一般的な日常
朝から忙しく波乱の時間を終え、学園へと足を踏み入れた。
あまりの当たり前の日常に、夢だと疑いたくなるほど生徒の喧騒が耳に届いてくる。
「ギャップがありすぎるな」
こんなのが毎日続いたら、その内区別がつかなくなりそうだ。ため息交じりの息を吐きつつ、こっちが当たり前の日常だと噛みしめながら靴箱に手を掛ける。
すると、人の背中を叩き、
「おっはよう縁!」
ギャップの一つに同じクラスの山寺幸一も加わった。林檎と行動を共にすることが多い俺に声を掛けてくる数少ない友人。
「おはよう」
「今日は一緒じゃないんだな、相方」
「いい加減そのあだ名を広めるの止めてくれないか?」
「悪かったとは思うけど、もう無理だろ。林が……あいつがモテるという事実が消えない限りな!」
突然人を呪い殺しそうな口ぶりで憎々しく事実を受け止めている。余計な慰めは火に油を注ぐだけになるので、放ったらかしにして一緒の教室に歩き始めた。と、すぐに、
「縁さんっ!?」
俺を呼ぶ男性教師が割り込んできた。
「どうかしました? 風見先生?」
「いや、それがね……」
風見先生は歯切れが悪そうに視線を泳がす。
「また來稑君が問題を……」
風見先生は申し訳なさそうに愛想笑いをしてみせる。風見先生の立場からすれば生徒同士のいざこざを放り出し、ましてやその喧嘩を生徒の一人に止めるよう頼みに来るのは聊かバツが悪いのだろう。
「林が? あれ、縁止めるように言ってなかったっけ?」
「言ってはあるけど、守るような人間ではないでしょ林は……」
「そうか……?」
呆れたように幸一が言ってくるが、林檎が俺の言うことを聞くのはその場限りが多い。大概は忘れるかとぼけるかのどっちかだ。
「それでどこで?」
「…………二年Aクラス」
俺と幸一は顔を見合わせる。そのあと小さな沈黙が訪れた。
そして、
「………………俺たちのクラスね」
「………………またか」
幸一と自分たちのクラスまで近づくと騒がしい声があちこちから聞こえ始めてきた。そして壁になるように生徒たちが野次馬で集まっている。
「き、君たち通してくれ。Aクラスの子が教室に入れないだろ」
弱弱しく風見先生が道を確保しようとしてくれるが、面目は守れていない。この状況で教室に入れないだけの理由では道を開けさせる必要は薄いし、問題を解決しろと生徒から言われないのが不思議なくらいだ。それも面白半分でいる野次馬だけだろうから気にしていないのだろう。
俺は野次馬の視線を無視し、状況に合わせて林檎を止める準備に入る――つもりだったのだが、俺の目に場違いな登場をしようとしている生徒がいた。
「マズい!?」
教室と廊下は窓が付いている壁で外の確認はできたはずなのに、白銀の後ろの扉から小柄な女子生徒が出てきてしまっていた。重要な用事があったにしろタイミングを完全に間違っている。林檎の拳は当たらないとはいえ、巻き込まれれば怪我をする可能性がある。白銀は林檎に意識が行きすぎて気づいていないようだ。
「あっ」
林檎の突進に気が付いても驚いて女子生徒はそのまま膠着して動かない。
「――ったく!」
本当なら声を掛けるだけでよかったのだが、万が一林檎が止まれないと困る。仕方なく俺は飛び出して林檎の服を力いっぱい掴んだ。
ビリビリっと小さな被害音が聴こえる。林檎を止めるのに中途半端な力じゃ、俺の体ごと持って行かれてしまう。
「誰だこらっ! ……んぁ、なんだ縁か」
ようやく林檎が俺の存在に気付いて止まってくれた。
そして、
「おや」
白銀も俺が止めに入った理由が分かったようだ。後ろを振り向きその女子生徒に近づいていく。まぁ、そっちの後処理は任せることにする。
「林、窓際に立て」
とりあえず目立ちすぎているし、処理をするにはこの場に林檎がいない方がいい。今は白銀に目が行っている白銀派女子もこっちに気が付いていないから静かなもんだが、白銀の処理が終わったら五月蠅くなるのが目に見えている。
「??? 構わねぇけど、なん――」
喋らなければよかったのに、林檎の声に反応して白銀派女子がこっちを睨み始めた。さっさと処理した方がよさそうだ。
「頭冷やしてこい」
窓際に林檎が立った瞬間、上体を押し、足を引っかけた。
「「「「「「「「「「「「「「「「「「「「!?」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
野次馬から教師まで関係あるなしに関わらずその光景に、言葉を失った人達が二階から落ちて行く林檎を見送った。
暫くして廊下も教室も落ち着きを取り戻した頃、一人の女子生徒が俺の席を訪ねてきた。
「あ、あの結縄君」
その顔見知りの女子生徒は中学時代からのクラスメイトで名前は天柚葵。意外と付き合いが長かったりするが、あまり話をしたことがなかった気がする。
「なに?」
「あの、さっきは、あの、ありがとうございました」
「ああ、気にしなくていいよ」
思い起こしてみれば、さっき林檎の喧嘩に巻き込まれそうになった女子生徒は天柚だった。わざわざ礼を良いに来たらしい。俺の周りでは珍しく礼儀を知った人間だ。
「でも助けてもらいましたから」
「わかった」
そう言われれば素直に礼を受け取った。が、礼を言ったはずの天柚は自分の席に戻ろうしない。
「あの、」
「なに?」
「それで、お礼を……」
「聞いたけど?」
「いえっ、そうじゃなくて、えーと」
なにやらもどかしい雰囲気で言葉を出しきれないでいる天柚の後ろに妙な影が近づいてくる。俺は天柚に少し横にずれた方がいいと合図を送る間もなく、にゅっと幸一が顔を出した。
「バカだなぁ、縁は葵ちゃんの好意が分からないのかい?」
突然の乱入に天柚が距離を離したのが見えた。正しい判断だ。
「強いて言うなら幸一の方が分からないけど」
天柚は身長が小さく、髪は短く揃えられていて幸一が好むタイプの少女だ。さらに言うなら数人の男子をフッたことのある女子でもある。その男子の一人に幸一も含まれていたはずだ。
だからこそ、
「つまり俺たちと昼飯を一緒に食べたいってことじゃないか」
「違うだろ」
天軸は幸一が会話に参加してから離れた距離をさらに移動した。
「天柚」
「あ、はい」
「忘れていいよ。もともと林が悪かっただけだし」
「あ、でも」
渋っている天柚にできるだけ逃げ道は作っておいた、後は天柚の判断に任せるしかない。
「葵ちゃんが困ってるだろ。素直に昼飯をだね」
「それより、幸一にさっき聞きたかったことがあるんだけど」
「だからね昼飯を」
「ついでだから、天柚にも訊いていいか?」
ま、それが礼代わりぐらいに思ってくれると助かる。このままだと幸一が邪魔だ。
「あ、」
どうやらその意味は天柚に伝わったようだ。俺にしかわからないように小さな笑みで返してくれる。
「それで聞きたいことって言うのはなんでしょうか?」
「あ、あれ葵ちゃん?」
「ああ、髪が長めで確かこのぐらいで縛っているような女子って知らないか?」
「女の子ですか……」
俺は林檎と喧嘩していた女子の髪型をジェスチャー交じりで教える。確か、首辺りで髪を細く束ねていた。
「ん、天柚?」
「え、あ、ごめんなさい。ポニーテールですか?」
「厳密には違うよ葵ちゃん。ポニーテールは後頭部辺りだ。縁が言ってるのは首付近だから、ポニーテールじゃない!」
昼飯を諦めたと思ったら力説し始めた。
「それで幸一は心当たりあるか?」
本格化する前に無視をする。
説明途中だったらしく物足りなそうな表情をしてくるが、無視してよかったと心から思う。女子の髪型を知ったところで意味がない。
「髪型だけで分かるわけないっしょ。髪が長いってことは髪型なんていくらでも変えられるし、そもそもこの学園の女子かも分からないし」
「そうだな。説明が足りなかった」
元はといえば幸一の昼飯勧誘に静止を掛けるために説明途中だったのだが、余計な事はこの際忘れよう。
「この学園かは分からない。というより、年齢も素性もこの街に住んでいるのかさえ不明。分かっているのは林檎と朝から喧嘩をしていて、何かしらの格闘技をしている。あとは身長が俺と同じくらいか少し低いってとこだな」
さすがにこの程度の情報じゃ幸一でも分からないかと思ったが、幸一は何かぶつぶつと呟き始めた。
「長い髪、格闘技、縁と身長が似ている……」
「あの、縁君」
幸一が考え込んでいる間に天柚が声を掛けてきた。その態度はどこかよそよそしさを感じる。それも、今に始まったことじゃないから気にとどめない。
「その女の子とはどういう関係なんですか?」
若干の威圧が感じられるが、
「林檎の喧嘩相手と、落し物を落としている可能性がある相手かな」
「え? あ!?」
不足部分を説明すると、顔を真っ赤に染めながら丁寧すぎるお辞儀を高速でし出した。
「ご、ごめんなさい」
その姿に感じられた威圧的な態度が消えている。
「別にいいけど、何かあるの?」
何か思い当たる節があるのかと思ったが、
「わわわわわ忘れてください!」
慌てた様子で否定された。
「もしかして、林檎といい勝負だったとか?」
今度は意味ありげに幸一が尋ねてきた。
「互角はないかな。あのまま勝負が続いていたら十中八九林檎が勝っていた。……でも、隙を俺が作らせたとはいえ林檎に一発入れた相手は久しぶりだったかもしれないな。ま、俺が知っている限りだけど」
「ああ、それもしかするとうちの女王様かもしれない……」
「女王?」
「もしかして、緋衣さんですか?」
俺は初めて訊く名前だったのだが、天柚も心当たりがあるようだった。
「ええと、なんていうか……」
でも歯切れが悪い。その理由は幸一の説明で分かることになった。
「まぁ葵ちゃんが言い辛いのもしかたないね。よし、俺が説明しよう」
林檎が寝ている間に終わらせたい。話を聞いて思い出したら機嫌が悪くなる。
「うちの学園の三大美少女の一人緋衣月華、またの名を『氷の女王』。うちの学園の男子に限らず他校の生徒をフる数底知れず。さらには、男をフり続けそれを逆恨みに襲い掛かった男を一刀両断―――」
途中から芝居掛かった口調を聴ききつつ、必要な部分だけを記憶に残しておく。
「―――さらに男子に限らず女子からも人気がある彼女だが、人と関わることを嫌いそれは教師にまで至る」
まぁ、その辺は教師にさえ恐れられている、林檎がいるから特に不思議な存在でもない。
「あまりに冷たい態度をとることから、いつのまにやらそう呼ばれるようになった」
「それが氷の女王ね……」
「格闘技までやっているなんて知らなかったです。男の人を倒しちゃったっていうのは噂で聞いたことがありましたけど」
「ふふん」
なにやら幸一が胸を張る。
「まぁあれだ。まだ知りたいことがあれば調べつくすぜ」
それだけ聞いたら危ない奴にしか聞こえないけど、折角だから調べてもらおう。
「じゃあ、頼む」
「ちょ、感謝どころかあしらっているように聞こえましたけど!?」
「そんなことないよ。とりあえず後はクラスだけ教えてくれれば、落し物をしていないかだけ訊いてくる」
「ほんとかよ……。クラスはHクラスだけど残念ながら今日は学園来てないぜ」
なんでそんなことまで知っているのか危険を感じるが、流しておく。それに休みなら次の日にするしかない。
「そうか、ありがとう。天柚もありがとう」
「いえ、全然お役に立てなかったですけど」
ようやくお礼に気が済んだ様子で天柚が席に戻ると、さっきまでやる気に満ちていた幸一が急に腑抜けて人の机に体を乗せて話さなかったことを付け足してきた。
「女王様の続きだけど、ろくに話なんてできないと思うぞ。告白した男だってどこかに呼び寄せたりできずに、ストーカー並みに女王様が一人になるところを見計らってコクるんだ」
全くと言っていいほど問題ない。別に俺は告白しに訪ねるわけじゃないし、落し物が緋衣の物じゃないと分かればいいだけだ。だから、一人になってもらう必要がない。
そんなことよりも、少し気になったことができた。
「幸一、もしかしてその女王様に告白してたのか?」
「まままままままさか、俺がそんな多数の可愛い女子に声かけているわけがないじゃないか、何を言っているのかね縁君は、あははは」
こいつ、相当な数にフられてるな。
「左様ですか……」
幸一の戦歴はいずれ暴くとして、ひとまず鍵は返すことができそうだった。