【バイトSOS編】施設調査
午後6時――俺たちは例の居酒屋の前に着いた。
古びた木製の看板が頭上で軋む。
「さて……入りますか」
俺の掛け声に応えるように、オオバコさんが前に進む。
「失礼します! オオバコと申します。早速ですが、お店を拝見させていただきますね!」
「こんばんは。散らかっていて申し訳ないけど、どうぞ見てください……」
出迎えたのは、ネットで見たイメージとは大違いの若い夫婦だった。
(あれ……もっと年配の店主のはずじゃなかったか?)
「んじゃ、アダム。厨房の中へ入る前に、手袋とキャップを着けておこうね!」
そう言うと、オオバコさんが軽く指を振った。すると、ふわりと空中に手袋とキャップが現れ、まるで生き物のように俺たちの目の前を漂い始めた。
(すごい……。やっぱり天使族は魔法を声に出さなくても使えるんだ……うらやましいなぁ)
「オオバコさん、ありがとうございます。じゃあ、いただきますね!」
「うん! 中で何か気づいたことがあったら、遠慮せず教えてね!」
「はい、分かりました!」
俺は早速、冷蔵庫を開け、中の様子を確認しながら質問を始める。
「すみません、鶏肉ってどこに保管してますか?」
「ここだけど?」
指差されたのは冷蔵スペースだった。
「冷凍ではなく、冷蔵保管ですね?」
「えぇ。一応、野菜とは分けて入れているけど、何か問題が?」
「いえ、特に問題というわけではなくて。ただ、保管状態を確認したかっただけです」
(こんな質問でちゃんと調査が進んでるのか……?)
冷蔵庫の中身はぱっと見、整理されているようだったが、これで大丈夫なのか確信が持てない。「オオバコさん」と声をかけようとしたが、気づけば彼女は事件当日に提供された食材の保管状況を確認し、さらには拭き取り調査まで終えていた。
「すみません、手伝う余裕がなくて……」
「いいよ。質問もちゃんとできてる。遠慮せずにどんどん聞いてね。ほら、お店の人たちだって時間を割いて協力してくれてるんだから」
「はい……」
なんというか、すごい。いつもは冷静で少し手強い印象だったけど、意外と周りへの配慮もできる人なんだな。
俺の知らなかったオオバコさんの一面を見た気がして、少し胸が熱くなる。
(よし、次の質問をしよう――)
そう気合を入れ直した俺は、再び調査を進めるため、質問を続けた。
「えっと、鶏肉料理で提供していたのは――焼き鳥と鶏のタタキですか?」
「そうです。どちらのグループもコースで注文されていました」
「なるほど……ちなみに、タタキで使っている鶏肉のパッケージを見てもいいですか?」
「どうぞ」
旦那さんが冷蔵庫を開け、中から鶏肉のパッケージを取り出して手渡してくれた。冷たい包装の表面には、『加熱用』と大きく書かれているのが目に入る。
「これって……加熱はしましたか?」
「鶏肉の外面をしっかり炙って、色が変わったのを確認してから提供しましたよ」
一瞬、旦那さんの眉がぴくりと動いた。
「……もしかして、私たちを疑ってるんですか?」
その声には、わずかに不安と苛立ちが混じっていた。
(どう応えるべきだろう――ここで余計な波風を立てるわけにはいかない)
俺の質問に、夫婦は顔をしかめ、気まずそうに視線を交わしている。やり方がまずかったかもしれない――そう思った瞬間、オオバコさんがすかさず口を開いた。
「調査結果に必要な情報なので、どうかご協力いただけますか?」
その声は穏やかだが、どこか説得力があり、夫婦も戸惑いながら「分かりました」と答えてくれた。
オオバコさんの助け舟のおかげで、場の雰囲気はなんとか持ち直した。俺はその後、慎重に質問を続け、無事に施設調査を終えることができた。
(やっぱり……彼女は頼れる研究者肌の姉御だな。あの冷静さと洞察力は見習いたい)
そんなオオバコさんは、帰り際にふと立ち止まり、若い夫婦に声をかけた。
「ネットに店主さんはご高齢だと書いてあったけど、今日はいらっしゃらないの?」
夫婦は一瞬、表情を曇らせてから答えた。
「実は……店主が1ヶ月前に亡くなりまして。私たちが引き継ぐことになったんです」
「あっ……そうだったんですね」
オオバコさんは軽く眉を下げ、少し間を取ったあと、静かに問い続けた。
「お二人は飲食の経験がお有りで?」
「それが、私たちは元々会社勤めでして……。この度、飲食に挑戦してみたんです」
「了解です。慣れないことも多いと思いますが、応援しています。それでは、ご協力いただきありがとうございました」
オオバコさんは、落ち着いた声でお礼を述べた後、俺の方へ視線を向けた。
「アダム、行くよ!」
その一言で、俺はハッと我に返り、急いで後を追った。
施設調査が終わり、夜の空気を吸い込むと、どっと疲れが押し寄せてきた。
(会社勤めから個人経営とは……あの夫婦、忙しいだろうな。俺もオオバコさんみたいに、もう少し気を回せるようになりたい)
そんなことを考えていたところ、オオバコさんが声を掛けてくれた。
「アダム、今日は本当によく頑張ったね! これから取った検体を研究所に提出したら、ホテルでゆっくり休もう」
「分かりました……。でも、素人があの状態で調理しているなんて……驚きです」
「そうだね。頑張る気持ちは応援してあげたいけど、現実としてお客さんが体調を崩しているからねぇ」
オオバコさんの言葉は優しいが、その視線は冷静そのものだった。
俺たちは施設調査の話で盛り上がりつつ、王立科学院の研究所へ向かった。
そして――王立科学院の研究所にて。
夜の静寂が敷地を覆い、冷たい空気に交じるほの暗いランプの光が、研究所の陰影を際立たせていた。車を停止させると、オオバコさんは無言で車外に出た。そして検体を手に軽やかな足取りで研究所の中へ向かう。
「ここで待ってね」
そう言い残して、去っていく彼女を見送ってから、俺は車から降りた。
冷たい夜風を浴びながらふと見上げると――夜空には無数の星が瞬いていた。だけど、それを見る余裕もないくらい、今日の疲れがどっと押し寄せてきた。
「はぁ……長い一日だった」
一息ついたその時――。
「あれ〜? アダムちゃん。どしたん?」
突然、背後から軽い声が飛び込んできた。
振り返ると、そこには微笑みを浮かべた第5王子、シアンさんが立っていた。
「シアンさん……!? どうしてここに?」
驚きながらも、どこか懐かしい気持ちが胸をよぎる。
「野暮用って感じやね〜」
シアンさんはタバコを吸いながら、軽い口調で答える。
「あっ、そうだったんですね。俺とオオバコさんは調査に行ってきたんですよ。それで、検体を提出しに来ました」
「それはご苦労さん……そうか、食中毒案件ね。ガンバレ」
彼は微笑みながら短くそう言ったが、その笑顔の奥にどこか疲れた影が見えていた。
「ありがとうございます……オオバコさんにも伝えておきます」
「よろしくねぇ」
それだけ言い残すと、シアンさんは静かに研究所の中へと姿を消した。
(なんだか疲れているみたいだったけど……何の実験をしてたんだろう?)
彼の背中を見送りながら、ふとそんな疑問が頭をよぎる。だが、考え込む間もなく――。
「アダム、お待たせ!」
オオバコさんが軽快な足取りで戻ってきた。手には提出完了を示す書類が握られている。
「今日の分、無事に提出したよ。さあ、私と一緒にホテルでご飯でも食べよう?」
オオバコさんが軽い口調で声をかけてくる。
「あ、オオバコさん。実はさっき、シアンさんに会いました」
その言葉に、オオバコさんは一瞬足を止めたが、すぐに興味なさそうな顔をして「ふーん」とだけ返事をした。
(え……? なんだ、この反応……)
彼女の淡白な態度に少し驚いたものの、すぐに自分を戒める。
(オオバコさん、シアンさんのことが苦手なのか? ……いや、憶測で物を考えるのはやめよう。考えすぎかもしれない)
軽く首を振り、頭に渦巻く雑念を振り払った。
その後、オオバコさんと一緒にホテルへ向かうと、ロビー階にある落ち着いた雰囲気のレストランで軽く夕食を済ませた。会話はどこかぎこちなかったが、沈黙が重たく感じられることはなかった。むしろ、今日の疲労がそれを心地よいものに変えていたのかもしれない。
食事を終えた後、互いに短い言葉を交わし、それぞれの部屋へ戻ることに。
部屋に入ると、全身に押し寄せる疲れが一気に重くのしかかる。ベッドに横たわると、心地よい柔らかさが身体を包み込んだ。そのまま、思考する余裕もなく意識が遠のいていく。
(そういえば……こんなに働いたのって、前世以来かもしれないな……)
久しぶりの体力勝負の一日。慣れない仕事の連続で体はクタクタだったが、不思議と悪い気はしなかった。
(明日は、少しゆっくりできるといいけど……)
そんなことを思いながら、俺は重たい瞼を閉じた。今日一日の出来事が頭の中でぼんやりと浮かんでは消えていった。
翌朝――俺たちは公用車に乗り、一軒一軒家を回って8人分の検体を回収していった。車内から見える朝焼けは、どこか穏やかで、一瞬だけ昨日の疲れを忘れさせてくれる。
(今日は父親の部下たち、ちゃんと休みを取れたみたいでよかった……これで少しは罪悪感も減るな)
俺は胸をなでおろしながら、予定の回収作業を淡々とこなした。その後、昨日と同じく検体を研究所に提出する。
「とりあえず、何の食中毒かは検査結果が出るまでは何とも言えないね。結果が出たら、私の方で共有するね」
オオバコさんは柔らかい声で言った後、軽く背伸びをした。
「二日間、手伝ってくれてありがとね」
「いえ……こちらこそ、いい経験になりました」
言葉を交わす間に、彼女はバイクに歩み寄り、スムーズに乗り込む。エンジンの音が静かに響いた。
「ねぇ、アダム。頑張ったご褒美に、これから飛び切り美味しいところに連れて行ってあげる」
「へぇ。オオバコさん、それは飲食店ですか?」
「ふふっ、それは行ってからのお楽しみってやつだよ」
「なるほど……分かりました」
二人とも、ここ二日間の忙しさで疲れが溜まっているのか、どこか脱力した声になっている。それに気づいた瞬間、お互い思わず顔を見合わせ、クスリと笑い合った。
「じゃあ、飛ばすから。ちゃんとしっかり握ってよね?」
オオバコさんがハンドルを握りながら、ちらりと俺を見上げる。その上目遣いには、どこか小悪魔的な色気が混じっていて、一瞬言葉を失った。
(うわぁ……この人、天使族だけど、魔性な部分も隠し持ってるんだな)
思わずドキリとしながら、俺はオオバコさんの後ろに乗って、視線をそらした。
今回の調査で思ったけど、オオバコさんは本当に頭の回転が早い――。
オウレン先生も博識だけど、オオバコさんも違う意味で素敵な女性だ。
残業が続いて苦しかったあの頃、もし彼女たちのような研究者や医療従事者が同僚にいてくれたら、どれだけ心強かっただろうか……。そんなことをぼんやりと思いながら、後ろから風景を眺めていた。
(いや、考えたって仕方ないか。今があるだけでも十分だよな〜)
過去の自分に言い聞かせるように思考を切り替えたそのとき――。
「着いたよ!」
オオバコさんの声で、現実へと引き戻された。
なんと、俺たちが辿り着いた先は……ニボルさん家だった。