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鯖江市

 日本列島の真ん中北寄りの福井県、その中央付近に鯖江市はあります。

 鯖江の名前の由来は崇神天皇の頃、全国に派遣された四道将軍の北陸道遠征にあります。

 大彦命が越前国内を平定しようとしていましたが苦戦しました。すると一人の老人が陣に至り「我この深江の郷に住む住民の頭目で、阿伊奴(あいぬ)彦と申す者なり。この事情に詳しければご協力申し上げる」と大彦命の軍船を案内します。大彦命は王山(舟津神社の後背にある山)に陣を置き、賊を平定しました。そして、この合戦の時に「虚空から佐婆矢(さばや)落下し、敵魁師に当たり死す」と記録されています。この矢が鯖の尾に似ていたことから、この地を鯖矢と呼ぶようになったと伝えられています。その「矢」の音が訛って「ye=え=江」になり、鯖江になったとも言われます。

 或いは、沼沢地を小舟で移動していたので、「船着場=江」から鯖江になったとの説もあります。

 舟津神社の後背にある王山は古墳群になっていて、四十九基の古墳が集まっています。埋葬品から、近江や東海と交易していた様子が窺えるようです。

 古代は有力な支配者がいた鯖江も、平安時代に入ると国衙が武生(越前市)に置かれた影響もあって記事が減少します。

 次に史書に記述されるようになるのは鎌倉時代、親鸞上人が流罪の途上で鯖江に寄った時です。

 地方豪族の波多野氏が自身の茶寮を提供して、ここを車の道場としました。波多野氏は住職に道性(親鸞上人の五男と言われる)を迎えましたが、やがて手狭となり、如覚の代に鯖江の地が寄進されて寺院を建立し、後二条天皇より真照寺の寺号を下賜されました。

 鯖江本山と車の道場に、中野山専照寺を加えた三寺院を和讃門徒派(三門徒派)と呼んで、本願寺派と区別します。

 永享九(1437)年、後花園天皇より「誠照寺(じょうしょうじ)」の勅額を賜り、寺号を上野山(うわのさん)誠照寺(じょうしょうじ)に改めています。

 戦国時代は和讃門徒派と本願寺派が抗争を繰り返し、一向一揆で鯖江本山が焼き討ちされました。

 一向一揆の制圧に織田信長が乗り出すと、和讃門徒派は信長を助けて本願寺派を追い出し、北ノ庄に本拠を構えた柴田勝家に協力します。

 ところが勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れ、北ノ庄城で自刃すると、秀吉は勝家に協力していた鯖江本山を破却してしまいます。

 こうして没落した鯖江本山は、天台宗の末寺として江戸時代を過ごしました。

 幕末、藤原氏の五摂家の二條家より法主を迎えて門跡寺院として一派を成す許可を得て、誠照寺派(真宗十派)の本山となっています。

 このような経緯から、江戸時代初期までは門前町として鯖江は発展しました。

 転機が訪れるのは、間部(まなべ)氏の入封による鯖江藩の立藩です。

 間部氏は、間部詮房(あきふさ)から始まる大名家で、家宣、家継の側用人を勤めた詮房は第八代将軍吉宗の就任で失脚し、上野国高崎五万石から越後村上五万石に転封されます。詮房が亡くなり、養嗣子の詮言(あきとき)が村上藩二代藩主に就任しますが、程なくして越前鯖江五万石へ転封となりました。この鯖江転封は城主大名から無城大名への左遷です。

 鯖江藩初代藩主となった詮言は、門前町だった鯖江に陣屋を構え、町作りを一から実行しました。三十五歳で亡くなった為、鯖江の町作りは養嗣子の詮方(あきみち)へ受け継がれます。

 鯖江藩は相次ぐ災害や飢饉、幕府からの普請命令などで出費が嵩み、藩財政は火の車でした。

 第七代藩主の詮勝(あきかつ)は老中を勤め、鯖江城の築城を目指します。幕府からも築城費用として五千両を引き出しますが、天保の大飢饉で苦しむ領民を見捨てられず、この五千両は領民の救済に充てられ、鯖江城は幻と消えました。

 そして明治維新を迎えます。

 維新後は目立った動きもなく、明治二十九年に市内北部に陸軍歩兵第三十六聯隊が創設されます。

 明治三十七年に日露戦争に伴って出兵し旅順攻囲戦に参加して、多大な損害を被っています。

 更に奉天会戦では敵中に孤立し、友軍の救援を得るまでの奮闘で、残存者二百五十名という壊滅的な損害を出しています。

 その三十六聯隊にパンを供給するようになるのが、関東大震災で被災した銀座の名店のパン職人です。

 そのパン職人は再建する宛のない銀座の店舗を離れて鯖江に来ました。鯖江には三十六聯隊に勤務するお兄さんがいらっしゃったそうで、その伝手で生計を立てる見込みでした。

 お兄さんは、その方がパン焼きの技術を持っていることを見込み、聯隊に堅パンの納入業者になるよう勧めます。

 司馬遼太郎の「街道をゆく」でも言及されているパン屋さんでは、往時を偲ぶ「軍隊堅麺麭」が販売されています。


 昭和に入って、隣接する福井市麻生津地区で眼鏡の生産が始まると、鯖江市内でも眼鏡生産の工場が創業を始めます。当時の眼鏡生産の拠点は東京や大阪が主力で、福井県の眼鏡生産はそれほど大きくはありませんでした。

 ところが二次大戦の大阪空襲や東京大空襲で眼鏡生産の拠点が壊滅的な被害を受け、戦後に国内で生産能力が残っていたのは鯖江市と周辺地域のみとなり、これを契機に鯖江市は国内生産の八割、世界シェアの四割という眼鏡フレーム製造の一大産地として飛躍します。

 市内の眼鏡ミュージアムでは、眼鏡フレームの自作もできます。


 鯖江藩主の庭園跡地である西山公園では、春は桜と躑躅(つつじ)、秋は紅葉が楽しめます。

 また、公園内の動物園には、眼鏡フレームの製造技術を供与した御礼とし、中国から贈られたレッサーパンダが飼育されています。国内のレッサーパンダはほとんどが鯖江のレッサーパンダから繁殖したとされています。


 市内東部の河和田地区にある「かわだ温泉」は、肌がすべすべになると言われる重曹泉と 動脈硬化防止に効能があると言われる芒硝泉が同時に含まれる日本でも数例しかないという珍しい温泉です。


 皆さん、魅力溢れる鯖江市へ、お越しになりませんか?

第8代孝元天皇の第1皇子で、第11代垂仁天皇の外祖父である。また、阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖。四道将軍の1人で、北陸に派遣されたという


四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命おおびこのみこと武渟川別命たけぬなかわわけのみこと吉備津彦命きびつひこのみこと丹波道主命たんばみちぬしのみことの4人を指す


『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている



・円善 三河国の人。如導の師。法脈は親鸞上人の直弟子の真仏聖から、専信坊専海を経て円善に至ります。

・如導 越前国の人。真言宗から真宗へ宗旨替えし、道性らの師となる。大町専修寺を拠点に活動した。

・道性 如導の弟子で車の道場(上野別院)の住職となるも、後に山元山證証寺(しょうじょうじ)を開く。横越本山(山元派)

・如覚 道性の子で車の道場を継ぐ。後に真照寺を開く。

・中野山専照寺(三門徒派) 大町専修寺から独立した一派。


 間部詮房は猿楽師の出身で、甲府徳川家の綱豊(後の第六代将軍家宣)に仕え、江戸城西の丸書院番頭にまで出世します。

 家宣が将軍に就任してからは新井白石と二人で正徳の治という改革に着手しますが、諸大名や幕臣からは反発されて幕政改革は進まなかったようです。

 家宣、家継の側用人として権勢を振るいました。


 大名の格は、国主(国持大名)、準国主、城主、城主格、無城(陣屋)の五階級。


 間部詮勝は、大老井伊直弼が先祖伝来の「井伊の赤鬼」と呼ばれたのに対して、冷酷非情に政敵を失脚させていた為に「間部の青鬼」と呼ばれていたそうです。


 なお鯖江の眼鏡産業はパンダの悲劇で大打撃を被り、一時は斜陽産業になりかけました。その為、鯖江市民の中にはパンダの話題を忌避する方もいらっしゃいます。

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