3、僕のお父さん
お父さんは最近とても仕事が忙しいようだが、週に一回、水曜日だけは早く帰る日に決めている。
お母さんは水曜日は朝からそわそわと「今日の晩御飯は何がいいと思う?」と5回は聞く。
僕は唐揚げとかスパゲッティとかいろいろ言ってみるが、結局お父さんの好物になってしまう。
今日は肉じゃがと明太子サラダとたまごスープだ。
いつもならもう一品作ろうとするけれど、今日はカズくん達が来ていて時間がなかった。
「ねえこの肉じゃが美味しい? 味見してみて」
「さっきもしたよ。美味しかったよ」
僕は何度も味見をさせられて夕飯の前にお腹いっぱいになっていた。
「お母さん、また温め直す時に焦がさないでね」
先週のぶりの照り焼きは、美味しく出来ていたのに、最後の温め直しで焦がしてしまった。
その前の豚汁は何度も温め直して味を確かめたせいで、煮詰まり過ぎて味が濃すぎた。
まあ、だいたいお母さんはこんな感じだ。
一生懸命やり過ぎて、たいてい失敗する。
普段適当に作ったものの方が美味しい。
「ただいま」
玄関にお父さんの声が聞こえると、お母さんは「ぱああ!」と擬音をつけたくなるほど嬉しそうな顔をして僕の手を掴んで出迎えに行く。
「お母さんだけ行けばいいのに……」
なんか僕までそわそわ帰りを待ってたみたいで恥ずかしい。
「水曜日しか由人が出迎えられる日はないのよ。
行かなきゃ勿体無いじゃない!」
他の日は僕が寝た後に帰ってくる。
でもだからって、僕はそういうキャラじゃないんだけど……。
ハードボイルドを目指すカズくんには、これも絶対言えない。
「ただいま、紫奈、由人」
お父さんは靴を脱ぎながら、もうニコニコ顔だ。
以前はもっと硬派な男だと思っていたが、最近のお父さんはお母さんにメロメロ過ぎてちょっと注意したくなる。
「おかえりなさい、那人さん。
ご飯にする? お風呂にする?」
お母さんは水曜のたびに聞いているが、答えは分かっている。
「由人もお腹がすいてるだろうから、ご飯が先でいいよ」
分かっていても聞いてみたいだけなんだ。
万が一お風呂が先と言われたら、手順が狂ってパニックになるくせに聞くんだ。
お父さんはよく分かっているから、笑いながら期待通りの答えを返す。
「今日は肉じゃがなの。すぐに温めるから待っててね」
お母さんはパタパタとキッチンに戻っていく。
「紫奈、お弁当……ごちそうさま」
お父さんはキッチンのカウンターごしに鞄の中のお弁当の包みをごそごそ探している。
「そうだ、僕もまだお弁当出してなかった」
僕は思い出して自分の部屋の幼稚園リュックから、弁当箱を取ってきた。
今日はカズくん達が来ていて出すのを忘れていた。
ちょうど鞄の底からお弁当を取り出したお父さんと目が合った。
そういえば、今日も箸が逆になってたんだった。
お父さんは注意するべきか迷っているようだ。
僕はさすがに2回目は注意すべきだろうと肯いた。
お父さんは意を決して肉じゃがを温め直すお母さんに口を開いた。
「紫奈、今日の弁当なんだけど……」
「そうだわ! 今日のだし巻き卵はうまく出来てたでしょ?
今までで最高の出来だと思うの。
どうだった? 那人さん、由人!」
明太子サラダを盛り付けながら、お母さんが期待を込めて僕達を見た。
「あ、ああ。すごく綺麗に巻けてたね。
味も最高だったよ」
お父さんはすっかりお母さんのペースに呑まれている。
「やっぱり!!
由人もお友達に凄いねって言われなかった?」
ハートのふりかけのインパクトが強すぎて誰も気付かなかったとは言えなかった。
「う、うん。みんなに凄いねって言われた」
ハートのふりかけがだけど……。
「ホントに? 嬉しい!」
目を輝かせるお母さんを見て、僕とお父さんはキッチンに背を向けてしゃがみ込むと、お互いにコソコソと箸を出して取り替えた。
「箸を間違えたぐらいで、文句を言う必要もないな。
紫奈がせっかく一生懸命作ってくれたんだし……」
「うん。箸がなくて食べられなかったわけじゃないしね」
「せっかくあんなに喜んでるのに、水を差すことないよな」
「二人共、なにコソコソ話してるの?」
お母さんがカウンターごしにこちらを覗き込む。
「ううん、何でもないよ」
「これ弁当箱。美味しかったよ、ありがとう」
僕とお父さんは、いつもこんな感じでお母さんを甘やかしてしまう。
でもいいんだ。
僕は心の広い優しい人間になると決めたんだから。
ただ……。
時には、つい神様との約束を忘れて怒りたくなる事もあった。
……………………
「きゃああ! 大変!!」
夕飯の後、急ぎの衣類の洗濯物を干そうとしていたお母さんが叫んだ。
お風呂も済ませてパジャマでくつろぐ僕とお父さんは顔を見合わせた。
「ご、ごめんなさい! ユヒくんの体操服とスモックを今日中に洗濯しようと思ったんだけど、ついでに私の赤いスカートと那人さんのYシャツも洗濯したら……」
お母さんが僕をユヒくんと呼んだ時は要注意だ。
全面降伏しなきゃならない何かをしでかした時がほとんどだった。
「このスカートったら丸洗い出来そうだからいいと思ったのに、こんなに色落ちするなんて思わなかったわ。どうしよう……」
お母さんが手に持っている赤いスカートは、別に問題ないように見えた。
「別に色が落ちたようには見えないけど……」
お父さんも首を傾げる。
「スカートはいいんだけど……一緒に洗った物が……」
お母さんは、申し訳なさそうに反対の手に持った洗濯物を僕達に見せた。
「な!!」
それはすっかりピンクに色付いた僕の体操服とスモックとお父さんのYシャツだった。
「なんだよこれっっ!!!」
僕は思わず叫んでいた。
スモックはまだいい。
ブルーが少しくすんだ変な色になってるぐらいだ。
でも白い体操服は……。
見事に綺麗なピンク色に染まっていた。
オーダーで染めたぐらい見事にムラなく染まっている。
冗談じゃない。
こんなラブリーな体操服を着たら絶対みんなにからかわれる。
僕のクールなイメージも台無しだ。
ハードボイルドのカズくんには何と言われるか分からない。
体操服は何かの行事の日しか着ないから、これ1枚しか持っていない。
しかもその行事が明日だった。
「どうするんだよっっ!!」
神様との約束も忘れて怒鳴っていた。
「ごめんね、ユヒくん。ちょっと漂白してみるから……」
お母さんはすっかりしょげて僕に謝った。
いや、謝って許せる事と許せない事がある。
僕はお父さんを見た。
手にしたピンクのYシャツを呆然と見つめている。
結構高くてお気に入りのYシャツだったはずだ。
さすがのお父さんもこれには怒るはずだ。
「ごめんなさい、那人さん。
お気に入りのYシャツだったのに……」
さあ、僕の代わりに強く怒ってくれ。
しかし、お父さんはうな垂れるお母さんの頭をポンポンと撫ぜた。
「気にしなくていいよ。
ちょうどピンクのYシャツが欲しかったんだ」
お父さんに期待した僕がバカだった……。
僕の体操服は、その後漂白してうっすらピンクぐらいにはなったが、ついでに胸元についた幼稚園のロゴマークまで漂白されて白抜き文字になってしまった……。
次話タイトルは「夏目さんとヨネ婆さん」です。