朝倉宗滴
朝倉氏は元々但馬国朝倉荘に在住する古代武士団でしたが、広景の代に鎌倉幕府が滅亡した後、越前守護の斯波氏に従って越前に来ました。
新田義貞討伐の藤島の戦いで挙げた戦功により、黒丸城を与えられ根城とします。
越前朝倉氏第二代の高景は、主家の越前守護斯波高経が中央で失脚し幕府と敵対関係に入ると、高経の籠もる杣山城を攻め、幕府に忠節を尽くしました。
その戦功により、一乗谷周辺地域の地頭職を叙任されます。
その後の当主は一乗谷を開発し、力を蓄えます。
第七代当主孝景(英林)は応仁の乱で西軍として出陣し、大きな戦果を挙げました。
ところが越前守護を密約されて東軍に寝返り、その寝返りを契機に西軍諸将も追随して西軍は崩壊、東軍勝利に貢献します。
乱の後は越前守護として、主家の斯波氏の影響力を排除しつつ越前国内を次々と支配下に組み込み、ほぼ掌握します。
越前国主の事業は嫡男氏景が継続し、守護斯波氏の影響力を排除する為に、同じ斯波一門の人物を鞍谷公方として推戴し、越前国の支配体制を固めました。
朝倉宗滴が活躍するのは、まさに朝倉氏が戦国大名となる過渡期、氏景、貞景、孝景(宗淳)、義景の頃です。
宗滴は第七代孝景(英林)の八男として誕生しました。
元服後の諱を孝景と名乗っていますので、兄の氏景が亡くなった後は当主となる予定だったようです。
ところが家督は兄の嫡男貞景が継承します。
その不満から一時は家督の奪回をしようと策謀を巡らせますが、共謀していた朝倉景豊や朝倉景総(元景)を謀叛人に仕立て上げ、これらを処罰して一族の重鎮に収まります。
永正三(1506)年、越中、能登、加賀の一向一揆が越前に向けて迫ります。
朝倉氏は幕府管領の細川氏と対立しており、その細川氏の要請を受けた一向一揆三十万人が攻め込んで来たのです。
朝倉氏は宗滴を総大将に、一万人前後の兵で迎撃しました。
九頭竜川を挟んで両軍は対陣したとされますので、現在の県立大学辺りが宗滴の布陣した場所と推定されます。
合戦は夜に九頭竜川を渡河した宗滴が、一揆勢に夜襲をかけて蹴散らし、一揆勢は雪崩を打って逃亡しました。
宗滴は追撃を加え、越前での拠点だった吉崎御坊を破却して凱旋します。
永正十四(1517)年、幕命で若狭国守護の武田氏の援軍に赴きます。
若狭武田氏は将軍家と縁戚関係にありますので、守護の武田氏と協力して反乱軍を鎮圧しました。
更に大永五(1525)年、近江に出兵し浅井氏と六角氏の調停を行います。この時、浅井氏を助けたのを契機に、両家の絆が深まります。
大永七(1527)年には近江に逃れていた第十二代将軍・足利義晴と管領・細川高国の要請で上洛し、三好勢らとの諸戦で勝利をおさめました。しかし、翌大永八(1528)年に、細川高国と対立して京都から撤退しています。
宗滴のこれまでの活躍により、朝倉氏の地位は磐石なものとなり、家格も上がって中央での発言力も確固たるものなります。
享禄四(1531)年、加賀の内紛に乗じて能登の畠山氏と共に加賀に出陣。手取川まで軍を進めましたが、途中で能登側の軍が壊滅したため撤退しています。
天文十七(1548)年に若年の義景が宗家当主になると、これを補佐しました。
天文二十四(1555)年七月、越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して一向一揆を討つべく加賀に出陣しました。
加賀に入って南郷・津葉・千足の三城を攻撃して一日で全て落城させました。
翌日には江沼郡に入って焼き働きし、大聖寺付近の敷地山に本陣を布いて持久戦の策を採りますが、一揆勢も朝倉軍に反撃し、一進一退のまま膠着します。
宗滴はこの陣中で病に倒れ、一族の朝倉景隆に総大将と朝倉軍を任せて一乗谷に帰還します。
手厚い看病を受けましたが、一乗谷にて病死しました。享年79。法名・月光院殿照葉宗滴大居士。
宗滴死後、後任の総大将となった景隆は加賀の各所を攻めましたがほとんど戦果は挙げられません。それどころか翌年になると加賀一向一揆が越前に侵入して各地を焼き払い、窮した朝倉家は幕府の仲介で一揆衆と和睦します。
弱体化した朝倉氏は徐々に昔日の隆盛を失い、織田信長の進攻に屈します。
その織田信長の才能を宗滴は見抜いていたと言われています。臨終の直前に「今すぐ死んでも言い残すことはない。でも、あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と言い残しているそうです。
朝倉宗滴の唯一の失敗は、後継者を育成できなかったことでしょう。
まさにたった一人で朝倉一門を背負っていた屋台骨の彼が亡くなり、朝倉氏の栄華は斜陽を迎えます。
信長横死後の織田家中は秀吉がまとめ上げましたが、その秀吉も後継者を支える家臣団が分裂して滅びました。
どのような国や組織でも、後継者とそれを支える基盤が必要だと朝倉氏の興亡は教えてくれているように思います。
越前朝倉氏繁栄の基礎を整えた朝倉孝景(英林)の話。
分国法である英林壁書を遺したとされる孝景ですが、実際には宗滴らが父の遺訓に加筆修正したと考えるのが妥当でしょう。
英林壁書
・朝倉家に於ては宿老を定むべからず。その身の器用忠節によりて申し付くべき事
世襲制度を廃し、実力主義を採用すべきである。
・城内にをゐて夜能被好ましき事
町を警備する武士の士気低下や油断を戒めるため、夜、武士の館で、宴会や猿楽を上演することを禁じた。
・朝倉が館之外、国内□城郭を構へさせまじく候。
国人・地侍の塁館建造を禁止した。
・惣別分限あらん者、一乗谷へ引越、郷村には代官ばかり置かる可き事。
国人・地侍に朝倉家の館がある一乗谷の移住を命じた。
・名作之刀さのみ被好間敷候,其故は万疋之太刀を持たり共百筋之鑓には勝間敷候,万疋を以て百筋之鑓を求百人為持候は一方は可防候。
高価な名刀一口買うのであれば、同じ金員で、百の鑓を買うべきという合理的な教え。
このほか、京都の雅やかな暮らしを捨てて質素倹約を重んじること、毎年三度の領内巡行や伽藍仏閣町屋巡検のことなど民生面にも配慮すべきことなどを規定していました。
孝景(英林)は軍略に優れ応仁の乱や越前戦争の多くで勝利しましたが、それは彼が智仁徳を備えた大将であったためと言われています。
史料によると孝景は豆を食べる時は兵卒と共に掴んで食べ、酒は家臣と酌み交わし、朝は早く起きて夜は兵卒を励まし、傷ついた者を治療しその死を悼みました。これらの行為は孫子の「卒を見ること嬰児の如し」です。そのため朝倉の兵は孝景と水魚の交わりで忠義を尽くしたそうです。
また応仁の乱における孝景の活躍は目覚しく、その軍は精強でした。そのため応仁元年(1467年)六月に将軍義政が西軍の追討令を出すと、西軍諸大名の多くは賊軍になるのを恐れて降伏を申し出る者も多かったのですが、斯波義廉が降伏するには「朝倉孝景の首級」を持参することを条件とされており、孝景が西軍の主力を成していたことを示しているとされます。
孝景は越前国内の統一を進める中で、公領や公家領・寺社領の押領を多く行ったため、当時の権力層である「寺社」「公家」(寺社本所領)にとってはまさに仇敵でした。公卿の1人で前中納言の甘露寺親長は日記の中で、孝景のことを「天下悪事始業の張本人」と評しているそうです。彼の死を聞いた時には「越前の朝倉孝景が死んだということだ。朝倉孝景は「天下一の極悪人」である。あのような男が死んだことは「近年まれに見る慶事」である」とまで記したとか。
また、一条兼良も自ら越前に下って孝景と直談判して家領の足羽御厨の回復を求めるも失敗に終わり「言語道断也」と評価しています。
興福寺別当の経覚は、孝景の押領に対抗するために延暦寺へ追われていた親戚の本願寺八世法主・蓮如を自領の吉崎に匿い、代官の役目を負わせつつ浄土真宗の布教を許しました。これが後に朝倉氏歴代を悩ませる一向一揆の温床となります。




