部の部員さんたちならこちらもいい刺激になります。道場の修繕が終わった後もぜひ交流会などご検討いただければと思います」
「もちろん、よろしくお願いします」
やがて部長と白瀬老人の雑談もひと段落したので、見送りは辞退して玄関まで出る。祖父に待つように告げた彼女が代わりに玄関まで出てきてくれた。
「あの、すみません」
「はい?」
女子高生が声を掛けるにはだいぶ勇気がいるだろう人相をしている部長に、彼女が臆せず声を掛ける。それもまた珍しい光景なのでうっかり見入ってしまった。和室のほうを気にするように声のトーンを落とす。
「父が、帰る前にもう一度お時間が欲しいそうなんです」
「それは構いませんが…」
半分以上が靴を履き終え、最初に履き終えた者などは外に出ている。戻ろうとした彼らを彼女は小声のまま慌てて留めた。
「すみません、こちらではなく道場のほうにお願いします」
お願いします。ともう一度深く礼をした彼女は、彼が引き戸を閉めるまで玄関にいてくれた。
何事だ?と顔を見合わせながら、道場の入り口へ向かう。重たい引き戸を開けるとやはり昔ながらの三和土があって、壁際に厚い木材で設えられた下足箱があった。長年磨かれてきれいな飴色に光っている。
奥で気付いた彼が中の引き戸を開けて招き入れてくれた。
「ご足労いただきましてありがとうございます」
門下生に「そのまま続けて」と指示して、道場側の応接室に案内する。応接室兼事務所といった風情の洋風の部屋は彼のものだろうトロフィーや盾が飾られていて、かなりの腕前を数で証明していた。入門生に説明をするだけの部屋は先ほどの和室より狭く、大の大人、しかも強面な男たちが六人も入るとさすがに窮屈だ。ソファが人数分はないので、パイプ椅子が準備してあった。彼が奥に座り、向かいのソファには部長と一番上の先輩が座る。
「手狭で申し訳ございません」
苦笑した彼がまた頭を下げる。お気付きの方もおられるかもしれませんが、と前置きした時、家のほうに通ずるだろう方向の扉がノックされて、先ほどのハキハキした声が「お父さん?じいちゃん部屋に置いてきたよ」と告げた。
「あぁ、ありがとう」
そのまま道場に入ったらしく、元気のいい「失礼します」も聞こえてくる。
「それで、お話というのは?」
「…便宜上父と呼ばせていただきますが、父、弘のこと、父の言うシゲカズ氏のこと、です。お気付きになられたかもしれませんが、父のいうシゲカズ…茂和は私ではありませんし、父と私の間に血の繋がりはありません」
突然のカミングアウトに呆気にとられた我々を置いて立ち上がった彼は、トロフィーの飾られた棚の下段からアルバムを出して、ある一ページを開いて見せてくれた。
「父の言う白瀬茂和氏はこちらです」
一度泥で汚れた形跡はあるが、先ほどの老人、白瀬弘が道着姿で写っているのは明らかだ。今よりだいぶ若く、それほど前のものだと知れる。隣に映るのは目の前の彼ではなく朴訥そうな、体格のいい青年だ。年の頃は三十代で、遺影の中にいた一人だ。
トロフィーを持ち、大会名の書かれた看板の前で笑んでいる。
そしてそのトロフィーは、彼の後ろに並んでいるうちの一つだ。
金字で刻まれた名は、白の字は読めるが、後が削られたように消えている。よく見れば他のトロフィーや盾もところどころ壊れた形跡があって、あの時の被害を教えていた。
向かいにまた座りなおして、彼は話を続けた。
「震災で、ご夫婦ともに飲まれました」
隠された言葉は“海に”だ。そんな家族はどれほどいたか。一家全員が、というのも珍しくはなく、それほどのことが起こったのがあの時だ。自然顔がうつむいていく。
「それでも父はあの時を気丈に乗り越えて、心を病んだ母も数年前に見送りました。変わったのはこの数か月です。今までも息子と思っている、というようなことは申しておりましたが、いつの間にか私を茂和と呼ぶようになりました。訂正をすると激高し、足もその際痛めました。普段はあの通り話もかみ合いますが、医師の話だとどうやら認知機能の低下の問題らしく回復の見込みは薄いと…」
小さく息を継いだ彼は、顔を上げて、またこちらを向いた。
「ご近所さんも知っている話ですのでいずれ皆さんのお耳にも入る話ではありますが、こちらから話しておかねば余計な誤解をされかねないと思いまして。家庭内の話で申し訳ありませんがご承知おきいただければと思います」
面前の男たちに少しも怯まず、彼は話しきった。少し清々しい顔をしているのは肩の荷が下りたためだろうか。彼の向かいに座った部長の後頭部がわずかに動いた。
「お話にくいことをありがとうございます。いくつか質問をしても?」
彼の首肯に、では、と部長の声が続く。
「息子ではない、とのことですが、あなたがたは?」
「あぁ、すみません。震災の際に、一家でこちらに避難してまいりました。ありがたいことにご近所の方々含めて可愛がっていただきまして…、いずれは出なければ、と思ってはいたのですが」
静かに微笑みながら言葉を切った彼が、開かれたままのアルバムに目を落とした。笑っている二人は未来の悲劇を知らない。
「…息子と呼んでくれる父につい甘えてしまって今に至ります」
「娘さんは白瀬姓を名乗ってらっしゃったようですが…?」
「えぇ、娘が小学生になるのを機に、父に養子縁組を提案していただきました。もちろんまだ父の意識がしっかりしていた頃です。事情があって私は叶いませんでしたが、妻と娘はこちらに世話になることになりました」
「震災前のご自宅などにお戻りになるご予定は?」
彼はまだ、笑っている二人を見ていた。穏やかな目が、わずかに剣吞な雰囲気を帯びる。冷ややかなその雰囲気に、そこにいた全員が息を飲んだ。穏やかそうな彼が醸し出しているとは思えないそれは、部屋の温度すら下げたようだ。
引き結ばれた唇が薄く動く。
「えぇ、いずれは…」
何かの覚悟を大きく吸い込んで、またあの穏やかな笑みを浮かべた彼は、冷ややかなその空気を一瞬で払拭した。
ですが、と前の言葉を否定して。
「父を見送るまでは…あるいは向こうの事情が変わるまではこちらで父の世話をしようと思っております」
どうぞ、私のことはそのままシゲカズとお呼びください。と頭を下げた彼に、何かを問おうとした部長も諦めたように頷いて立ち上がった。
「お時間をいただきましてありがとうございました。来週からよろしくお願いします」
雪駄を履いて駐車場まで出てきてくれた彼に、最後に部長が声を掛けた。
「お困りごとでしたら多少なりとお力になれるかと思いますので、どうぞご遠慮なく」
寒そうなそぶりを一切見せない彼は一瞬目を見開いて、そのあと嬉しそうにありがとうございます、と言った。
人懐っこい笑みが本来の彼だろう、と思わせる笑い方だった。