失技篇
がしゃんと割れる音がした。
地を掘ってその上に茅を葺いた所謂竪穴住居と呼称される家屋のその地の底。外は快晴なれば戸口より漏れ入る日の光のお陰で目が慣れれば見渡すに労は無い。
土器の割れる音を聞いて白髪の老年の男は振り向いた。今、己の取り回した掘棒、つまりは鍬の祖先のような農具、が何かを引っ掛けたのには気付いていた。だから、音を聞いて、それで以て振り向いたというのは些か異なる。だが、音が聞こえていなかったならばもう数瞬振り向くのは遅くなっていただろうから、まあ音のするのを聞いて振り向いた、としてそう大過あるまい。
さて、先程音を立てて割れた土器である。色合いこそ少々黒みを帯びた白っぽい土の色そのものであるが、燃え盛る炎を想わせる壮麗なる造りのものであった。その燃え上がる炎は今や四裂した。元の通りであれば躍動感を感じさせたそれは、分割されたことにより結局は静止したものであることを逆説的に際立たせていた。
割れた土器に溜めていた穀物は、辛うじて椀の形状を保った箇所には留まりつつも、大半は漏れ床に散らばっている。乾いた穀物は薄い黄金色をしており、床の色とは対照的であった。土器の外壁、破面は肉眼にて粒度を把握するのに労せぬ様。対照的に内側であった面は、かつて煮炊きに使っていた時にこべりついた何かによっててらてらと妙に滑らかであった。
男はまず最初に散らばってしまった穀物のことを、それを再びこの薄暗い中集めねばならぬ労を、どんなに丁寧にそれを集めたところでそれを煮炊きしたもの食せば口に砂の感触を覚えざるを得ないだろう不快を、案じた。そしてそれを招くに至った己の迂闊な振る舞いを悔いた。
軽く渋さを滲ませた表情を浮かべながら、穀物を別の、もっとのっぺりとした薄手の土器に移し終わると男は割れた土器を草を編んで以て作った籠に入れた。もうこうなってしまっては何に使えるものではないので、村の塚にでも打ち捨てようと考えたのだ。
竪穴住居であるので外に出るには這い上がる必要がある。既に体力は下り坂、それを半分以上降った男にとっては疲れるというほどではないにしろ、少々億劫な作業であった。男は土器の入った籠を段差の上に一度置いた。そして、自分の身体を持ち上げた。そうして外に出た後、一度伸びをして、籠と傍に置いた掘棒に目をやった。元々、この掘棒を取りに来るのが目的だったのだ。だから、土器を塚に放った後、畑仕事に戻るつもりであった。
しかし、ふと籠の中の割れた土器の、その一破片を手に取り眺めた。久方ぶりに陽の元に出たそれを見た。それを改めて見て少し思うところがあったのだ。
炎を思わせるこの割れた土器は、老境の男に取っても何とも言い難く当世流でないというか、妙に古臭いというか、そういう感想を抱かせるものであった。派手派手しい割に、使い勝手の悪い口縁。厚ぼったい造りで重たい。今様の土器はもっと薄く造りは簡単で取り回しの良いものである。それはそうだ。この割れた土器は男が物心着く頃には既に家にあったのだ。そう男は記憶していた。とすれば、これを作ったのは男の父か祖父だろうとも。成程、そう考えれば多少古臭いのは納得がいく。
思い出してみれば彼が子供の頃はこのような炎を思わせる土器や、それに類する黒みを帯びた土器が大半を占めていた。それがいつしか今様の赤みを帯びた薄い、代わりに装飾の簡素な土器に変わっていた。いや、いつしか変わっていた、というのは少々他人事に過ぎる言い方かもしれない。何故なら、その変遷期こそが彼の半生と、いやほぼその一生と、期間を見事に一致していたからである。すなわち、その変遷を担ったのは彼の世代であった。
元々、この今様の土器の作り方を伝えたのはとある流れ者であった。どうやら自身の村で何かしらの禁忌を犯したがために追放された身であったらしい。だが、この村ではそれは然程重視されなかった。禁忌を犯したこと自体を全く考慮に入れられていないわけでは無かったわけではない。しかし、元々その流れ者の犯した禁忌はこの村ではそれ程重大なものでは無かった。だから、少なくともこの村において再びこの村で禁忌を犯すようなことをしないのであれば、まあ受け入れても良いだろう、という案配であった。偶々良い季節の巡りが続いていたのもある。村の人々は比較的鷹揚になっていたのだ。
最もその流れ者の立場は最期まで飽くまでも賓客という立場であり、遂に村の一員として認められはしなかったのだが。
その流れ者が来たのは確か男が子供の頃だったはずである。何故なら彼自身その流れ者が来た、その時あった多少の喧騒を覚えているからである。多少薄汚れていたものの見事に染め抜かれた衣服を来た流れ者は、辛うじて布の形態を取っているだけの村の人々の衣服の中で、当に異世界から迷い込んだ何者かのようであった。男は未だ何の分を弁えるでもないような歳頃であった。だから、珍しい客人にただはしゃいでいただけであった。
そうして居着いた流れ者に対して当時の大人達は少々距離を置いていた。その一方で男の同年代の子供やそれより少し年嵩の若者達は挙って話を聞きたがった。およそ旅をするなど思い付きもしない、自身の暮らす村とその周辺部こそが全宇宙であった彼らにとって、外から来た客人とは当に異界の人であったからである。
幾世代か遡れば猟のために遠出することもあった。採取のため山に分け入り幾日も過ごすこともあった。そもそも、この村の成り立ち自体、長く定住することはなく、自然の実りの多い地を求めて流浪する一団であった。それがいつしか一つの土地に居る期間が、一年、三年、十年と長くなった。その期間がおおよそ人の一生を越えた頃から徐々に流浪の術は失伝していった。代わりにいつの頃からか畑を耕やす、という行為が実に原始的ながら始まった。それが始まると同時に暮らしの形は徐々に変わっていった。獣と異なり畑は逃げぬが、その世話はあまり日を空けることは出来ない。そんなわけで、旅というものは既に古老の話す流浪とは伝説に他ならなかった。そもそも、その古老にすら村を一日空けることなどほとんどなかったのだから。
流れ者が若者と語らうその中で広まったのがこの掘棒や今様の薄い土器だ。その流れ者が伝えたのは土器作りだけでなかったのだ。効率的な畑の耕し方もその一つである。当に男の傍らに転がる掘棒も流れ者の伝えた形状のものである。男が子供の頃からあった形のものに比べると、足の力を更には体重を乗せることの出来る形状は、遥かに力が入る。お陰で幾らか村の畑は広がった。
それらは一気にとは言わないが男が長ずるまでに、村の顔役の一人となるまでに、つまりはおよそ一世代を掛けて村に染み渡った。結果として今手に持つ厚手の土器は殆ど駆逐されたはずだ。そう考えると、これはもしかしたら最後の一つかもしれない。自身が子供の頃からあったとすれば、同様の他の土器に比べて遥かに長命であると言える。
今様の薄手の土器はより高い火力で焼くため、この古い土器のような複雑な紋様を刻むことが出来ない。余り複雑な形状とすると焼く時割れてしまうのだ。流れ者に教えられたやり方で土器を作り始めた時、同様の紋様を刻むことに腐心した者もあった。だが、その企みは結局は潰えた。それはもしかしたら、この新しい土器を作ることに取り組んだ者どもが未だ古い形の土器作りに熟達していなかったことに依るかもしれぬ。この炎のような紋様は何しろ経験が物を言う。従来の焼き方で以てしても素人がやれば簡単に割れてしまうのだ。だから従来のやり方に熟達してもいない者どもが取り組んだとして、新しいやり方では成功しようも無かった。と、そう考えることも出来る。
だが、この新しいやり方を学ぶ者たちは改めて古くて実用上の欠点の目立つものしか出来ないやり方に熟達しようだなどと考えなかった。一方で古いやり方に熟れた者たちは改めてわざわざ新しいやり方に取り組もうとはしなかった。その技術的な垣根を越えようという試みが皆無であったわけではない。しかし、その何れも結局は潰えた。
また、この問題は時に老若に溝を作った。決定的な諍いには至らなかったものの、口論程度は頻繁に起きた。だが、男は老境に至って思う。畢竟、世代間の認識の違いは元々避け得ないことであると。つまり、新しい土器、というものが無かったとしても起きたことだと。それは、彼が老の側に回って気付いたことでもある。
新旧二つの土器の焼き方は幾分異なる。古いものは、ただ単に焚き火に焚べるだけの原始的なものであった。対して、新しいものを作る時は土でもって多少の覆いを作りその中で焼いた。実にその二つの違いというものは実際問題的には温度の差でしかなかった。だが、量の差というものは容易く質の差になり得るという結論を伝えていた。さらに言えば出来上がる物にこそ質的な差が生じた。それは水瓶や煮炊きを行う鍋として用いた場合である。古いものは余程の練達の師が作らない限り、出来たばかりのものは大小の差あれ、漏れが生じたのだ。使って行くうちに徐々に何かしらが詰まることで、そのうち漏れは気にならなくなるという、些か受動的な過程を経て完成となるというものであった。これは、足踏みを入れるという掘棒に生じた質的差が結果した収穫量という量的な差と対照的であった。
加えて、頑丈さも異なった。古い土器は幾ら丁寧に扱ったところで割れる時は割れるという代物であった。酷い場合は持ち方が悪いというだけで自重で割れた。そんな古い土器に対して、拳一個分程度の高さから落とした程度では新しい土器は割れなかった。結果として、新しい土器が広まるにつれ、人々は前に比べて土器そのものをやや乱暴に扱うようになった。結果として古い土器は次々と破壊されていった。その一方で古い世代が徐々に居なくなるにつれ、供給の方は新しい土器に寄っていった。
つまりは、老若の諍いは時が解決したとも言える。
今の若者はこの形の土器を殆ど知らないだろう。既に壮年に近い彼の長男であれば子供の頃偶に見た、という種のものであろう。だから、これを見ても少々奇異に感ずる程度であろう。しかし、それよりさらに若い世代となるとどうだろうか。
彼の幾らかいる妻のうち最も年若い妻、そのまた末の子が未だもっと幼い頃、夕の焚き火に照らされた、この紋様が炎に合わせて揺らめくのを見て泣いて恐れた。そんなことを彼はふと思い出した。
成程、彼にとっては少々古臭くも懐かしい、そして美しい、彼の長男にとっては不便で少々奇異、そう見えるこれは今の子供にとっては得体の知れない何か不気味な物に見えると…。確かに見ようによっては不気味であるという感も拭えないかもしれない。それは彼にとって少し寂しくもあり、誇らしくもあった。それは自分の為した成果が広まりを示すものであり、一方で自身が子供の頃から慣れ親しんだものが否定されたようなものであったから。
彼の世代で広まった土器はより若い世代によって更に改良された。流れ者の伝えた技はそのままでは彼の故郷とこの村との微妙な土質の違いもあり完全ではなかった。だからこそ、ここで採れる土に慣らしたやり方を確立させる必要があった。土器を焼くための炉も村に幾つか常設された。最早、流浪など夢にも思わない彼らにとって、施設というものは実に合理的であった。
さらには紋様を付ける方法も、昔のように立体的な造りこそ無理であったが、土の色の違いを利用するだとか、植物より得られた染料を使うだとかで彩りを加えることが出来るようになって来た。これはむしろのっぺりとした表面の新しい土器だからこそ出来たことであろう。
実は掘棒の方も改良が進んでいた。ただ、木の棒を少し尖らせ、足踏みを横に通しただけの雑破な造りの、彼の足元にある掘棒は既に旧式のものである。今では先端部の形状や足踏みの通し方などに工夫が凝らされ流れ者が伝えた当初のものより、余程生産性の高いものとなっている。
この村の者達はただ流れ者によって伝えられたものをそのまま受け入れるだけでなく、彼らなりに色々と発展させて来たのだ。そして、勿論そこには世代間に微妙な隔たりを作ったが。
彼は籠に土器を戻した。そして、掘棒を肩に背負い、籠を手に取り、塚に向かって歩き始めた。
籠を持った手にずしりとした重みが加わる。老いた身には少々辛い。
もうこの土器を作れる者はいないだろう。そして、この土器と同様の物は村には残っていまい。だから、これを捨ててしまえば、もうこの土器は人々の記憶に残るのみとなる。そして、それもまたいずれすぐに忘れ去られるだろう。
だが、男はそれでいいと思った。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
ある技術がまた新しい技術に取って代わられることについて、お察しのことかと思いますが縄文土器と弥生土器に仮託して書いてみたわけです。
いや、正直書きたいことが書けた感じがあまりしないのですが。
ちなみに、弥生土器は縄文土器より焼成温度が高いために頑丈であるというのは事実のようです。別に、見た目が違うという問題ではなく、性能が違うのです。結果として、縄文土器から弥生土器への移り変わりによって、それまで出来なかったことも出来るようになったりしたのではないでしょうか。
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