いっそ、悲劇だったらよかったのに
「愛している、カレン」
そう言って私の夫であるトーマス・レイヴンは息を引き取った。
彼の頭は禿げており、残った髪は水分の抜けた白髪だけ。顔には深い皺が刻まれ、肌には張りがなく、シミや黒ずみができていた。
ここで永遠の眠りについたのは一人の老人だった。彼の死に顔にはこの人生に満足した様子も、死への恐怖もなく、ただ深い失意と悲しみの表情が浮かんでいた。
だが、その感情もここで終わり。彼はきっと死後の世界で最も幸せになれるだろう。何しろ、最愛の妻がそこに居るのだから。
「セバスチャン、神父様を呼んで来てちょうだい」
夫の最期の言葉を聞いて、医者が彼の死を宣告する。私は執事に教会への連絡を頼み、夫の死を見届けてくれた医者に感謝を言い渡した。
「あまり、気落ちなさいませぬように」
そう言って医者は私を気遣う言葉をくれたが、やがて私の家を後にした。
医者の背中を窓から見送り、執事が教会から戻ってくる間、私は夫の死体と二人っきりの時間を過ごした。こうして彼と本当の意味で二人っきりで過ごすのは初めてかもしれない。
だって、夫の心の中にはいつも若くして亡くなった前妻の存在がいたから。
私とトーマスが出会ったのはとある夜会だった。私は没落貴族の令嬢、彼は有名貴族の遠縁にあたる資産家だった。
一目見た瞬間から私は彼に恋をした。銀色の髪に淡い菫色の瞳。どこか憂いを帯びた表情。年は私より十歳ほど年上の三十歳。
当時二十代前半で売れ残っていた私はすぐさま彼へのアプローチを開始した。彼は資産はあったが、爵位は持っていなかった。私と結婚すれば貴族の位を手に入れられる。そう言って私は彼に迫った。
結婚を焦る娘に迫られて、彼は少し困ったように言った。
「申し訳ないが、私には愛してる人がいるんだ」
聞けば、彼は一年ほど前に病気で妻を亡くしたらしい。気晴らしをした方がいい、と周りの人の勧めで今日この夜会に来たが、やはり気分が乗らないと彼は語った。
「こういう場にくるとどうしても妻を思い出す。初めて妻と出会った時、初めて彼女とダンスを踊った時を」
そう言って彼は寂し気に菫色の目を伏せた。
彼の憂いを帯びた表情はこれが理由だったのか。そう理解するとともに、ギュッと胸が痛んだ。それは同情だったのか、嫉妬だったのか。私の頭の中に浮かんだのは、彼が笑っているところを見てみたい、だった。
「それでも構いません。私にあなたを支えさせてはくれませんか?」
そう言って私は彼に再度アプローチをかけた。
私の家族は諸手を挙げて賛成した。トーマスの親族は彼を支えてくれるのなら、と賛同してくれた。後は彼の答えだけ。
やがて彼は躊躇い交じりに口を開いた。
「私は妻と結婚するために爵位を捨てた男だ。君を彼女と同じように愛せるかと問われれば自信がない。それでもいいのかい?」
はい、と私は答えた。
ほどなくして、私とトーマスは結婚した。彼からのプロポーズは『私を支えてほしい』だった。
それから数十年後、彼はこうして永遠の眠りについた。
ベッドのそばにあるロッキングチェアに揺られながら、私は彼の最期の横顔を見つめた。ついぞ、彼が笑ってくれることはなかった。いつも憂いを帯びた表情をしていて、うわごとの様に前妻の名を呟いていた。
彼の最期の言葉も、前妻への愛の言葉だった。
カレン。若くして亡くなった彼の前の奥さん。会ったことも話したこともないのに、古い知り合いのような気がするのは、トーマスがいつも話題に上げていたからだろうか。
美人で、笑顔が魅力的で、お茶目で。辛いことでもなんだって楽しんでこなしてしまう人。
そんな人なら彼が愛してしまうのもわかるし、そんな人を愛してしまったのなら私を愛せないのもわかる。だって、私はずっと辛くて、苦しくて、それを楽しむことなんてできなかったから。
自分が好きになった人が自分を好きになってくれないというのは、私が思っていた以上に苦しいことだった。
同じように愛せないと言われた。それでもいいと答えた。それでも本当に、ほんの少しも私に心を傾けてくれないとは思わなかった。
「トーマス。結局あなたの心はずっとカレンのものだったわね」
そうやって恨み言を呟いても、彼にはもう届かない。きっと今頃天国でカレンと幸せにやっているのだろう。
悔しくて、妬ましくて、悲しい。
トーマスに愛して欲しかった。愛さなくて構わないと言ったけれど、一度でいいから愛してると言って欲しかった。
幾度となく聞いたカレンへの『愛してる』。そのうちの一つを私にくれてもよかったのに。
そう、思ってしまう。
キィ、キィ、とロッキングチェアを揺らして、執事の帰りを待った。子供も使用人もいないこの家は静かで寂しい。まるで私の人生みたいだ。
もし、人生がやり直せるなら、私はこんな人生は歩まない。
夫の死に顔を見ながら、私はふと思った。
——これで終わってしまえば悲劇だったのに。悲劇で終わっていたのに。
なんの因果か、私はこの記憶を持って生まれ直した。
まるで時が巻き戻ったかのように、幼い頃の『私』として。
その記憶がはっきりし始めたのは幼少期の頃。もう一度同じように繰り返される出来事に、私は強い既視感を覚えていた。
ああ、ならば。それならば。
「お父様、わたし、行ってみたい場所があるの」
父にねだって、とびきりのおめかしをして、私は馬車に揺られてとある場所に向かった。
そこはかつて私とトーマスが暮らしていた場所。トーマスと結婚して数十年を過ごした場所。私がトーマスの最期を看取った場所。
ガラゴロと転がる車輪に揺られて窓の外を見てみれば、あの頃見た景色がそのまま残っている。いや、厳密に言えばそのままではない。トーマスから聞いたかつて川があったという場所も、大雨で流されてしまったという橋も、全てが残っている。
ならば、それならば。
馬車から降りて、私は父の手を振り切って街道を駆けた。
知っているけれど知らない街。目線が違う、歩幅が違う。それゆえに自分がどこを駆けているのかわからなくなりそうな感覚。
それでも、私は探し求めた。ここにいるはずの、かつての私が愛した——。
ドン、と曲がり角で誰かにぶつかった。
「……おっと。失礼、お嬢さん。お怪我は?」
頭上から降ってきた甘い声に心が震えた。倒れかけた私を支える手は、私の知るものよりも小さくて、若くて、張りがあって——。
顔を上げて、その人を目に焼き付けるように見つめた。銀色の髪に淡い菫色の瞳。記憶にあるものよりもずっと幼い姿。
少年の域を抜け出した頃のトーマス・レイヴンがそこに居た。
可愛いだとか、綺麗だとか、カッコイイだとか、そんな感情が彼の顔を見た瞬間全て吹き飛んだ。結婚していたころに彼の幼少期を描いた肖像画を見せてもらったことがあるが、そんな絵なんてまるで比べ物にもならない。
明るく、朗らかで、穏やかな笑顔を浮かべた彼に、私は再び一目で恋に落ちた。
そこからは早かった。私は何とかして彼とお近づきになれるように努力をし、無邪気な子供を装って父親に色々とねだった。
父も、トーマスも、私と彼の親族も、貴族の中ではそれなりにお人好しで、無邪気で幼い子供のお願いを無下に断るような人たちではなかった。
私はあっという間に彼の懐に潜り込んだ。もちろん、年齢差はあるから、『お兄様』と『幼い妹分』という関係性にしかならなかったのだけれど。
「お兄様、いつか私と結婚してね」
「そうだなぁ。君がとびっきり素敵なレディに成長したら、そのときはね」
そんな二人の子供の会話を大人たちは微笑ましそうに見ている。
この瞬間が一番幸せだった。前世ではトーマスも、彼の家族も、どこか私と一線を引いていた。前の妻を忘れられない男に嫁いできた娘。その印象が抜けきらなかったのだろう。
愛されない女への同情か、トーマスが立ち直らないことへの失望か。誰も彼もが私を見て目を逸らした。
それが今は違う。
彼の家族も、私の家族も、気まずさや同情や失望に満ちた目で私たち二人を見つめたりしない。
トーマスだってそうだ。前妻を愛し続けた後ろめたさから、私に触れようとしなかったあのころのトーマスはもういない。今の彼は私だけを見て微笑んでくれている。
幸せだ。
あと十年もすれば私は大人になる。彼と私は結婚して、今度こそ幸せな家庭を築くのだ。
きっとそうなる。
そうなるはずだった。
「……お兄様。今、なんて?」
「だから、その、今の若い女の子って、どういうものを好むのかなって……」
トーマスは顔を真っ赤に染めて、私に尋ねた。
前世の記憶の中にもない、私が初めて見た表情。けれど、一瞬でピンときた。この表情は、彼が今抱いている感情は——。
「カレン・トーワ……?」
「……どうして、君がその名前を知ってるの?」
私が呟いた名前にトーマスはすぐに反応を示した。
どうして? そんなの私が聞きたい。どうして、今のあなたがカレンを知っているの?
何回も、何十回も、何百回も、その名前を前世のあなたから聞いた。
その名をどうして、今のあなたが知っているの?
「お兄様、どうして……? 私と結婚してくれるって約束したじゃない」
私はギュッとトーマスの腕に縋りついた。
どうして、どうして、どうして? 今回は私の方が付き合いが長いのに。ずっとあなたの側にいたのに。
一目会っただけのあの子に、またあなたを奪われるの?
「……ごめん。でも、僕は……」
縋りついた手はそっと外された。優しい仕草のそれは彼からの拒絶だった。
トーマスが私から顔を逸らす。まるで痛ましいものを見てしまったかのように。
可哀想で、不憫で、哀れで。まるで、愛する男から見捨てられた女を見てしまったかのように。
「……ひどい」
また、あなたは。
「ひどい、ひどい、ひどい! 嘘つき! 裏切り者! あんなに私に優しくしてくれたくせに!」
私よりカレンを取るのね。
トーマスは私を拒絶した。だから、私も彼を拒絶した。この一件から、私は彼に会うことはしなかった。
トーマスの家族からは彼がカレンと結婚したという手紙だけが届いた。カレンは身分の低い女性で、トーマスは彼女と結婚するために貴族の身分を捨てたらしい。
全て、前世から知っていたこと。私が先にトーマスと出会っていれば、彼は私を愛してくれたんじゃないかって、ずっとそう信じ込んでいた。
だけど、結果はこの通り。トーマスが愛するのはやっぱりカレンだった。
この先の出来事を私は知っている。トーマスとカレンにどんな未来が待っているのか知っている。
私はそれをずっと黙っていた。
それから数年後。私が二十歳を超え、貴族の娘としては行き遅れと言われるようになった頃。久しぶりにトーマスの家族から手紙が届いた。
どうせ読まなくったって書いてあることは知っている。カレンが病気で亡くなったという知らせだろう。それで、トーマスを励まして欲しいとか、きっとそんな手紙。
そんな私の穿った予想に反して、届いたものはカレンとトーマスの訃報と、トーマスからの手紙だった。
一度読んだだけでは理解ができなくて、もう一度手紙に目を通す。カレンは死んだ。カレンの死から半月後、彼女の後を追うようにトーマスは自殺したらしい。
トーマスからの手紙には、自分がいかにカレンを愛していたか、その死が自分に何をもたらしたか、そして私を拒絶してしまったことへの謝罪が綴られていた。
『君は僕を愛してくれていたのに、傷つける真似をしてしまって申し訳なかった。僕にはもう謝罪することしかできないけれど、心の底から君の幸せを願っている』
何度も何度もその手紙を読んだが、真っ白になった私の頭には内容が全く入ってこなかった。
やがて父親が私のことを呼び、トーマスの葬儀に出席するか否かを聞いてきた。
「……出席します」
何故私がそんな判断をしたのか、自分でもよくわからない。頭が回っていない状態で彼の葬儀に出席し、棺に入れられた彼の最期の顔を見た。
ちょうど、前世の私たちが出会った頃の姿。あの時よりもやつれた顔のような気がするのは何故だろうか。
前の私はこの頃の彼に出会って恋をして、数十年の時を一緒に過ごした。はたから見れば醜く年老いた彼も、私にとっては愛おしかった。
けれど、それは前世の記憶。今回の彼はあのように年老いることはない。
何故ならもう彼は死んでしまったから。
そう思った瞬間、私に襲ってきたのは強い後悔だった。
トーマスとカレンが出会って恋に落ちるのは知っていた。ならば何故それについて対策を取らなかったのか。
トーマスが私よりカレンを選んだ時、あんなに強く拒絶していなければ、彼は自殺などせずに済んだのではないか。
そうすれば、彼は、今回出会ったあの愛らしい少年は、緩やかに幸せに老いていくことができたのではないか。
ポタリ、と涙が溢れた。もうこの銀色の髪を揺らして彼が歩くことはない。この瞼が開いて、あの菫色の瞳を覗かせることもない。
彼の体は冷たい地面の下に埋められて、緩やかに朽ちていくだけ。
ああ。ああ、それならば。
どれだけ私が苦しんだっていいから、もう一度、あなたに幸せになって欲しい。
黒いベールの向こう側で、彼の死体が地面に埋められていく。それを見て、私は一つ心に決めた。
もしも、もう一度、記憶を持って巻き戻れるならば——。
「お兄様は愛する人と幸せになるべきよ」
トーマスとカレンの結婚を反対する彼の親族の前で、私は二人の仲を応援した。
もう一度築き上げた『お兄様』と『妹』という関係性。血は繋がっていなくとも、長い間一緒にいた『妹』が応援してくれるならば、きっとトーマスも心強いだろう。
そうして、トーマスとカレンは再び結ばれた。ケジメをつけるために、今までの生と同じく彼は貴族の身分を捨てて。
私はトーマスとカレンの結婚式にも出席した。二人の結婚を後押しした『妹』が欠席するわけにはいかなかった。
初めて出会ったカレンはそれはそれは美しかった。綺麗で、雰囲気が柔らかくて、暖かで。トーマスが一目で恋に落ちるのも納得のいくような、そんな人だった。
「次は『僕の妹』が幸せになる番だな。君の結婚式にはきっと参加するよ。絶対に、約束する」
そう言って彼は笑った。今まで見た中で一番輝いていた、幸せそうな笑顔だった。
そうね、と震える声を感動しているからだと誤魔化して、誰も見ていないところでこっそりと泣いた。
胸が締め付けられるように痛んだ。彼が幸せであればいいと思ったのに、どれだけ苦しんだっていいと思えたのに、こうして二人の幸せを目の当たりにすれば嫉妬の炎が渦巻いてしょうがない。
どうして。どうしてあなたは私を選んでくれなかったの? 私の気持ちにも気づかないで、どうしてそんな残酷なことが言えるの?
人込みから外れた場所で、涙で濡れた瞳で、幸せな二人を見つめる。
私はこの先の二人の未来を知っている。二人が不幸になる事を知っている。けれどそれを教えたって未来は何も変わらないだろう。
幸せな結婚式から数年後、カレンは病で命を落とした。最愛の妻を失ったトーマスの憔悴は、それはそれは見ていられないもので。
「私があなたを支えるから」
黒い喪服を着て、いつかのどこかで告げた言葉で、私は彼の隣に寄り添った。
この言葉を言った瞬間、私は悟った。きっと私は幸せにはなれない。きっと一番初めの生と同じ未来を辿るだけ。
愛して、憎んで。憎んで、また愛した。私の心はもうボロボロで、また妬み憎んでも、やっぱりトーマスを愛してしまうのだろうと思えた。
自分勝手な苦しみで泣く私を見てどう勘違いしたのか、トーマスは私を抱きしめてくれた。
哀れな人ね。今の私はあなたの事なんてこれっぽっちも考えていないのに。でもきっと、あなたも私の事なんて想ってもいないだろうからおあいこね。
トーマスの温もりを感じながら、ふと思った。
いっそ、出会わなかった方が幸せだったかもしれないって。
次の生は簡単だった。トーマスに出会うから苦しむのだ。だったら、彼に出会わないように動けばいい。
私とトーマスが『お兄様』と『妹』になったのは、私が彼に会いに行ったから。だからこの関係を回避するには私が彼に会いに行かなければいい、それだけだった。
後は夜会で出会ってしまうことだけれど、それを回避するのもある意味では簡単だった。私が最初の生で夜会に出席していたのは、私が結婚していなかったからだ。だったら、あの夜会までに相手を見つけていればいい。そうすれば、お父様も私を夜会に連れて行きはしないだろう。
誰だっていい。誰と結婚しよう?
愛する人と、なんて馬鹿なことは言わない。だって私の愛した人はトーマスで、彼は私を愛してはくれなかったのだから。
結婚相手に求めるのは二つ。一つは私に不利益をもたらさない事。もう一つはトーマスと関係のない相手である事。
それだけでいい、と私は父親が連れてきた候補者の中から適当な相手を選んで結婚した。
相手はトーマスとは似ても似つかない男だった。黒に近いこげ茶色の髪に、それと全く同じ色の瞳。貴族ではなく平民から成り上がってきた男で、私の持つ爵位目当てなのが丸わかりだった。
そんな相手だったから、私たち二人の間に愛などなかった。相手の男は私に不満を漏らしたりはしなかったし、私も相手に何かを言う事はなかった。
ただ、彼には他に愛する女性がいたらしく、私たち夫婦の屋敷にはあまり帰らなかった。父は大層お怒りだったが、私は別にどうでもよかった。なんとなく頭に浮かんだのは、愛する人でなければ怒りなど湧かないものね、という味気ない感想だった。
時間は静かに進んでいく。愛する喜びもなく、裏切られる悲しみもなく、平坦で無感動な人生。
ただ一度だけ、ツキリ、と胸が痛んだのは二十歳を超えた頃。ちょうどトーマスがカレンを失ったであろう時期だった。
今回の彼はどうしているだろう。今回のカレンはどうなっただろう。
関わらないと決めたはずなのに、あの二人のことがどうしても気になった。
会いに行きたいわけではない。探し出して近況を知りたいわけでもない。それなのに、トーマスのことが心配で。
また、ひどく憔悴しているのではないだろうか。周りの人に支えられて、それでも結局はカレンの後を追ってしまうのではないだろうか。
それとも、と思い浮かんだことがひどく胸を締めつけた。
トーマスがカレンの後に私以外の誰かを選ぶんじゃないかって。
トーマスがカレンの後に私以外の誰かを愛するんじゃないかって。
そこに思い至った瞬間、私の手は便箋に伸びた。
早く、早くトーマスのことを探さなければ。探して、彼を見つけて、そして——。
焦りに震える手は、文章を綴る前にピタリと止まった。
一体手紙に何を書く。今回の生で、私とトーマスは何も関係がないのに。私と彼は赤の他人なのに。
黒い大きなインクのシミを作った便箋をグシャリと握りつぶす。
ああ、この生もダメだった。私はきっと幸せにはなれない。
静かな絶望が私の体を支配していた。
トーマスが不幸になるところは見たくない。幸せな彼が見たい。
けれど、トーマスが私以外を選ぶところは見たくない。私以外を選ぶなら不幸になってしまえ、とさえ思う。
トーマスは私を選ばない。カレンを選んで不幸になる。
それを見て、ざまあみろ、と思えればいいのに、トーマスの涙を見ると、笑っていて、と願ってしまう。
苦しい。苦しい。どうすればこのループから抜け出せる?
ぐしゃぐしゃに丸まった便箋のそばに、涙が零れ落ちた。
そうやって苦しみを抱いていても、時は勝手に進んでいくもので。
私は愛してもいない夫と夜会に出ていた。
夫婦として参加しなければならない夜会。トーマスがそこに出席しないのは、あらかじめ調べておいた。
出会わない。私はトーマスと絶対に出会わない。今回はそうすると決めた。
この苦しみを乗り越えれば、少しは強くなれる気がして。また新しく何かを考えられる気がして。
もしかしたら、夫のことも愛せるかもしれない。恋情を抱けなくとも、家族として受け入れられるかもしれない。
そうしたら、少しは私も幸せだと思えるかもしれない。
そんな一縷の希望に縋って。
でも、それもすぐに裏切られた。
「お前も大変だよな。いくら爵位のためとはいえ、あんなつまらなさそうな女と結婚するなんて」
夜会ではぐれた夫を探している時に聞こえてきた会話。
こんなに人が多い場所でも妻をバカにするような男がいるのか、と呆れたが、それも私には関係ないこと。早く夫を探そうと歩き出した足を、次に聞こえてきた声が止めた。
「まったくだよ。でも、案外楽なもんだよ。アイツは俺が他の女のとこに通おうと何も言わないしな」
聞こえてきたのは夫の声だった。
さっきまで鼓膜を揺らしていたはずの夜会の騒ぎがシンと鳴りを潜めたように聞こえなくなり、彼らの会話しか耳に届かなくなる。
「それは確かに楽なことで。……でも、本当に大丈夫なのか? お前、一応入婿だろ? 奥方に嫌われたら離婚されるんじゃ?」
「俺は大丈夫だよ。嫌われるも何も元々愛されてないんだから。貴族との結婚なんてそんなもんさ。愛なんてどうでもいい。利益さえあれば」
ああ、その通り。あなたの言う通りですとも。私だって最初はあなたに利益だけを求めてた。
でも、もしかしたらあなたを愛せるかもと思えてきた。
それを今からでも取り返すことはできないの?
そんな私の心情を知らずに、夫は淡々と事実を告げる。
「それにな、あの女は他の男を見てる。俺にはわかる」
聞こえてきた夫の言葉に、私はパッと顔をあげた。
何故知っているの? どこで気づいたの?
きっと私が聞いたとしても教えてはくれないだろう。
「アイツは俺を愛することないし、俺もアイツを愛することはない。そもそも、他の男の代わりに愛されるなんてごめんだね」
ドッ、とその言葉が胸に突き刺さった。
夫の言った言葉は、私がトーマスにずっと抱いてきた感情だった。
カレンのことを愛しているくせに、私と夫婦になったトーマス。私の言葉に甘え続けてきたトーマス。そんな彼をずっと愛し続けてきた私。
今の私がやろうとしていることは、トーマスが私にし続けてきたことと同じこと。愛する人からの愛を受けられないから、別の人から愛してもらおうとしている。
今の私は、あの時のトーマスと同じなのだ。
その後も夫は自分の愛する女性がどれだけ素晴らしいかを語る。時々、私の悪口を挟みながら。
けれど、私にそれを責める道理はなかった。私だってトーマスと彼を比べた。トーマスと比べれば、どんな男もつまらない存在にしか見えなかった。私にとって、トーマス以外の存在は無に等しかった。
夫にとっての私もそうなのだろう。
幸せになりたい。誰かに愛されたい。そうやって奮い立たせていた意志が蝋燭の火が消えたように潰えていく。
私は幸せにはなれない。
それから無気力に何回か人生を繰り返した。トーマスと出会わずに他の男と結婚するのも、トーマスに会いに行って再び裏切られるのも、どちらももう疲れてしまった。
早くこの自我が消えないだろうか。そう願って永い時を生き続けるだけ。
いっそ全ての記憶が消えてしまえば、私は最初の時のようにカレンを失ったトーマスに恋をするのだろう。長い時間を一緒に過ごして、最期に私を愛してくれなかったトーマスに恨み言を言うのだ。
そうすれば、私の物語は悲劇で終わるのに。
そんなことを考えて、ぼんやりと窓の外を眺める。いつだったか、こんなことがあったような。
カチン、と何かがはまったような感覚。灰色がかっていた風景が、唐突に色彩を取り戻す。
ふと思い出したのは医者の後ろ姿。最初の生でトーマスを看取った人。
医者。そう、医者だ。カレンが病で死ぬのであれば、私が医者になって彼女を治せばいい。
何度も繰り返す長い生のおかげで、知識だけは無駄にある。足りない知識は何度も繰り返して身につければいい。カレンの病気についても調べればいいし、どこかのタイミングでその病気の治療法も見つけられるかもしれない。
この鬱屈した生に光明を見出したように、私は立ち上がった。
きっと私はまた苦しむのだろう。何せ、恋敵の命を救うために動こうとしているのだから。また、トーマスとカレンの幸せな姿を見て、私はひどく嫉妬する。
それでもいい。私は幸せにはなれないと知っている。何度も何度も苦しんでいる。
だから、せめて。今まで苦しんできた生とは別の道を歩むのだ。
何度も生を繰り返して、私は若き天才女医と呼ばれるまでに至った。幼い頃から圧倒的な知識とセンスを持つのだから当然だ。もちろん、それは生まれつきのものではなくて、前世以前から必死で勉強して身につけたものなのだけれど。
天才女医。そう呼ばれて、数年。私が二十歳を超えたころ、ついに待ち望んでいた患者が私の元にやってきた。
「先生はどんな病気でも治せる方だとお聞きします。どうか、妻を、カレンを助けてください」
そう言って頭を下げたのは、銀色の髪をした青年。端正な顔立ちが崩れるほどの必死な形相で、淡い菫色の瞳には疲弊の色が濃く浮かんでいた。
いつ見ても綺麗な人だ。顔を合わせてまず思ったのはそんなこと。
医者として長年働いてきても、この感想を抱いてしまうところが私が私であるという証拠。
それでも。
高鳴る心臓を押さえつけて、ギュッと言いたい言葉を堪えて、私は医者としての言葉を口にした。
「大丈夫です。あなたの奥様はきっと治ります」
そう言って、私は無理やり作った笑顔をトーマスに向けた。
カレンの病を治すのは簡単だった。その病は薬をしばらく服用し続ければすぐに治る。
ただいくつか厄介だったのは、病の進行が早く、患者がすぐに亡くなってしまうことと、薬が貴重で高価なこと。薬を調合するのに時間がかかるのも問題だった。
医者になってカレンを治すと決めたあと、私がしたのは医学の勉強とカレンと同じ病の人を探すことだった。それがあまりにも大変で、その病の病人を見つけても、症状を調べて数ヶ月もしないうちに死んでしまう。
薬や治療法を試そうとしても、それに効き目があるとわかる前に亡くなってしまうのがほとんどだった。
何度も何度も繰り返して、ようやく見つけた治療薬。カレンのために何年も前から準備してきたのだから、余りある感謝をして欲しいくらいだ。
そんな荒んだ心を持つ私が罪悪感を抱くくらいに、カレンは私に感謝してくれた。そう。カレンはそんな人間だった。優しくて、感謝の心を忘れず、素直にありがとうと言える人。
病が治り、トーマスとカレンは幸せそうに笑い合う。
「どうもありがとうございます。先生」
そう、二人して私に頭を下げる。とても幸せそうに。
治療にかかった額は高額で、資産家だったトーマスの貯金は底をついた。それでも二人は笑っているのだから、本当に幸せなのだろう。
お金などいらない。利益などどうでもいい。あなたがそこに居るのなら。
二人の顔からはそんな考えが見てとれた。
ズキン、と胸が痛む。どうして、とまた疑問が頭をもたげた。
どうしてトーマスの隣にいるのが私じゃないのだろう。どうしてトーマスは私をあんな風に愛してくれなかったのだろう。
羨ましい。トーマスの隣で笑っているカレンがひたすらに羨ましい。
誰もいない部屋でまた、こっそりと泣いた。いつまで経っても私は欲しい物を得られない。もう、何が欲しいのかもわからなくなっているのに。
冷たい机に額を押し付けて、次の生のことを考えた。いつかのどこかで考えたことの様にカレンに毒を盛ってしまえば良かったのではないか。そうすれば、二人は幸せになれないだろうし、少しは私の気も晴れる。
でも、とすぐにその考えを否定する。そうすれば、トーマスは私を許しはしないだろうな、と。
カレンに毒を盛って殺せば、私はもう二度とトーマスの顔を見れなくなるような気がした。彼の幸せを奪っておいて、彼の隣にいようなんて思えなかった。
恋をしていた。愛していた。幸せになって欲しいと思っていた。だけど、あなたの隣にいても、あなたから離れても、私は幸せにはなれなかった。
どうしようか、と思い悩んでも、今回の生はもうこのまま進んでいくしかない。カレンは病で死なず、トーマスは幸せになった。そのまま、結末まで駆け抜けるだけ。
その後のトーマスとカレンは順調だった。病も事故もなく、平和に穏やかに年を積み重ねていく。
見覚えのある年老い方をしていくトーマスは、見覚えのない幸せそうな表情をしていた。あのころの悲壮な顔をした老人はいない。そこに居るのは私の知らないトーマス。
子に恵まれ、孫に囲まれ、彼は幸せな家庭を築き上げた。
当の私と言えば、医者の仕事一筋で、孤独に年を重ねるだけ。天才女医と持て囃されていたのは確かだったが、誰かと添い遂げようとは思えなかった。
やがて、この幸せなトーマスも天に召される日が近づいてきた。何の因果か、彼を看取る医者に選ばれたのは私で、ここ数日ずっとトーマスとカレンの家に通っていた。
私を出迎えてくれるのは、同じく年老いたカレン。優しそうな風貌はそのままに、可愛らしいおばあちゃんになっている。その周りにいる子や孫も二人に似て穏やかで優しそうな顔をしていた。
もし、私とトーマスの間に子供がいたとしても、こんな可愛らしい顔立ちにはならないだろう。この年になってまでそんなことを考えてしまうのだから、どこまでいっても私は変わらない。いっそ、自分でも呆れかえるくらいに、この家が妬ましく、羨ましい。
それでも、と私は医者としての仕事を果たすべく、トーマスの寝室に入った。
ベッドに横たわるのは、年老いたトーマス。かつて見た姿とほんの少し違うのは苦悶の表情ではなく、どこか穏やかで落ち着いた表情をしているところだろうか。
「お加減はいかがですか?」
もう老婆の様になった声を張り上げて、私はトーマスに声をかけた。耳は遠く、目にはもう光がない。全ての感覚が弱くなっている。もうそう長くはないだろう。
だが、彼は何かを探すようにパタ、パタ、と手を上げ下げした。
きっとカレンの手を探しているのだろう。彼が最期に誰を探すのか、私は知っている。
「奥様を呼んできますね」
トーマスの耳に顔を近づけて、彼にキチンと聞こえるように声をかけた。それから私が部屋を出て、カレンを呼んで来ようとしたとき、彼のしわくちゃな手が私の服を掴んだ。
力のないその手はそれでも私を引き留めるのに十分で、私は足を止め、再び彼に向き合った。
私の服を掴み、光のない目が何かを探している。よく見れば、ブツブツと何かを呟くように口が動いているので、どこか苦しいのだろうか、と私は彼の口元に耳を寄せた。
「……先生」
張りを失った老人の声が言葉を紡ぐ。その言葉を聞き逃さないように、私は耳を澄ませた。
「どうもありがとう。アマンダ先生」
一瞬、時が止まったような気がした。思わず、ポカンとした顔で彼の顔を見た。
その一呼吸後のこと、彼の手から力が抜け、ぱたりとベッドの上に落ちる。それから彼が目を動かすことも、言葉を紡ぐこともなかった。
彼は息を引き取ったのだ。それをしばらくしてからようやく私は気付いた。何度も何度も見たはずの彼の死に顔は、長い永い私の生で初めて穏やかに微笑んでいた。
カレンにトーマスの死を伝えなければ。そう思うのに、ベッドの側から足が動かなかった。
ポツン、と手に落ちた雫を見て、ようやく自分が泣いていた事に気が付いた。溢れた涙が頬を伝って、床やベッドに染みを作った。
トーマスは何に感謝したのだろう? カレンを救ったこと? 尽きようとする彼の命を私が必死に伸ばしたこと?
彼の感謝の意図は考えても何もわからなかったけれど、ようやく何かが報われたような気がした。長い永い生で初めて、自分のしたことは間違ってなかったのだと思えた。
トーマスに恋をして、愛して、支えて、憎んだ。何度も何度も苦しんだ。嫉妬に狂った時もあるし、出会ったことを後悔したりもした。
だけどようやく。ようやく、あなたに出会えて、あなたと関わることができてよかったと思えた。
重たい腰をあげて、カレンとトーマスの子や孫に彼の死を伝える。皆泣いていた。彼の死を悼んで、私も、カレンも、その子供たちも、誰しもが泣いていた。
ふと思い返せば、最初の生、私はトーマスのために泣かなかった。私を含めて、彼の死を悼む者は誰もいなかった。
孤独で、寂しく、重たく、苦しい生を送ってきたのはトーマスも一緒だった。
ようやく。ようやく彼は幸せなままで死ねたのだ。愛した人達に囲まれて、惜しまれながら死ねたのだ。
トーマスの葬儀の話をするカレンを見て、もう彼女を恨めないと思った。
もう十分だ。もうこれでいい。これ以上望むことはない。
もし、もう一度、再び同じ記憶を持って繰り返す事になるとしても。
私はきっと今と同じ人生を歩むだろう。
そんな私のことを、あなたは愚かだと笑うだろうか。
誤字報告ありがとうございます。直しました。