1、由人の約束
僕は芥城由人。
幼稚園の年長組だ。
仲良しは同じバラ組のカズくんとリョウくんだ。
二人とも同じマンションに住んでいるが、カズくんのお母さんは仕事をしていて居残り組のため、帰りのバスは同じじゃない。
リョウくんは同じバスだけど、習い事が多くてほとんどの日が埋まっている。
僕も幼児塾には行っているが、週に2日だけで自宅学習がほとんどだから、塾のない日はいつも家で本を読んだりゲームをしている。
「ユヒト、リョウ、今日は例のモノを持ってE地点に集合な」
幼稚園の外遊びの時間に、カズくんが思わせぶりに言った。
カズくんは、最近ハードボイルドにはまっている。
ちょっと前までユヒくんリョウくんと呼んでいたくせに、ある日
「今日からお前達を呼び捨てにする」と宣言した。
そして自分も「カズ」と呼び捨てるように命じた。
更にマンションのエントランスの事は三人の間ではE地点と呼べと言い出した。
「ハードボイルドって何?」
僕はカズくんに尋ねた事がある。
カズくんは呆れたように頭を振った。
「ユヒトって頭いいくせに、そんな事も知らねえの?
俺みたいな硬派な男の事だよ。分かるだろ?」
僕は全然分からなかったが、仕方なく肯いておいた。
「例のモノって3Dゲームの事だよね。ソフトは『妖怪GOGO』?」
リョウくんは、バラ組の中でも一番真面目なヤツだ。
「バカッ! そのまま言うヤツがあるかっ! 誰かに聞かれたらどうするんだ!」
たぶん、どうもならないと思うが、リョウくんは真面目だから慌てて口を押さえた。
僕も二人に合わせて秘密の話をするように、コソコソと今日の約束を取り決めた。
今日は幼稚園から帰った後、僕の家で遊ぶ事になっていた。
三人一緒に遊べるのは久しぶりだったから、僕達はテンションが上がっていたのだ。
「ユヒくん、ちょっといい?」
秘密の決め事に盛り上がる僕達に、同じバラ組のヒロミちゃんが声をかけてきた。
途端にカズくんが警戒するように「言うなよ」と僕達に口止めした。
さして内緒にするような話でもなかったが、僕は神妙に肯いてヒロミちゃんを見た。
「なに?」
「カンナちゃんが今度誕生日会を開くの。
ユヒくん来れる?」
僕はヒロミちゃんの横でもじもじしてるカンナちゃんに視線を向けた。
「なんで僕が?」
ほとんどしゃべった事もないのに行く意味が分からない。
「もう! 察しなさいよ! ユヒくんに来て欲しいのよ!」
ヒロミちゃんはいつも偉そうだ。苦手な女子だった。
「えー、僕だけ? カズとリョウも一緒なら考えるけど……」
「カズくんは女子に意地悪だし、リョウくんは習い事で忙しいじゃない」
はっきり意地悪と言われてカズくんは、すっかり機嫌を損ねた。
「はんっ!! 女子の誕生日会なんかだっせえ!
誘われたって絶対行くかよ!!」
「誰もあんたなんか誘ってないわよ!」
「なんだと!!」
カズくんとヒロミちゃんは、それぞれ男子と女子の親分的存在で、顔を合わせると喧嘩ばかりしている。
「もう、喧嘩しないでよ。とにかく僕は行かないから」
面倒になってそう答えると、カンナちゃんはみるみる涙を浮かべてしくしく泣き出した。
ええっ!? なんで?
誕生日会断っただけで、なんで泣くんだよ。
「ひどい、ユヒくん!! そんな冷たい人だとは思わなかったわ!!」
え? 悪いのは僕?
全然分からない。
以前の僕ならこんな時、「わけわかんね」とでも言って無視したのだろうが、近頃の僕は少しばかり心を入れ替えた。
自分で言うのも何だが、優しい人間になった。
だから……。
「よく分からないけど、ごめん。
そんなに悲しいなら、行くよ。
でも僕が行っても面白い事なんて何も出来ないよ」
面白い事を期待するなら、カズくんを誘った方が全然楽しいはずだ。
「げ! マジで行くのかよユヒト。
女の誕生日会なんかだっせーぞ。カッコわりいぞ」
ハードボイルドな男のやる事じゃないという顔で、カズくんが僕に撤回を求めていた。
でも僕には、人に優しくしなければならない理由があった。
「ユヒくんは来てくれてご馳走を食べるだけでいいのよ。
良かったね、カンナちゃん」
カンナちゃんは嘘泣きだったんじゃないかと言うぐらい、笑顔に変わった。
女の子ってホントに何を考えてるのか分からない。
でも僕は他の男子よりも気まぐれ女子に慣れていた。
なにせ一番身近な女子であるお母さんが、一番気まぐれだったから。
ほんの少し前まで、お母さんはすぐ怒るし、すぐ落ち込むし、すぐ泣く人だった。
僕とお父さんはいつもお母さんの機嫌を損ねないように、ひやひやしていた。
いつも理不尽で、いつも腹が立って、いつも嫌な気分になるのに、それでも僕はお母さんにだけは好かれたくて仕方なかった。
どうしてなのか今でも分からない。
でも、どうしてもどうしても、お母さんにだけは嫌われたくなかった。
本当はいつも怖かった。
もしかして僕は嫌われてるんじゃないかと不安になる気持ちが止まらなくて、やっぱり本当は好かれていたという答えが欲しくて、逆に意地悪な事ばかりしてしまった。
お母さんはそんな僕に怯えているように見えた。
そして僕はますます意地悪をした。
どんどん悪い方にばかりいってしまって、いつか来る終わりの気配をすぐそばに感じていた。
そして終わりは来たのだ。
交通事故で脳死だと聞いた時、僕は(やっぱりな)と思った。
僕を育てるのが嫌になって死んでしまうのだと思った。
お母さんがお父さんを道連れに死のうとしたのだと、看護婦さん達が噂してるのを聞いてしまった。
お母さんはお父さんとは一緒に死にたくても、僕とは一緒に死ぬのさえ嫌だったんだ。
奇跡的に意識が戻ったけれど、僕はもうお母さんだと認める気はなかった。
もう好かれたいなんて二度と思ってやるもんかと思った。
だって僕は捨てられたんだ。
僕を置き去りに死のうとしたんだから。
こっちからお母さんを捨ててやると思っていた。
目が覚めたと聞いても、会いたくないとおばあちゃんの家に居続けた。
でも……。
でも目覚めたお母さんは、僕を「可愛い」と言ったんだ……。
幼稚園でも街を歩いても、可愛いと言って寄ってくる女はいっぱいいたけど、お母さんは僕の知る限り一度も言ってくれた事などなかったのに。
お母さんは世界一気まぐれで、ずるい人だ。
だって、あれほど嫌いになってやると思っていたのに、その一言だけで僕を夢中にさせたんだ。
絶対認めてやるもんかと意地になってみても、心の半分がもっと可愛いと言ってもらいたくてうずうずしてるんだ。
僕はたった一言で、また好かれたいと願うまぬけな男になってしまった。
ただ……。
もうそれは叶わない願いじゃなくなっていた。
どんなに願っても叶わないと思っていたのに、いつの間にか僕は愛されていた。
意地悪をして確かめる必要なんてないほど、間違いなく愛されていた。
歩いている人を捕まえて「僕はお母さんに愛されてるんだよ」と説明して回りたいほど心が浮き立った。
そうして世界が幸福で塗り固められた時に……
お母さんは病室で息を引き取った。
僕は最初、もう二度と誰にも愛されたいなんて願うもんかと思った。
もう誰もお母さんだと認めないし、誰にも優しくなんてしない。
最高に意地悪な人間になって、世界を呪ってやると思った。
どんな悪い人間になってやろうかと必死で考えたけど、大していい案は思い浮かばなかった。
思い浮かぶのは、お母さんの優しい笑顔ばかりだった。
だから僕は全然逆の事を考えた。
お母さんをもし助けてくれたなら、僕は世界一優しい人間になります。
僕の願いを聞いてくれたなら、絶対大勢の人の役に立つような人間になります。
どんな人にも優しくします。
人のために尽くせる人間になります。
だからどうか……。
どうかお母さんを返して下さい。
僕は神様と約束したんだ。
次話タイトルは「僕のお母さん」です。