月に咲く花
影が、歩く。
もう、窓なんか開けてる家なんてない。
晩秋の月夜。
気晴らしに覗いた外を、歩く影。
街灯に、左右を互い違いに、ぬかれながら、何者でもなく影が歩く。
外に出たい。
夜と月の中に。
フワフワと歩く影を追い、ついて行きたい。
影が、影に呑まれ消える。
線路脇を月見草の香りに包まれて歩いた記憶が、よみがえる。
翌朝、母に、聞く。
あれは、小学生の頃かどうか。
背中を向けたまま、覚えていないと言った。
弁当を忘れないでよっと、重ねられただけだった。
影がクルリと回る。
夕べが満月だったから、まだまだ丸い月が、上がる。
あの線路は、もう使われていない、工場への搬入用のだった。
母から、無理やり聞き出せたのは、それぐらいだった。
「そこには、もう、線路は、無いのよ。
外されてしまってるから。」
でも、月見草は、と、聞く。
「あれは、雑草だから。」
話は終わった。
月が、真上。
トイレに行くふりをして、玄関を抜ける。
影になり、花の香りを探す。
廃工場は、近い。
月の冷たい明かりが、心地よい。
影に自分を重ねて、静かな心臓のリズムを、足音に移す。
立ち止まって、周りを見ると、住宅街の静けさが、空気を冷たくしている。
人は居るがいない。
暮しはあるがない。
窓の灯りだけが、命の証し。
影が濃くなる。
薄雲から、月が出たのだ。
砂利で盛り上がった小道に出た。
花の匂いが強い。
月見草の最後の香りを嗅ぐ。
花は永遠に、咲くわけではないから。
小道に、並ぶように咲く月見草。
砂利の音を、たてないよう、影と歩く。
あの日、線路の上で、見たのは。
月と、影になりかぶさる母。
手をつなぐでもなく、話すでもなく、幻の線路を歩く影。
次の満月の夜、同じ道を歩く。
すっかり、冬。
月見草は、もうない。
だが、廃線の上には、香りだけが、漂っている。
月に誘われる散歩は、季節を巡るが、影には月見草の芳香が染み付いていた。
あれから、何度か水をむけたが、母は、あの月見草の線路の話を、しない。
母が、死んで、三回忌。
母方の叔母に、聞く。
あの時ね、と、言う。
覚えてるなんて、業ね、と、ため息をつく。
次の休み、叔母の家に、行く事になった。
日曜日の午後、叔母は、話始めた。
「お父さんも、亡くなってるから、良いわよね。」
と、前置きしてから、話し出した。
母には、好きな人が居たが、父が、割り込んだ。
仲人をたて、母の実家にねじ込んだのだ。
おとなしく、母は、嫁いだ。
「元々自分の考えを外に示さない姉だったからね〜。」と、叔母がため息をついた。
日々は過ぎ、俺が生まれた。
小学生だと思っていたが、あの記憶は3歳の頃らしい。
母の好きだった人が、結婚した。
「でも、先に結婚してたのは、うちの母ですよね。」
「女心は、わかんないもんよ。
たとえ、姉妹でも。」
母の生活が、変になっていった。
その頃父親は、出張ばかりで、ひと月に10日ぐらいしか居ず、母のゆっくりした変化には、気づかなかったらしい。
「無理よね〜。あの頃は家に、帰れない企業戦士だらけで、今みたく、家庭サービスなんてなかったし。」
ウンウンとうなずく。
「メシ、フロ、ネル、の、世代だもの。」
母は、不安定になり、俺は小汚くなっていった。
暴れまわる3歳児なので、汚すのが仕事だと、誰も気づかなかったのだ。
「とにかく、変だと、分からなかったのよ、身内は。」
隣のおばあちゃんが、気づいてくれて、何かの折に、叔母さんの耳に入れてくれた。
が、ガンとして、母は口を割らず、夜中、俺とフラフラ歩いていた事を認めなかった。
そんな時、弟の妊娠がわかった。
それを足がかりに、死んだばあちゃんも叔母さんも含め、身内の女達が、入れ替わり立ち代り、母の面倒を見た。
「妊娠の時って、まあわからないでしょうけど、なんか変になるのよ、女って。」
弟が、生まれ、小綺麗になった俺は、ハシャギまくっていた。
母も産後の肥立ちもよく、落ち着いていた、ある日、姉妹は二人きりになった。
「死にたかったらしいわ。」
彼の結婚と妊娠初期の不安定さに、心が、引っ張られていたのかもと。
結婚前に好きな人がいたのを初めて聞いて、びっくりしたが、本当にただの憧れだった。
「でもね、そんな恋の方が、怖い時もあるのよ。」
母はついてくる俺を待つでなく置いていく事もせず、漠然と線路の上を歩いて行ったらしい。
「知らなかったのね。その頃はもう、ディーゼル車なんか通らないし、工場へは、トラックが荷物を運んでいたのよ。」
いくら、線路を歩こうと、死の貨物列車は、来なかったのだ。
あの日、蘇った月見草の匂いが、ふわっとしたようだった。
「それだけ。姉がただ一回、死にたかった夜が、満月と月見草と、線路だったのよ。」
晩年、仲の良かった両親からは、計り知れない。
あの時、月夜の散歩に、さそう影をみたのは、何処かに、死への憧れが芽生えていからかもしれない。
話は、昔話から、法事の時の話、今の話と、転々し、自然とあるべきところに収まっていった。
「今日はありがとうございました。」
「こんな話でも、良かったのね。」
叔母の家を後にした。
いつの間にか、三日月が、掛かっている。
影は、付いて回る。
だが、怖くも寂しくもない。
影は、影なのだから。
今は、ここまで。