星占い
散らかった六畳の部屋に携帯電話のアラームが鳴り響く。
その音に目を覚まし、体を起こして雑誌やゲームソフトに埋もれたタバコを目を閉じたまま手で探す。
タバコに火をつけ、深く吸い込んでから、ゆっくりと吐く。
時刻は8時。遅刻は決定的。
だが、春樹は焦ることなく一本目を灰皿に入れた。爆発した頭を撫で、なかなか開かない目を擦る。
上半身は裸、パンツ一丁 のスタイル。そのまま部屋を出て階段を下り、トイレに直行。
20分は出てこない。トイレから出て、誰もいない台所へ向かう。
春樹の両親は共働きで朝早くに家を出る。妹は毎日真面目に登校している。
「あー眠い」
あくびをしながら古びた冷蔵庫から牛乳を出して一気に飲む。それから洗面所に向かい 爆発した髪をセットし、 学生服に着替えて家を出たころには9時を回っていた。
どこにでもある普通の一軒家を後にし、歩いて10 分ほどの学校へ向かう。 住宅街を抜け、人もまばらな商店街に入り、そこを抜けて左に曲がる。
海が見える道に出て広がる青い海とカモメに追われる漁師船を見ながら海岸沿いの道を歩いた。
前方に目を戻すと港で忙しそうに動く漁師達が見える。それから少し歩いて学校へと続く住宅街の緩い坂道に入り、3分ほど歩いて学校の前に着いた。閉ざされた校門の周辺には誰もいなかった。自分以外に遅刻した生徒はいない。重い校門をこじ開けて中に入り玄関で上履きを履く。その時、後ろから声がした。
「春樹。また遅刻か?」 同じ学年で違うクラスの 玉木だった。
「お前が毎日起こしてくれたら遅刻しなくなるよ」
玉木が笑う。笑うと細い目がさらに細くなる。
「いい加減にしないと。 山田に目をつけられるぞ」
生徒指導山田先生。今時珍しく言葉より手が早い教師だ。強烈な張り手が武器で、 その張り手を喰らったのは二ヶ月前だ。
その時の記憶が鮮明に浮かんだ。
「お前もサボりだろ?」 「まぁね」
「人の事心配してる場合かよ」
そんな会話をしながら二人は並んで歩きはじめた。
授業の途中から教室に入ると色々と面倒なので、遅刻した日は校舎の屋上で時間を潰し、二時限目に教室に入ることにしている。
朝から教師に叱られるのを避ける為だ。
「俺らもう二年になったんだな。早いよな。馬鹿やってられる時間も残り少ない」
階段を上りながら玉木が言う。
「春樹は女欲しくないのか?」
ちくりと心に何かが刺さる感覚。実は最近その事が頭を占めていた。
「何だよ、いきなり」
「だってよ、もう二年だぜ。今年で17。卒業までに何とかしないと、童貞で卒業なんてさ、最悪だろ?」
確かに。
春樹なりに努力はしている。髪型を変え、眉毛も 雑誌を見て、モデルの真似をした。
外見は以前より少しだけ良くはなったのだが、今年もバレンタインデーは惨敗。
妹からの一個のみに終わった。
「春樹?」
「えっ?あっそうだよな」
「だろ?かと言って下手な鉄砲打ちまくってもダメだろうしな。なんかいい方法ないかな」
女にモテる方法。頭の中を占めている悩み。
だが、春樹には決定的な弱点がある。それは自分でも理解している。どんなに身なりを変えても、 女子とまともに話せない のが春樹の弱点だった。
「春樹はさ、何人かに告れば絶対誰か一人は当たるだろうけど、俺は顔がダメだからな」
玉木が苦笑いした。
玉木は人柄が良く、優しく、根は真面目だ。自分が女なら、玉木を彼氏にするだろう。
「俺が女なら、お前を選ぶよ」
「俺と本気で恋しちゃうか?慰めありがとう」
玉木は中学時代に、学年で一番の美少女に告白した経験がある。
結果は惨敗。
その後も何度か同じ女に 告白したのだが、最後は 同じ学年の男に奪われ、 諦めることになった。
高校に入ってからも数人に告白したが、下手な鉄砲は未だにヒットしない。
その下手な鉄砲が女子の間で噂となり、
「玉木は誰でもいい男」と決め付けられ、さらにヒットすることが難しい状況になっていることに、玉木は気付いていないようだった。今年中どころか、卒業するまで難しい状況だ。
春樹はというと告白した経験すらない。
する勇気がないというよりは、女と付き合うということに興味がなかった。もちろん体に興味はあったが、告白したいと思うまでの異性に出会うことがなかったのも理由の一つである。
だが最近、春樹の心に変化が起こる。自分の周りにいる男子達が次々と経験を済ませていく中、未だに経験できてない春樹は自分だけ取り残されることを恥ずかしく思いはじめていた。
その焦りと不安が日々大きくなっている。
ちくりと心に刺さった玉木の言葉が、先程より痛みを増している。
「本気で何とかしないとな…」
「えっ?春樹今何て?」
「何でもない」
屋上まで続く階段を上る足取りが少しだけ重くなっていた。
屋上に出ると悩みを吹き飛ばすほどでもないが素晴らしい景色が目に入った。
雲一つない快晴、大きな青い海。穏やかな風。静かな街。鳥の泣く声。その景色に少しだけ救われたのだが、見たくないものが目に入り、今度は今までとは別の重さが襲う。
屋上には三人の先客がいた。三人は段ボールを囲むように置かれた椅子に座り、段ボールを机替わりにしてその上で博打をしていた。三人の中で一番大きな生徒は、この学校の、いやこの街の最強番長、村上直哉だった。
同じ二年だが、外見は全く同い年に見えない。少し見上げてしまうほど高い身長にがっしりとした体格。中学の頃、柔道の全国大会でベスト4に入ったこともある。この街での武勇伝も数え切れない。最強番長の名に相応しい男、村上直哉。
「おっ春樹と玉。春樹また遅刻だろ?山田にバレたらまたやられるぞ」
村上の対面に座る金髪の 生徒、広長が言った。
「山田なんて気にもならないよ」
春樹の言葉に三人が笑う。
「強がるなよ。春樹」
小柄で坊主頭の下館が言った。あだ名は栗。
この広長と下館が村上の子分で常に行動を共にしている。
「春樹を馬鹿にすんなよ。やる時はやる奴だ」
村上の一言で二人はそれ以上何も言えなくなった。
村上とは一応幼なじみだが、あまり親しい付き合いはない。
村上の近くにいると、必ず揉め事が起こるからだ。
普段は硬派で正義の番長だが、 一度火がつくと凶暴な怪物に変身する。
そうなれば誰も止められない。
中学の頃、村上は高校生五人を倒し、一躍有名人となった。有名人となった日から村上は毎日向かってくる敵を倒していった。
さらに他校に殴り込みをかけ勢力を拡大し、高校一年の頃にはこの街の番長と呼ばれるようになっていた。
そして、村上会と呼ばれる組織を立ち上げた。その組織の構成員は五十人もいる。
この街に残る反抗勢力はこの高校の三年達のみで、今まで不思議と衝突していない。おそらく三年達が衝突を避けているからだろう。
この時はまだ、春樹はそう思っていた。
「儲かってる?」
玉木が村上に話しかけるしぐさから、気を使っていることは誰の目にも分かる。
子分はもちろん、この学校の生徒は皆そうだ。
春樹もその一人。
教師たちでさえ村上に圧倒されている。
唯一、対抗できるのは山田だけだ。
「玉ちゃんもやるか?」
村上がかすれた声を出す。
「いや…俺は賭け事は苦手で…」
その声だけで畏怖し、玉木は冷や汗が出てきそうだ。
そして春樹に目をやった。
「直ちゃん、今日は早いな」
春樹が助ける。
玉木はすかさず、
「そうだよね」と話題を逸らした。
「三年に呼び出されてな」
手を動かし、トランプのカードを配りながらかすれた声を出す。
嫌な予感がした。
村上が屋上に現れることは珍しい。昨日までは安全な場所であった。
村上が勝負の場に選ぶのは決まって運動場の隅にある部室の裏だ。
だが三年がここに呼び出したのなら、もしかすると…。
「ついに中山を倒す日が 来たんだ」
子分、広長がニヤリと笑う。
予感は的中しそうだ。
「いつ?」
春樹は危険を察知し、村上に尋ねた、その時だった。
勢いよくドアが開けられ 、春樹はその音に驚き、 振り返る。
「村上!」
いきなり茶髪の男が大声を出した。
白いロングTシャツ、ゆったりとしたダメージジーンズ、首にシルバーのネックレス、細身で身長はそれほど高くない。
髪はショートで日光に当たると、より茶色く染まる。ヤンキーというより、チーマー風。その男の後ろから学生服姿の三年が五人出てきた。
その中に中山がいた。
「何だよてめぇ。助っ人呼んだのか」
村上が椅子から立つ。そしていきり立つチーマー風の男を睨む。
「お前誰だ?」
チーマー風の男はそう聞かれると村上に歩みよる。
二人の距離が縮まる。そして後ろの五人も歩いてくる。
春樹の前にも来た。玉木の前にもだ。
「マジかよ…」
玉木が弱々しい声を出す。
仲間だと思われたのだ。中学の頃から村上といると何度もこういう目に遭った。だからこそ避けてきたのだが。
下館や広長もそれぞれ目の前に来た三年を睨む。
春樹はなるべく村上のほうを見て目の前の敵から の視線を逸らした。
このような状況を慣れることはできない。登校して間もないのに、こんな事に巻き込まれるなんて。
今日の星占いは最下位なのだろう。
春樹の前に来た三年は自分とさほど変わりない体格だった。
だが、どんな相手かも分からない。見た目より強い人間はいくらでもいるだろう。
それでも、相手に恐れて逃げ出す醜態は晒したくない。弱い気持ちを必死に抑え、強がりで睨む。
しかし、やるしかないと自分に言い聞かせるが、
足は震え、手は力が入らない。
玉木は下を向いて視線を逸らしていた。玉木も春樹と同じだろう。
緊張で胃が痛む。汗も滲んできた。
恐れるな、と何度も心の中に唱える。
村上を見ると、さらに二人の距離が縮まっていた。チーマー風の男を盾にするように、男の後ろに中山がいた。
「村上、てめぇも今日で終わりだ」
中山は自信満々といった ような表情をしていた。 チーマー風の男は変わらず村上を睨む。
ついに衝突する時が来たのだ。まさか自分がその場にいることになるとは。
「誰だか知らねぇけどよ、息がクセーよ、てめぇ 」
だが、一瞬で村上の勝利が決定的になる。
村上がそう言った瞬間、 チーマー風の男の顔が鈍い音と共に潰れた。村上の拳が直撃したのは鼻。強烈な右ストレート。
完全に潰れた鼻から血が吹き出る。男はあまりの速さに何が起こったのか理解できていないようだった。
「えっ?あれ?」
今度は動揺するチーマー風の男の腹に強烈な左足の蹴りが入る。
男はうめき声を出して、胃の中の物を出しながら倒れた。屋上のコンクリートに血と汚物を撒き散らした男を見ながら村上は鼻で笑った。
凄まじい光景を目の当たりにした他の者達の時間が止まる。
強すぎる。
まさに怪物。
春樹も全身の血の気が引いていくのを感じた。 村上の時間だけが進行しているようで、中山に歩み寄る。
中山の顔はすでに青空に照らされたかのような色になっていた。
ゆっくりと鋭い眼光の怪物が歩み寄る。
ますます青くなる中山。 口をパクパクと開き、全身は震えている。
二人の距離が縮まる。
もはや射程圏内で逃げようがない。
「覚悟しな」
マッハパンチが中山の顔面に迫った。
しかし、村上の拳は空を切った。
間一髪、恐怖のあまり腰を抜かして姿勢が低くなった為だ。
直撃を避けた中山は倒れてしまい、動くこともできないようだった。春樹は内心、安堵した。 あの拳の威力は岩をも破壊するかも知れない。
偶然とは言え、中山には直撃しなかった。
どんなに嫌いな人間でも、悪い人間でも、チーマー風の男と同じようになるのは見たくないと思ったからだ。だが、村上は容赦なく中山を踏み付け始めた。
中山のうめき声が響く。 何度も踏まれた顔は血だらけになり、制服は汚れで白くなっていく。
中山の仲間達は恐怖のあまり動けず、ただ踏まれるのを見ている。
止めないと。止めないとマズイ。
何度も、何度も踏み付ける村上。子分達も動けない。
玉木は見ないように背を向けている。
うめき声が小さくなる。
だが、それでも鈍い音は続く。村上の鬼の形相が中山に向けられている。幼い頃から村上は危険だった。
育った環境が悪いわけではない。
優しい両親に大事に育てられていた。
なぜ、そんな風にできるのか。
春樹は幼い頃から、村上に対する疑問を抱いている。
前に出ることを拒む足に力を入れる。
自分が何とかしなければ。
村上は中山を死ぬまで踏み付けるかも知れない。
中山はすでに虫の息だ。 早く何とかしなければ。
全身力を入れて、気合いを入れる。先程のような恐怖はない。
少し、心にあるのは村上に対する怒り。
そこまで、なぜそこまで できる?
本物の怪物か?お前は。 ブレーキを一気に外して村上に突進する。
何も考えない。
村上が大きくなってくる。
何も考えない。何も考えるな。
村上が春樹に気付き、鬼の形相のまま視線を向ける。
「春樹?」
距離が縮まる。
「春樹!やめ…」
勢いに任せて村上を突き飛ばし、中山の体を飛び越す。
倒れた村上の上に乗り、 腕を抑えつけた。
「もういいだろ、直ちゃん。あいつ死ぬよ」
倒された村上が鋭い視線を下から送る。
「春樹」
村上が立ち上がろうとする。
「もういいって!」
必死に抑える。
二人はしばし睨み合った。
だが、根負けした村上は力を抜いた。
「悪い。春樹」
春樹はその言葉を聞いて、立ち上がり、頷いた。 全身の力を使い切ったせいか、一気に怠くなる。 そして、自分でも信じられない行動をとった事に驚いた。
村上がゆっくり立ち上がる。
「おい、仲間連れて消えろ」
村上が時間の止まったままの三年達にそう言うと、倒れた二人を起こして 屋上から去って行った。
村上も、何も言わず屋上から去って行った。その後を子分達が追う。残された玉木と春樹は呆然としていた。
「春樹、大丈夫か?」
玉木が心配そうに見ている。
「大丈夫だよ」
「凄かったな。やっぱ怪物だぜ。それにしても、俺達運が悪すぎたな。今度から体育館にしようぜ。屋上はやべぇ」
玉木の言う通り、屋上はやめておこう。
「お前も凄いな。あの村上を倒すとは」
「凄くないさ。足が震えて止まらない」
ガクガクと足が小刻みに震える。
気がつくとインナーのシャツは汗びっしょりだ。 まだ登校したばかりだというのに、かなり疲労した。
もう授業など受ける気もない。
「俺、帰るわ。もうだめ…」
「俺も帰る…昼飯食いに行かね?」その時、ドアの前に立つ 女子生徒が見えた。
肩までの黒髪、スラッと伸びた白い足、顔は小さく目に力がある。
同じクラスの唐木ソナだ。
春樹のほうを見ている。
が、すぐにドアを開け校内に入って行った。
「唐木。春樹と同じクラスだろ?」
「ああ」
「可愛いな!あいつ一年の頃に比べたら別人じゃん」
玉木に笑顔が戻る。少し前に修羅場に遭遇していたにもかかわらず、 女の事になると気力が出る玉木を羨ましく思う。
今はそんな気力が少しも残ってない。
「そう思わないか?」
確かに。と、頷いて返事する。
「可愛いなぁ。でも、男できたんだろうな。だからあんなに変わるんだよ」
そんな事は今どうでもいい。と、頷いた。
「いいなぁー。誰か可愛い娘いないかなー」
もはや、玉木には先程の光景も恐怖感も消えている。
羨ましい性格だ。
「あいつ、屋上にいたのかな?」
玉木が屋上を見回す。
「俺達以外に人がいたなんて気付かなかったな」 「周り見る余裕もなかったし、来てすぐ修羅場だったからな」
春樹は重い体を無理矢理動かせ、歩き始めた。
「確かに。今日は運が悪い。こんな日は帰るのが一番だな」
春樹も同感。と、頷いた。
「あっ、でもさ今日お前の星座一位だったよ。朝見た」
「嘘だろ。これで一位なら明日はもっとやばいって事かな」
普段あまり気にしない春樹も、今は本気で占いの事を考えた。
「どこが一位なんだよ。お前の見間違いだ」
「いや、確か一位だったよ。何だったかな。確か…宝物が見つかるだったかな」
もういいと首を振り、入口のドアを開けた。その日は、そのまま学校を出て、ファーストフードで昼食をとり帰宅した。
疲れたせいか夜中まで眠っていた。
次の日、夜中に目を覚ましたおかげで久しぶりに 時間通りに登校した。 騒がしい教室に入ると玉木と同じクラスで仲間の原田が話していた。
原田と玉木と春樹の三人は中学の頃から連れている仲間で、今も一緒にいる。
坊主頭の原田はサッカー部に入っているため学校以外では一緒にいることは少ない。
「あれ?珍しいなぁ」
「雨降るぞ」
二人が笑顔で春樹を迎える。
「たまにはな。あれ?席替えしたか?」
玉木たちは廊下側の一番後ろの席にいた。一昨日までは、真ん中の列の一番後ろに原田、廊下側の列の一番前に春樹の席があった。
「ああ。昨日席替えした。お前のくじは俺が代わりに引いた」
原田がニッコリ笑う。昔のあだ名は地蔵。今もそれは通用するだろう。
「いい所でなかったら恨むぞ」
と言った瞬間、二人が顔を合わせた。
「何?」
「春樹様の為に最高の席を用意しております」
二人が声を合わせる。悪戯好きの二人の笑顔を見て不安になった。
「まさか、また一番前か?」
その時チャイムが鳴った。
「じゃ、俺行くわ!」
玉木が笑顔で去って行く。
「どこだよ?俺の席」
原田が指を指す。
「窓側の後ろから二番目」
「おお!でかした原田!」
原田の肩を叩き席に迎う。
やっと目立たない席になった。寝れる、漫画、弁当、お喋り、なんでもできる。
一番前にいたころもやってはいたが、鬼の山田の 社会の授業だけは一時間 の退屈を耐えねばならなかった。
今日はその社会が三時限目にある。
ほとんどの生徒が席についていたが、春樹の隣り の席の生徒だけ、まだ席についていない。
隣は誰だろう。
男子の生徒なら誰でも気軽に話せるが、女子の生徒なら限られてくる。中学時代一緒だった生徒とは話せるのだが、高校から一緒になった女子生徒とはあまり話せなかった。
もし、そうでも前にいる 小太りの男子生徒、寺前 がいる。後ろには中学時代から一緒の女子、康子がいる。康子は春樹より身長が高い。幼い頃、相撲をして負けたことがある。
最近は外見に気を使っているのか眉を細くし、昔は短かった髪も今は肩にかかるほど伸ばしている。男勝りな性格から変身し、しぐさや話し方も女性らしくなった。
もともと整った顔立ちだったので、昔とは見違えるほど可愛い。
噂では他の学校の生徒と付き合っているらしいのだが。
「春樹、オナラだけはやめてね」
後ろから声がした。
「寝てたら自然に出るかも」
「やめてよ」
康子が笑う。
前の席の宮前の背中をシャーペンで突く。
宮前が振り向く。
「オナラだけはやめてね」
弛んだ頬を引き上げるように苦笑いし、無言で前に向き直る。
男子とは言え、宮前とはあまり楽しい会話はできそうにない。
それでも康子がいる。
隣の生徒を気にするのをやめて机に伏せた。
昨日の光景が目に浮かぶ。
中山は大丈夫だろうか。 あのチーマー風の男も。たぶん今頃耳鼻科に行ってるだろう。
よく見てないが、鼻の潰れる鈍い音がしたのだから普通ではすまないだろう。
もしかしたら一生元に戻らないかも知れない。
あんな音は二度と聞きたくない。
あんなことをできる村上が信じられない。
信じられないと言えば、 村上を突き飛ばした自分の行動もそうだ。
なぜ、あんな事ができたのかよく覚えていない。怒りなのか。
それに近い感情はあった。
でも、二度とあんな事はできないだろう。
思い出すだけで震えがする。
そういえば、屋上にいた唐木ソナは何をしてたんだろうか。
彼女の色白い脚が目に浮かぶ。
そして力のある目と整った顔。キレイな肌だった。同じクラスにいながら、彼女があんなに変わっているとは気付かなかった。
一年の時は別のクラスだった。
その頃の印象は真面目なお嬢様という感じだった。特に何も思わなかった。
昨日見た彼女は玉木の言う通り、別人だ。
なぜ、今まで気付かなかったのか自分でも分からない。唐木ソナ。確かに可愛い。
そう言えば玉木が何か言ってた。占いだったか。
宝物が何とか…。
教室の戸が開き、担任が入ってくる音がした。
「起立」
甲高い声の委員長が言う。
康子が背中を叩いて、
「ほら立って」と言う。
慌てる事なく起立をし、 礼をして着席した。担任の高瀬先生がホームルームを始める。
少し白髪が混じり、最近はかなり薄くなった高瀬先生。
大人しい性格の先生だ。
このクラスの中の問題児 は春樹だけだが、他のクラスなら苦労することになるだろう。
声が小さくよく聞き取れない事が多い為、生徒の評判はよくない。服装やしぐさからも、未だに独身なのも納得できる。
高瀬先生から外の景色に 目を向けようとした時、 隣に誰かが座っている事に気がついた。唐木ソナだった。
昨日よりもかなり近い距離で見る彼女。
色白で、いい香りがしそうだった。
確かに、確かに玉木の言う通りだ。
一年の頃とは違う。
大人な感じがするし、色気がある。
なぜ、なぜ今まで気付かなかったのだろう。白く透き通りそうな白い肌にはニキビもない。 化粧ではなく、素肌なのに。髪も綺麗に整っている。
横顔から見る鼻は高くはないが形が良い。
そして、どこよりも目がいってしまうのは薄い唇だった。
何も考えず、ただじっと彼女を見ていた。
なぜだか分からない。
ただ見てしまう。
まるで彼女の席だけ、スポットライトが当てられているかのように、周りの風景は視界から消えていた。
唐木ソナを意識してしまうようになったのは、この時からだった。
「春樹。春樹。春樹ったら」
気が付くと康子が背中を叩いていた。
「えっ?」
「これ。原田君から」
康子から手渡されたのは ノートの切れ端だった。
そこには汚い文字で、(携帯見ろよ)
と書かれていた。
ポケットから携帯電話を取り出す。
メールが一件入っていた。
マナーモードにしていた為、着信するとバイブレーションで知らせるのだが、気付かないほど唐木ソナに見とれていたらしい。(良い席だろ?)
すかさず返信した。
(素晴らしい。愛する友よ。礼を言う)送信。
原田を見ると原田も春樹を見ていた。
唐木に見とれていた姿を見られていたかと思うと 恥ずかしくなった。
原田にメールが届いたらしく、原田が親指を立てた。そして満面の笑みを浮かべた。そして、前よりも控え目に唐木を見る。
しかし、視線を感じたので原田を見た。やはり原田が春樹を見ていた。手で口を押さえながら笑っている。
春樹の姿を見るのが楽しくて仕方ないようだ。そして口から手を外すと、口パクで(スケベ)と言った。
春樹はメールで(友よ。 心配するな。俺はお前のものだ)と送信した。
数分後、そのメールを見た原田は爆笑して大人しい高瀬を怒らせた。
「やられたよ」
原田がパンをかじりながら言った。
「俺で遊ぶからだ」
春樹はカップ麺を食べて いる。
昼休みの体育館は春樹達の他に数人の生徒がバスケットをしていた。
いつもなら屋上に行くのだが、行く気にはなれなかった。
今まで村上達は昼休みも野球部の部室で過ごしていたが、昨日のようにケンカする為に屋上に来る可能性もある。怪物に遭遇するのはもうたくさんだ。
「昨日はマジでヤバかったんだよ」
玉木はコンビニ弁当を食べている。「マジ死ぬかと思ったぜ。なっ春樹」
「やばかったよ。チーマーみたいな奴なんか鼻が潰されてたんだ」
原田は痛そうな顔をした。
「マジかよ…俺もサッカーボール当たった事あるけどさ、死ぬほど痛いぞ」
「鼻はな…痛いよな」
三人とも痛い顔になった。
「でも、春樹もやるよな。村上に向かってくなんて。しかも、村上は春樹の言うことに従ったんだ」
玉木が箸を動かしながら 原田に説明した。
「そんなんじゃないよ。 俺も小便漏らしそうになるほどビビってたんだ。 あん時はその…何て言うか…あんまり覚えてないんだ」
春樹の箸が止まる。
「でもよ、凄いよ」
「そうかな…」
それから三人の話題は唐木ソナになる。
まずは玉木。
「見てた?やっぱりな。春樹のタイプだもんな」
続いて原田。
「見てたじゃない。見とれてた。あれはヤバイね」
最後に春樹。
「そんなに見てたか?でも確かに…」
二人の顔が近くなる。
「確かに?」玉木。
「可愛い?」原田。
「好き?」玉木。
「大好き?」原田。
「好きって言って!」玉木が気持ち悪い声を出す。
「好きだって言ってよ!」原田が続く。
「うるさいよ。何でもない。早く食えよ」
春樹は二人を無視して麺をすする。
「春樹」
突然、誰かが声をかけてきた。その方向に目をやると、金髪の生徒がポケットに手を突っ込み、怠そうに歩いて近付いてくるのが見えた。
広長だ。
広長と言えば村上。
嫌な予感がした。
三人とも固まる。
先程までの楽しい空気が一瞬にして変わった。
玉木は弁当を食べながら 顔を伏せて広長と目を合わせないようにしていた。
原田も同じ。
「何だ?」
少し脈が早くなった。
「お楽しみのとこ悪いんだけどよ、部室に来てもらえねぇか?」
部室。
その言葉を聞いた玉木は 少しむせた。
春樹の脈も加速した。
昨日の出来事が目に浮かぶ。
潰れる鼻の音がリアルに甦る。
村上を止める為とはいえ、突き飛ばしてしまった。
屋上から去って行く村上の制服は背中が少し汚れていた。
あの時は何も言わなかった村上だが、その後に恥をかかされたと思ったなら、仕返しを考えるかもしれない。
春樹の頭に様々な憶測が浮かびあがる。
「春樹?」
広長が現実世界に引き戻してくれた。「えっ?」
「村上が呼んでる」
「あっ…そうだな。行くよ」
カップ麺を原田に渡して 立ち上がる。
原田が心配そうに見ている。
玉木も心配そうだ。
「じゃ、行ってくる」
二人を残し、広長の後を歩いて体育館から部室に向かう。
二日連続で心臓に負担が かかる。
だが、昨日よりも全身の脈が速い。
悟られないよう平静を装ってはいるが、倒れそうになるほどの緊張感が襲ってくる。
出口付近で後ろを振り返る。
玉木と原田が見つめる。
そして、二人は死を覚悟した兵士を見送るように 敬礼した。
二人の気遣いにも、笑うことはできなかった。
部室の扉を開けた広長の 後に続いて中に入る。
窓から射す光りで、室内に漂う煙りの流れが鮮明になる。
タバコの臭いと、土の臭い。それに道具の臭いが 混じった独特の臭い。
道具などはきちんと整理されている。
狭い室内の奥に、どこから持ってきたのか黒い革製のソファが置かれていた。
村上はそこに座っていた。
平静を装ってきたが、一気に崩れそうになる。
今は誰かに触れられるだけで飛び上がりそうだ。 恐る恐る村上を見る。
だが、表情からは何を考えているのか読めなかった。
「春樹連れてきた」
「おう。お前とシモは外してくれ。春樹と二人で話しがしたい」
「分かった」
二人が出て行く。
獣と檻の中で二人きりになった。
「春樹。まぁ座れよ」
村上が椅子を指さす。
教室にある椅子だった。 震えそうになる足を何とか動かせ、椅子に座る。 村上がかなり近い場所に来てしまった。
どうなる。どうする。
緊張感がさらに春樹を襲う。
もはや限界は近い。
「どうした?風邪でもひいたか?」
村上の声から、怒りはないようだった。
春樹を見る目も、普通の時のようだ。
「いっいや…別に…何でもない」
手の汗をズボンで拭う。 「そうか」
村上がタバコの煙りを上に吐き出す。
「用…って何かな?」
勇気を振り絞る。
どうなるにしても、村上の考えていることがハッキリとしたほうが楽に思えたからだった。
村上はタバコを吸いながら深刻そうな表情をした。
そしてゆっくり煙りを吐き、灰皿で消す。
深刻な表情のまま、下を向いて沈黙。
しばらく沈黙した後、ゆっくりと話し始めた。
「お前に頼みがある」
頼み?予想していた事とは全く別の展開に驚いた。
「た…頼みって?」
村上は変わらず下を向いたままだ。
「昨日な、お前らが屋上に来る前に一人で屋上に来た奴がいてよ。そいつ を見た時…その瞬間…何つーか…ここを打たれちまってよ」
村上が自分の胸を叩く。
「俺はな、今まで女なんかに興味はなかった。毎日ケンカして強くなる事しか考えてなかったんだ。だけどよ、昨日見た女は…その…女によ」
村上が頭を撫でる。
昨日、屋上、女。
まさか…。
「その女によ…俺、惚れちまったんだ!」
室内に響く村上の声。
真剣で、少し弱々しい眼差し。
昨日とは別人の村上。
何年ぶりだろうか。こんな村上を見るのは。
最強番長と呼ばれるようになってからは初めてだろう。
屋上にいた女。
春樹より先に来た女。
それは一人しかいなかった。