4、夏目さんとヨネ婆さん
日曜日、僕たち一家はヨネ婆さんという人の所へ挨拶に行く事になっていた。
お父さんの親友の夏目さんも一緒に行くらしい。
夏目さんは昔はよく遊びに来ていたが、思った事をずけずけ言う人だからいつもお母さんの機嫌を損ねて険悪なムードにさせる。
だからそのうち来なくなって、ずいぶん会ってない。
お母さんは朝から緊張してるようだ。
「この服装で大丈夫かしら? 派手過ぎない?」
夏目さんは遊び人のくせに清楚な女性が好きだった。
派手なミニスカートが好きだったお母さんのファッションには、いつも余計な一言を言ってひんしゅくを買っていた。
今日はヨネ婆さんと初対面という事もあって、お母さんは入学式にでも行きそうな薄ピンクのスーツを着ていた。スカートは膝まであるプリーツスカートだ。
「うん。よく似合っているよ。大丈夫」
お父さんの意見などは、贔屓目しかないから役には立たない。
僕はファッションの事はよく分からないが、どのお母さんより綺麗だと思う。
ただ、僕の意見も当てにならない。
幼稚園の友達は、みんな自分のお母さんが一番綺麗だと思ってるからだ。
中にはお前のお母さんは絶対一番じゃないと言ってやりたくなるヤツもいたが、本人はとても真面目に一番だと思っている。
だからきっと僕もそんな一人なんだと思う。
だってお母さんほど可愛くて綺麗な人はいないもの。
ヨネ婆さんの自宅最寄駅で待っていると、改札口から夏目さんが手を上げてやってきた。
「ごめん、待たせたか。早いな那人」
「俺たちが早過ぎたんだ。気にしないでくれ」
お母さんが忘れ物をしたりドジをする事を想定して早めに出た。
案の定、手土産を持って出るのを忘れてマンション下から取りに帰った。
それだけで済んだので、思ったより早く着いたのだ。
「お久しぶりです、夏目さん」
お母さんは緊張した面持ちでぺこりと頭を下げた。
「……」
夏目さんはお母さんを見て、考え込むようにあごに手をやった。
「あの……」
お母さんは何か変な所があるのかと、自分の服装を確かめている。
「あ、いや、ごめん。紫奈ちゃんだよね。
久しぶりに会ったせいか……ずいぶん印象が違うから……」
「ど、どこか変ですか?」
お母さんは青ざめた顔でもう一度自分の姿を点検している。
「いや……とっても可愛いよ」
「え?」
お母さんは驚いたような顔をしてから、みるみる真っ赤になった。
夏目さんがお母さんを可愛いなんて言うのを初めて聞いた。
お母さんも思いがけない事を言われて、すっかり動揺している。
「おい、人の奥さんを口説かないでくれよ」
お父さんは冗談ぽく文句を言ったが、結構本気で注意している。
「なんだよ、俺は正直者だから本心を言っただけだよ」
「お前はモテるから心配だ。もう紫奈にはしゃべらなくていい」
「おいおい嫉妬深い夫は嫌われるぞ。
お、このチビ助は由人か」
夏目さんはお母さんの横に立つ僕に視線を落とした。
僕はじっと睨んでから、ぷいっとそっぽを向いた。
「あれ? あからさまに顔を背けたぞ。
俺、由人に嫌われたか?」
こいつは僕とお父さんの敵だと認識した。
◆ ◆
「はじめまして、芥城紫奈です」
お城のような豪邸ばかりが建つ住宅地を歩いていくと、その中でも一番長い塀の先にヨネ婆さんの家があった。
門が開いて広い庭園を歩いて行くと、お手伝いさんの女性が出迎えてくれて、応接間に案内された。そしてヨネ婆さんと呼ばれる人物が姿を現わした。
お婆さんのわりに背筋がぴんとしていて、さくさく歩く人だった。
服装は動き易そうな忍者のような服で、作務衣という作業着だと後で教えてもらった。
お母さんが挨拶しても、ソファに座ったままジロジロと愛想なく見つめている。
ただ、猫を抱いていて、その背を撫ぜる手だけが優しかった。
「ヨネさんに是非会いたいって言うから連れてきたんだ。
那人の会社を救ってくれた救世主だしね」
夏目さんは誰に対しても口調が変わらない。
「あんたの新しい彼女かと思ったよ。
あんたの好きそうな素直そうな子じゃないか」
「あ、やっぱりそう思った?
ちょっと前まで全然タイプじゃなかったんだけどね」
「おい、夏目!」
お父さんがさすがに嗜めている。
いろいろ失礼なヤツだ。
お母さんはまた真っ赤になっていた。
僕は心配になってお母さんの手をそっと握った。
ヨネ婆さんは、そんな僕達を値踏みするようにジロジロ見ている。
社交辞令とか、愛想をふりまくとか、おべっかとか、そんなモノは一切不要らしかった。
年をとると必要なくなるのかもしれない。
本音だけを見られている緊張感がある。
「あの……漬物が好きと聞いて、京都の人気の漬物を持ってきました」
お母さんは、この手土産は自分が渡したいとお父さんに頼んでいた。
「ああ、そういう大層に包装された漬物は好きじゃないんだよ。
自分のぬか床で漬けたモノしか食べない。持って帰っておくれ」
あっという間に否定された。
「ぬか床……。やっぱり漬物石を持ってるんですね!」
しかしお母さんは否定されたというのに嬉しそうに顔を輝かせた。
「漬物石? そりゃあもちろんぬか床に石は乗せてるけど……。
漬物石に興味があるのかね? 変わった子だね」
ヨネ婆さんは初めて少し口端を上げて微笑んだ。
「あの……漬物石を見せてもらってもいいですか?」
「は?」
お母さんは時々、僕とお父さんが思いつかないような事を言い出す。
ヨネ婆さんと夏目さんも、何言ってるんだという顔をしている。
僕はちょっとだけ恥ずかしくなった。
僕とお父さんだけなら笑って済ませられるけれど、他人がいるとフォローしようにもさすがに出来ない事もある。
「お願いします!」
でもこういう時のお母さんは怖いもの知らずというか、怯まない。
「し、紫奈、いきなり初対面の人に漬物石見せてくれって……それはちょっと……」
さすがのお父さんもフォローしきれないようだ。
しかしヨネ婆さんは、きょほほ、と変な笑い声を上げた。
久しぶりに笑ったせいで違う筋肉が動いてしまったらしい。
「面白い子だね。漬物石が見たいなんて言われたのは初めてだよ。
そんなに見たいならいいよ。おいで」
ヨネ婆さんは猫を下ろして立ち上がった。
「ああ、漬物部屋は狭いから、男共はここで待ってておくれ」
ヨネ婆さんに言われて、お父さんと夏目さんは部屋で待つ事になったが、僕はお母さんが心配で男共ではなく子供なんだと主張するようにお母さんの手を握ったままついていった。
無言のまま廊下を進むヨネ婆さんについていくと、迷路のように進んだ一番奥で立ち止まって、引き戸を開けて中に案内された。
クローゼットぐらいの広さの部屋には、真ん中に大きな木の樽が二重に重なって置いてあった。その横には簡単な洗い場と調理台があって、少し空気がひんやりしている。
見上げると、この小さな漬物部屋専用のエアコンがついていた。
そして大きな樽の上には、丸くて大きな漬物石が乗っていた。
「この石だわ……」
お母さんは樽に駆け寄ると、無くしていた宝物でも見つけたように呟いた。
「この石がどうかしたのかい?
ずっと前に川原で見つけた石だよ。
誰の所有物でもなさそうだったけど、何か謂れでもあるのかい?」
「いえ。これは間違いなくヨネさんの物です。
ヨネさんが持っているから意味のある石なんです」
「? なんだかよく分からないけど、せっかくだ。漬物を食べてみるかい?」
「い、いいんですか?」
お母さんは子供のように喜んでいる。
「この漬物石を持って、そっちの台の上に置いてくれるかね」
「はいっっ!!」
お母さんは恐竜の卵でも持ち上げるかのように、慎重にそっと動かした。
「け、結構重いですね」
「ある程度の重みがないとうまく漬からないからね。
石ならなんでもいいって訳じゃないんだよ。
塩に溶けてしまうようなヤワな石でもダメだしね。
これは理想的なお気に入りの漬物石なんだよ。
下が平べったくて落し蓋への座りもいい。
くれと言われてもやらないよ」
「は、はい。もちろんです。
どうかこの石を可愛がってあげて下さい」
「可愛がる?」
ヨネ婆さんは言ってから苦笑した。
「まるでペットのように言うんだね。
ふふ、まあいい。確かにこの石には愛着があるんだ」
ヨネ婆さんはまるで猫を撫ぜるように漬物石を優しく撫ぜた。
次話タイトルは最終話「カンナちゃんの誕生日会」です。