【贈り物編】研究者たちが見た白毛馬の走り
【※用語補足】
・アニサキス:魚介類の体内に棲む寄生虫。アニサキス症(食中毒)の原因。第112話で取り扱っています。
・精莢:雄イカが持つ精子の塊。誤って食べると口内に刺さり、外科的処置が必要になることも。
・外科的処置:医療現場で、手術や器具を使って異物を除去すること。
・単勝:1着になる競争馬を当てる。
・牝馬/牡馬:牝=メス馬、牡=オス馬。
・青鹿毛/鹿毛:毛色の種類。青鹿毛は黒っぽく、鹿毛は鹿に似た茶褐色。
・写真判定:ゴールが僅差のとき、写真で勝敗を決めること。
・配合:血統的に強い組み合わせを狙うこと。
「お待たせ! いやぁ、トイレがすごく並んでてさ」
背後から声がする。振り向くと、ニボルさんがイカの串焼きを両手に持っていた。さっきの少女ではなく、俺の知っている人物で……ホッとした。
「ニボルさん、おかえりなさい」
「アダムくん、ほら! 屋台で買ってきたよ。先に食べてね!」
「じゃあ、いただきます」
熱々のイカ焼きにかぶりつく。醤油の香ばしさとコリコリした食感に「うまぁ!」と声を立てる。
「わかるよー! ウマ、可愛いよね」
(おっと……なんてこった)
ニボルさんは、俺の「美味ぁ」を「馬」と勘違いしていた。サラに似ていて、ちょっと天然なところがある。
「あの、このイカ焼きが美味しいので……」
「あっ! ごめん、勘違いしてた。久しぶりの競馬場で舞い上がってるのかも! 僕も食べよう」
ニボルさんもかぶりつくと、すぐに目を輝かせた。
「本当だ、イカ焼きって美味しいよねぇ! 今度作ろうかな」
「名案ですね。でも、生イカを捌くときはアニサキスとか精莢に気をつけないと。あっ……」
さっき出会った少女――イブの影響で、雄のイカに関する話題を口にしてしまった。
(イブは牡馬についてだったけど……)
でも、ニボルさんは俺の話題にドン引きすることなく、いつものように笑って頷いてくれた。
「アダムくん、詳しいね! アニサキスも嫌だけど……。精莢を誤って食べると、中の組織が口に刺さって激痛が走るっていう話を聞いたことがあるよ」
想像するだけで、ゾッとした。
「うわぁ、経験したくないですね。刺さると自力で取れないから、外科的処置が必要になりますし。それにしても、恐るべきイカの生命力……」
「僕も思った! じゃあ、食べ終わったことだし、レース見に行こうか」
「はい」
ニボルさんと共に人混みをかき分け、馬場へ向かうと、すでに観客で埋め尽くされていた。
「多いですね」
人混みがあまり得意ではないため、率直な感想を述べると、ニボルさんが「重賞だからねぇ。見て、ちゃんと馬券も買ったよ!」と言って、ポケットから馬券を取り出し、誇らしげに見せてくれた。
「えっと……単勝で4番ルミナショウマ。本当に、あの馬が大好きなんですね」
「色々、思い入れがあるからね。アダムくん、ちょっといいかな」
ニボルさんが急に深刻な顔つきをする。その表情は――10歳の時、サラの秘密を知ったときに見せた、あの覚悟に似ていた。
「もしこの仔が1着になったら、真実を教えるね」
「真実……?」
胸中がざわつく。ニボルさんは、まだ別の秘密を抱えているのか。
(サラが貴族のお嬢さんってことも、ニボルさんが少女漫画を描いていることも知ってるのに……。一体、何だ?)
考え出したら切りがない――。
そんな俺の思考を断ち切るように、競馬場にファンファーレが鳴り響いた。
「アダムくん、始まるよ!」とニボルさんが指差したのは、ゲートに入った13頭の馬。最後の1頭が収まった瞬間、レースが始まった。
勢いよく飛び出したのは、6番の鹿毛の牝馬――イブが推していた馬だ。その後を追うのは5番の青鹿毛の牡馬、さらに白毛のルミナショウマが続く。掲示板には『6』『5』『4』の順番で並んでいる。1,800メートルのコースは、あっという間に折り返し地点を過ぎて、残り800メートル。
「はあ、あの6番、速いね」
ニボルさんはファイルを両手に挟み、祈るように身を乗り出す。
残り400メートル――カーブを回ったところで、白毛のルミナショウマが前へ出た。
「ニボルさん、流れが変わりました!」
「本当だ! 頑張れー!」
その声に応えるように、ルミナショウマは堂々と直線を駆け抜ける。だが、背後から、5番――シアノフェイスが迫ってきた。
「うわぁあああ! 逃げてー!」
ニボルさんの叫びと同時に、その2頭が並ぶようにしてゴールを駆け抜けた。
「おっと、きわどい勝負になりましたね……」
「うん……」
周囲の観客も「シアノじゃない?」「いや、ルミナショウマが勝ったら……白毛馬として初の重賞制覇だぞ!」と騒めいている。
着順掲示板には1着と2着が『写真判定』と表示され、3〜5着は『6』『14』『2』と記されていた。どうやらイブが推していた馬は3着に入ったらしい。
全員が息を呑み、最終結果を待つ。
この時、俺は信じていた。
「ニボルさん。牝馬は夏にスタミナがあると聞きました。ならば、この勝利も――」
言い終える前に、結果が表示された。
『4』
『5』
審議中のランプが消え、『確定』に変わる。
「やった……!」
ニボルさんは大喜びだ。俺も手をグッと握り締める。
白毛のルミナショウマは、走り終えた体が汗に濡れて、淡く桃色に染まっていた。
* * *
一方、馬主席にて。ある男が青鹿毛の牡馬を睨みつけていた。
「配合上は、圧倒的に強いはずなのに……。はぁ、この程度か」
まるで、実験に失敗した試料を観察する研究者のように、冷たい声で呟いた。
やがて、隣に座る少女へ顔を向け、無言で右手を差し出した。
男に促されるまま、少女はその手をそっと握り返す。しかし、その心はここにはなく――『お兄様、おめでとう。また会えますように』と再会を祈っていた。