近松門左衛門
近松門左衛門は越前国の生まれです。
父は吉江藩士の杉森信義、母は御典医の岡本為竹法眼の娘、喜里。
本名は杉森信盛と言い、三兄弟の次男でした。
吉江藩は福井藩の支藩で福井藩三代藩主忠昌の子、松平昌親が藩主でした。
ところが兄の福井藩主松平光通が跡継ぎに恵まれなかったことを苦に自害し、急遽福井藩主となるに及んで吉江藩は福井藩へ吸収合併となりました。
杉森家はその前に藩士を辞して京に移住しています。
門左衛門は公家(正親町公通)に奉公していたようです。
その奉公中に浄瑠璃を見て、浄瑠璃の脚本を執筆するようになりました。
三十歳の時に『世継曾我』を執筆し、当初は宇治嘉太夫(宇治加賀掾)が語っていましたが、翌年には加賀掾の弟子だった竹本義太夫が座本となって大坂道頓堀で竹本座を起こし、この『世継曽我』を語り評判を取りました。
二年後、竹本座で講演された『出世景清』は近世浄瑠璃(当流)の始まりと言われ、これ以前の浄瑠璃を「古浄瑠璃」と呼び慣わします。
四十歳で大坂の商家松屋の娘と結婚し、その間に一女一男をもうけました(このうち男子は多門と称し絵師になっています)。
翌年以降、門左衛門は歌舞伎の狂言作者となって京の都万太夫座に出勤し、坂田藤十郎が出る芝居の台本を書いていました。十年ほどして浄瑠璃に戻りますが、歌舞伎作者として学んだ歌舞伎の趣向が浄瑠璃の作に生かされることになります。
歌舞伎から浄瑠璃に戻った翌元禄十六年、大阪天満屋の女郎と醤油商平野屋の手代が露天神社で情死した事件を題材にした『曽根崎心中』を上演。好評を博します。
世話物と呼ばれる新しい風は、それまでの古い時代の英雄譚(時代物)と一線を画し、瞬く間に人々の心を掴みました。
掴み過ぎて庶民の間に心中が相次いだ結果、門左衛門の晩年(享保八年)には幕府によって心中物語全般の公演が禁止されます。
門左衛門は再び時代物を執筆し、出来た作品が正徳五年の『国性爺合戦』です。当作は初日から十七ヶ月の続演という大好評で、後に歌舞伎の演目にもなりました。
享保五年に『心中天網島』という心中物語を執筆。これも好評を博しますが、先述の通り幕府の禁令により長らく上演されませんでした。
享保六年『女殺油地獄』は当時の評判は芳しくなく、明治四十二年に坪内逍遙の働きかけで歌舞伎上演されるまで忘れられていました。
享保九年十一月二十二日、七十二歳でこの世を去ります。
門左衛門の作品で確認されるのは、浄瑠璃は時代物が約九十作、世話物が二十四作です。歌舞伎では約四十作が認められています。
後世に「虚実皮膜論」という芸術論が言われ、これは「芸の面白さは虚と実との皮膜にある」とされる論です。端的に言えば「嘘と本当の間が最も面白い」になるでしょう。
全集に『近松全集』(岩波書店)全16巻などがあり、勉誠社でも刊行されています。
元服十五歳、平均寿命が四十歳、長生きすれば七十歳前後の時代に、三十歳から売れっ子作家になるのは大器晩成の典型ではないでしょうか?
兄弟に母を同じくする兄の智義、弟の伊恒がいます。出生地については肥前国唐津、山城国、長門国萩など諸説ありましたが、現在は越前とするのが確実とされています。
兄の智義と弟の伊恒は大和国宇陀松山藩に召し抱えられました。伊恒は藩医平井家の養子となり、のちに岡本一抱(為竹)と改名しています。
浄瑠璃は、琵琶や三味線などの楽器伴奏で詞章を語る芸能です。
竹本義太夫はそれまでの浄瑠璃の集大成とも言える義太夫節を創始し、これが門左衛門の美しい詞章と絶妙に合わさり人気を集めました。
この浄瑠璃に合わせて人形劇を上演するのが人形浄瑠璃で、現在は文楽座のみが講演を行っております。
辞世の歌は「それぞ辞世 さるほどにさても そののちに 残る桜が 花し匂はば」と、「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間あだなる 朽木書きして」。
墓所は大阪市中央区谷町八丁目の法妙寺跡。谷町筋の拡張工事の際に法妙寺は霊園ごと大東市寺川に移転しましたが、門左衛門の墓だけが旧地に留まりました。なお、移転先にも供養墓が建てられています。戒名は阿耨穆矣一具足居士。忌日の十一月二十二日は近松忌、巣林子忌、または巣林忌と呼ばれ、冬の季語となっています。
・門左衛門の代表作
浄瑠璃
『出世景清』貞享二年(1685年
『曽根崎心中』元禄十六年(1703年)
『兼好法師物見車』宝永三年(1706年)
『堀川波鼓』宝永四年(1707年)
『碁盤太平記』宝永七年(1710年)
『冥途の飛脚』正徳元年(1711年)
『嫗山姥』正徳二年(1712年)
『大経師昔暦』正徳五年(1715年)
『国性爺合戦』正徳五年(1715年)
『平家女護島』享保四年(1719年)
『心中天網島』享保五年(1720年)
『女殺油地獄』享保六年(1721年)
歌舞伎
『仏母摩耶山開帳』元禄六年(1693年)
『けいせい仏の原』元禄十二年(1699年)
『けいせい壬生大念仏』元禄十五年(1702年)




