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敦賀市

 今月は福井県の魅力を紹介する企画を展開します。

 偶数日は市町村の歴史や産業を、奇数日には人物紹介を連ねる予定です。

 最初に紹介するのは敦賀(つるが)市。

 通常、県庁所在地を最初に持って来るのでしょうが、私が最初に紹介するのは敦賀市です。

 敦賀市には北陸道総鎮守、越前國一宮である「氣比(けひ)神宮」が鎮座しています。

 名実共に北陸道の玄関口が敦賀市なのです。

 古事記にも、仲哀天皇の皇后である神功皇后の事蹟に氣比神宮が登場します。更に続けて應神天皇、仁德天皇の事蹟にも登場する神社で、官幣大社に列せられています。

 氣比神宮の参道には朱塗りの大鳥居があり、掲げられている額は有栖川宮威仁(たけひと)親王殿下の御染筆です。

 例祭は九月の初頭で、多くの山車が練り歩きます。

 他にも金ヶ崎宮では春先に(四月三日頃から)「花換え祭り」が行われます。恋の宮と言われる金ヶ崎宮で、ご縁を結んでは如何でしょうか?


 敦賀市は古来、交通の要衝で古代は大陸からの玄関口として、近世では北前船の港として、更に近代では再び大陸への玄関口として機能しました。

 気比の松原の場所には古代、迎賓館があり外交使節団の受け入れをしていました。

 江戸時代は北前船の寄港地として賑わい、多くの積荷が揚陸されて近江方面に運ばれ、そこから琵琶湖の水運を通じて上方へ流通していました。

 維新後、敦賀市からは大陸方面、ウラジオストクへの定期航路が開かれ、大正時代には東京駅から夜行列車で敦賀市まで移動し、敦賀港から客船でウラジオストクに渡航、シベリア鉄道でモスクワやベルリンを経由してパリまで一週間ほどの旅行ができたそうです。

 この道のりを逆にリトアニアからシベリア鉄道でウラジオストクへ移動し、敦賀港へ上陸したのはナチスやソビエト連邦の迫害から逃れたユダヤ人でした。

 この時、入国査証(命のビザ)を発給したのが杉浦千畝(ちうね)です。


 このように交通の要衝であるこの敦賀市を、豊臣秀吉は家臣の大谷吉継に治めさせました。

 そのような秀吉の名声を高めた合戦が、金ヶ崎合戦(金ヶ崎の退き口)で、信長と家康の連合軍が朝倉一門を攻撃しようと出征していた折、浅井長政が裏切った為、全軍が雪崩を打って退却しました。この時、殿(しんがり)を務めたのが秀吉と明智光秀と言われています。


 現在の敦賀港は北海道からの航路が開かれ、北国から関西、中京方面への玄関口となっております。

 北前船の時代から昆布製品の取り扱いに定評があり、また豊富な鮮魚も売りの一つです。

 夏場は海水浴と花火を楽しむこともできます。

 海鮮丼や鯖寿司、敦賀ラーメンなどの味覚も楽しめる敦賀市へ、お越しになりませんか?


敦賀の語源は「ツヌガアラシト」という名の「角鹿」から転じたと言われています。


氣比神宮の祭神は、イザサ別命、日本武尊、仲哀天皇、神功皇后、玉依姫、應神天皇、武内宿禰。


花換え祭りはコロナのため、中止です。


杉浦千畝は駐リトアニア大使でした。


おぼろ昆布の生産量が日本一。


最近は養殖フグも楽しめます。


小牧かまぼこは宮内庁御用です。

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