【王位戦エントリー編】事故なんかじゃない、事件だ
【※注意】本エピソードでは、交通事故およびパニック発作(過呼吸)の描写が含まれています。読者の皆様の体調やお気持ちに合わせて、ご無理のない範囲でお読みください。
カラオケ屋で会計を済ませたところで、入り口から男性の叫び声が聞こえた。
「すみません! 救命グッズない? 交通事故で学生が倒れてるっ! 誰か一緒に来て!」
飛び込んできたのは、通りすがりの中年サラリーマン。
豪雨の中、傘もささずにずぶ濡れの彼は、肩を大きく上下させて、息を切らしていた。
その様子から、尋常でない事態が起きていると、一目で分かった。
だが、店員さんは「ど、どうしよう……今の時間、俺しかいない。ま、まずい!」と突然の出来事にパニック状態だ。
「大変! 店員さんが焦ってる。どうしよう?!」
アンズが困惑の表情を浮かべていた。
人というのは、突発的な非常事態に直面すると、思ったように行動できないものだ。
だからこそ、ここは冷静な人物が動くべきだ。
「店員さん。その応急処置キット、俺に貸してください!」
「えっ?!」
「まだ、間に合うかもしれない! 処置をしたいので、お願いします!」
俺の言葉に背中を押されたのか、店員さんは「頼みます!」とカウンター裏から救急セットを差し出した。
「俺も助けに行きます!」
「ありがとう! すぐに行こうね!」
すぐさま、カラオケ屋を後にしようとしたところで、アンズが俺たちを呼び止めた。
「アダム、待って! 私も行く!」
その気持ちは有難いものの、アンズは現場の光景を想像して怯んでいるのか、小刻みに震えていた。
(あぁ、連れて行かない方がいいな……)
「アンズ、怖いんだろう。無理しちゃダメだ。先に、実家に帰って。あまり夜遅いと危ないから」
「どうして……?」
アンズは目に涙を溜めながらも、「助けに行きたい」と必死に食い下がろうとしていたが……。
「少年の言うとおりだよ、お嬢ちゃん。現場は見るに堪えない有様だから、早く帰った方がいい」
俺だけでなく、おじさんも強い口調で俺の意見に賛同していた。
「わかった。じゃあ、気をつけてね……アダム」
「あぁ、じゃあ!」
アンズは絞り出すように言って、俺たちの背中を不安げに見送った。
一方、俺はおじさんと共に、事故現場へ急いで向かった。
しかし、現場に到着した時には、倒れていたはずの学生の姿はすでに見えなかった。
絶え間なく降りしきる雨の中、アスファルトの上に力なく転がっていたのは、一本の傘。
そして、俺が今履いているものと同じ、学校指定のスニーカーが、どす黒い血に濡れたまま、片方だけ落ちていた。
(嘘だろ……同じ学校の生徒が事故に遭ってしまったのか?)
背筋に冷たいものが走り、頭の中が真っ白になった俺に対し、おじさんがトントンと肩を叩いて、遠くを指差した。
「あそこの救急隊に付き添われている子、君の知り合いじゃないか?」
「えっ……」
救急隊のそばで、呆然と立ち尽くしていたのは――サラだった。
下唇を噛み締め、声を殺して泣いている。
いつもは素直に感情を表に出す彼女が、今は誰かを激しく憎むような、鬼気迫る表情で涙を流していた。
その横顔を見ただけで、心拍が一気に跳ね上がり、息が詰まった。
声を掛けなければならないのに、足がすくんでしまい、一歩も前に進めない。
結局、俺は立ち尽くしたまま、サラが救急隊と共に遠ざかっていくのを、見届けることしかできなかった。
それでも、隣にいたおじさんが励ましの言葉をかけてくれた。
「大丈夫さ、無事に運ばれただけでも一安心だよ。一緒に来てくれてありがとう。この救急セットは返しとくから、気をつけて帰ってね」
「はい……」
こうして、おじさんと別れて、俺一人になった。
帰ればいいのだろうけれど、足が震えて動かない。
さっき、サラが泣いていたってことは、怪我をした生徒は、彼女が知っている人物に違いない。
(一体、誰なんだろうか?)
いや、誰なのかなんて、考えたくない――。
その思考を遮るように、一台のバイクが俺の近くに滑り込んできた。
そのライダーはヘルメットを外し、俺に声を掛けてきた。
「どうして、ここに?」
「ニコ?! それは俺のセリフだが……」
「追いかけたけど、間に合わなかった。だから、戻ってきたんだ」
「えっ?」
珍しい。いつもは無表情のニコが、怒りをむき出しにしていた。
「轢いた犯人が逃げた。アダム、ここで起きたのは、事故なんかじゃない。事件だ」
そう言い残すと、ニコは再びヘルメットを装着し、アクセルを鋭く回して、どこかへ向かおうとしていた。
「次はどこに行くんだ?!」
問いかけたけれど、返答がない。
ニコは猛烈なスピードで、あっという間に消え去ってしまった。
(あぁ、本気で怒ってるんだ……)
ニコから詳細を聞けず、このまま事件現場にいることにも耐えられなくなり、俺は逃げるように寮の自室へ戻った。
その後、三連休に入り、俺は狂ったように筋トレに打ち込んだ。
あの現場で見たスニーカーに、サラの表情。
答えに辿り着くのが怖かった。
その答えが「誰」なのか、予想がついてしまいそうで。
だから、思考を殺すために身体を極限まで追い込み、王位戦の作戦立案に没頭した。
そして、連休明け。
教室のドアを開けると、そこは騒がしくも、どこか重苦しい空気が立ち込めていた。
「おはよう……」
俺は自席に座り、右隣のケイに挨拶をした。
すると、ケイはいつもの自信に満ちた表情ではなく、哀れみの目で俺のことを見ていた。
「おはよう。あんた……王位戦、どうするつもり?」
「あぁ、その相談を朝から双子にしたくて」
「それは……無理よ」
ケイの声が微かに震えていた。
「どういう意味だ?」
思わず聞き返したが、ケイは「はぁ、アタシの口から言うことになるとは……」とため息をついてから、残酷な真相を告げた。
「双子が、先週の金曜日、交通事故に遭ったの。二人とも、意識不明の重体よ」
「嘘だろ……」
肺からすべての空気が抜け出していくような感覚。
空気を吸おうとしても、浅い喘鳴が漏れるだけで、一向に酸素が体に入ってこない。
「……っ、は、……あ……っ……」
手足と唇の震えが止まらず、視界が白く明滅し始めた。
その動悸に合わせるかのように、机に置いたままの一冊の本が、俺の崩れ落ちる身体と共に、音を立てて床に落ちた。




