【バイトSOS編】二兎追うものは一兎も追加して、三兎を味方に付ける
「失礼します……」
朝一で、俺は保健室へ向かった。オウレン先生に診てもらおうと思って。
「あら……今日はアダムくんね。どうしたの?」
オウレン先生はすぐ俺に気づき、優しく声をかけてくれた。
(今日は……ってことは、昨日はアンズが来てたのか?)
少し気になったが、深入りするのはやめて、さっさと本題に入る。
「実は、ちょっと火傷しちゃって……一応、診てもらえますか?」
そう言って手を差し出すと、オウレン先生は目を細め、じっくりと火傷跡を観察した。
「珍しいわね。アダムくんって、こういう火傷をするタイプじゃないと思ってたけど……もしかして、何かあった?」
(――鋭い、さすがお医者さん)
俺のわずかな変化もすぐに見抜くらしい。正直に話すべきか、一瞬迷う。でも、オウレン先生はオオバコさんのことを知っている。相談してみてもいいかもしれない。
「オウレン先生、相談したいことがあるのですが……」
俺がそう切り出すと、先生はすぐに手を止め、穏やかに微笑んだ。
「いいわよ。手当も無事終わったし、実験部の子はみんな良い子だから、相談に乗るわ。どうしたの?」
俺は迷いながらも、幼馴染のアンズがバイトで忙しくなった理由、研究取扱者のオオバコさんと一緒に調査へ行ったこと、そして二人からのお誘いを受けた結果――ダブルブッキングしてしまったことを、正直に話した。
どっちのお誘いも断らずに行きたいなんて、ワガママかもしれない。それでも、アンズの歌声は絶対聴きたいし、今回の調査は俺にとって大きな学びになったから、最後まで見届けるべき案件だとも思う。
(だからこそ、どちらも諦めたくない……!)
オウレン先生は黙って俺の話を聞きながら、手際よくコーヒーを淹れてくれた。そして、俺の話が一通り終わったところで、静かに口を開く。
「贅沢な悩みね……。でも、アダムくん。私が言えるのはひとつだけ」
先生はカップを俺の前にそっと置くと、まっすぐに俺を見つめた。
「後悔しない選択をしなさい――」
その言葉が、すとんと腑に落ちた。
やっぱり、オウレン先生は俺のことを尊重してくれる。10歳の頃からの付き合いだから、俺の性格だけでなく、迷ったときの癖も、すべて分かってくれているのだろう。
「って言いたいところだけど、私から質問したいことがあるの。その説明会、アダムくんじゃないとできない?」
オウレン先生が首を傾げながら、問いかける。
「衛生教育なら、オオバコさんだけでも何とかなるとは思います。本来なら、厨房や現場で実際に料理をしている人が説明するといいのですが……俺たちは研究者であって、料理人ではないので……」
とはいえ、土日に参加したがる人なんて、そうそういない。
だから、俺たちがやるしかない。そう思い込んでいたけど――。
「アダムくん、いいアイデアがあるわ。私がオオバコちゃんとやり取りをするから、任せて」
「えっ……いいんですか? オオバコさんとなかなか連絡が繋がらなかったんですけど……」
「大丈夫よ。繋がるルートがあるの。私が仕事の合間にやり取りをするから、あなたは学業に専念しなさい」
先生の言葉に驚いた。そんな方法があるのか……。
「本当に?」
「えぇ、大人に二言はないのよ」
その言葉に、思わず口元が緩む。
俺も(前世では)大人だったけど、こんなふうに頼もしく誰かに任せられるのは、いつ以来だろうか。
しかも、「学業に専念しなさい」なんて、転生前の親以外から聞いたのは、いつぶりだったか……。
俺は先生を信じることにした――『大人に二言はない』って。
「じゃあ、お願いします」
深々と頭を下げ、教室へ向かった。
その日は、眠りにつくまで頭がいっぱいだった。
明日が楽しみで仕方ない――でも、どう乗り越えるべきかも考え続けていた。
翌日 午後4時――俺は、オオバコさんと例の居酒屋の前で待ち合わせをした。
「オオバコさん、こんにちは。実は……」
なんとか事情を話そうとした、その時――。
「安心して! 指導はあっという間に終わるからね! それより、店のご夫婦は3日間の営業停止で元気がないから、あまり言い過ぎないようにね?」
オオバコさんは、俺の言葉を遮るように明るく言い切ると、すぐに店の中へ入っていった。
(……やばい。言いそびれた。コンサートのこと、伝えられなかった……)
時計を見る。午後4時ちょうど。
コンサート開始まで、あと1時間――間に合うのか?
焦りがこみ上げるが、今はそれよりも、この場での役目を果たさなければならない。
(……指導に集中しないと)
自分にそう言い聞かせ、店の中へと足を踏み入れる。そして、すぐに指導を開始した。
「鶏肉ですが、鶏のタタキで提供していたパックに『加熱用』と書かれていたのを覚えていますか?」
奥さんは視線を落とし、小さく返事をする。
「……はい」
声だけでわかる、明らかに元気がない。
(やはり、営業停止になったことが相当こたえているな……)
あまり問い詰めない方がいいと判断した。
「鶏肉は、生のままだと非常に危険です。特に『加熱用』と書かれているものは、中心部までしっかり火を通さないといけません」
「はい……。実は私たち、この3日間しっかり考え直しました。その結果、鶏のタタキの提供をやめることにしたんです」
「あっ、そうだったんですか?」
今回の件で、処分の重みを痛感し、真剣に向き合った末の決断なのだろう。俺は、『なぜそう判断したのだろうか?』とつい考え込んでしまった。
「ああ、心配しないでくれ。代わりに、別の鶏料理を出すことにしたんだ。実は、女房の得意料理が唐揚げでな……」
そう言って、店主の旦那さんはふっと笑った。
「俺たちは、親父の店を継がなきゃならないって思い込んでいた。でも、それに囚われすぎて、大事なことを見失っていたのかもしれない。俺たちには、俺たちなりの得意分野がある。だから、これからは衛生管理を徹底しながら、この業界でしっかりやっていこうと思う」
(――得意分野で生きていく、か)
その言葉が、俺の心に深く響いた。
研究者の世界も同じかもしれない。自分の強みを活かすことで、初めて本当に納得できる道が見えてくるのかもしれない。
「わかりました。ちなみに、しっかり火が通っているか確認するには、赤みがないか目視することも大切ですが、中心温度を測ると確実ですよ」
「それは初めて知った。中心温度計を買ってみるよ。あと、厨房の消毒方法についても教えてくれないか?」
「もちろんです。消毒薬の種類や使い方をまとめた一覧表を作ってきたので、お渡ししますね」
店主たちが真剣に耳を傾けてくれたので、俺もつい説明に熱が入ってしまった。気づけば、すでに40分が経過していた――。
(しまった……!)
この居酒屋から、アンズのコンサート会場であるカフェは徒歩で20分かかる。
(バイクがあれば、10分ぐらいで着くんだけどな……)
やはり、俺のスケジュール管理は甘かった。最悪、今回はアンズの歌声を聴けなくても、また別の機会があるはず。
(でも、約束を破ることになるよな……アンズ、ごめん)
心の中で何度も自問自答していた、その時――。
「アダム!」
突然、オオバコさんが俺の肩をバンッと強く叩く。思わず身をすくめた俺に、彼女は予想外の言葉を投げかけた。
「アダム、よくやった。ちゃんと説明もできていたよ――お疲れさん!」
「……お疲れさん?」
(いったいどういう意味だ?)
「この後も説明会が続くのでは……?」
「うん。でも、この後の説明会は、私たちじゃなくてプロに任せるよ!」
「えっ……?」
(俺たち以外に、誰が説明できるんだ?)
全く予想がつかず、困惑していたところ、とある人物が現れた。
「失礼するよ――!」
場に響き渡る、威厳ある女性の声。
驚いて振り向くと、そこに立っていたのは、キハダ理事長だった。
「アダム、お疲れ様。ここからは私と――偉大なる先生をお呼びしたから、彼にも参加してもらうんだ」
そう言って、次に俺たちのところへやってきたのは――。
「こんにちは……ニボルと申します。本日はよろしくお願いします」
これは予想外過ぎた。俺は間に合わないかもと絶望していたけど、キハダ理事長とニボルさんがきてくれた。
(オウレン先生が手配してくれたのか……流石だ)
「オオバコちゃん、僕とキハダ理事長先生に任せて。とりあえず、アダムくん。彼女のところへ行っておいで」
「そうだ、アダム! 私たちは、君たちより圧倒的に調理経験が豊富だ! お行きなさい――」
二人はそう言うと、俺の手から資料を回収し、そのまま夫婦のもとへと向かい、説明会用の資料を手渡した。
アンズのコンサートまで、あと15分。
(どうすれば間に合う? 何を優先すべきだ?)
焦りで脳内が支配され、思考も止まる――俺はその場でフリーズしてしまった。
(バスは通っていない。タクシーを拾うか? でも、こんな場所で見つかるか?)
何か、ほかに使える交通手段は……。
歩きでは絶対に間に合わない。
だが、人間である俺には、瞬間移動のような魔法は使えない。
――その時、耳元で大きな声が響いた。
「アダム! しっかり掴まって! 今から向かうよ、ハートバックスに!」
そう言うやいなや、オオバコさんは俺の手首をグッと引き、二人で居酒屋を飛び出した。そして、彼女のバイクに飛び乗る。
「毎度すみません……途中で抜け出した感じになってる気がするんですが……本当に大丈夫ですか?」
「あぁ――彼らはプロ中のプロだ。心配いらない。それより――飛ばすから、しっかり掴まって!」
次の瞬間、バイクが猛スピードで駆け出す。風を切る音とエンジンの轟音が響く中、オオバコさんが言った。
「アダム――君が前世で叶えられなかった夢は、”結婚”なんだろう?」
オオバコさんの声が、疾走する風の中でもはっきりと耳に届く。
「なら、今日という機会を逃すな。アンズちゃんが、君の婚約者になるかもしれないのだから――」
まるで、ヒーロー映画のクライマックスで放たれる決め台詞みたいだ。
その余韻が、俺の心の奥深くに突き刺さる。
(俺は恵まれている――ただ運がいいんじゃない。みんなが支えてくれているから、こうしてチャンスを掴めているのかもしれないな……)
次回で【バイトSOS編】終了します!
アンズちゃん視点予定です。