結
響歌は御来屋の肩を支えると、ゆっくりと交差点の端まで歩を進めた。
「ごめんね、あんな突き放した言い方して。本当にごめん」
二人で歩いている最中、響歌はしきりに謝り続けた。御来屋はその言葉を聞きつつも、響歌の本当の言葉が怖くて何度も耳を塞ごうと思った。だが、御来屋の思いとは裏腹に、世界眼鏡は響歌の思いを御来屋へと突きつけた。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ひとりにしてごめんなさい)
「え……?」
(わがまま言ってごめん。迷惑掛けてごめん。だから居なくならないで。ずっと私のそばにいて)
世界眼鏡をかけてから初めて見る、優しい思い。響歌は心の底から御来屋の身を案じているのだと知り、御来屋の目に久方ぶりの光が灯った。
「こっちこそ、迷惑掛けてごめん。もう自分で歩けるから」
「馬鹿なこといってないで、こんな時くらい私に甘えてなさい。もう、こんなぼろぼろになるまでどこほっつき歩いてたのよ、心配するじゃない」
「ごめん、ありがとう」
久しぶりに聞く表裏のない言葉に、久しぶりの会話。これだけでも、御来屋にとっては涙が出るほど嬉しかった。それだけではなく、御来屋は響歌のことを以前よりも愛しく思えた。
二人がようやくスクランブル交差点を抜けると、ビルに背を預けて、最近の出来事を話した。世界眼鏡のことは響歌も始めこそ信じようとはしなかったが、このような状況が説得力を持ったのだろう、最後には御来屋の言い分を信じてくれたようだった。
「それで、自分じゃ世界眼鏡を外せないんだ。だから響歌、お願いだからこの眼鏡を外してくれないか」
「はいはい、ちょっと待ってなさい」
響歌は御来屋の顔に手を伸ばすと、いとも簡単に世界眼鏡を取り上げた。途端に御来屋に視界は普通のものになり、人の心が読めるなんてこともなくなった。当たり前に見られる世界はたまらなく心地よくて、御来屋はようやく安堵の息を漏らした。
「どう、もう大丈夫?」
「ありがとう。響歌にも心配掛けた、重ね重ねごめん」
よく見れば、響歌も少し疲れた表情をしていた。おそらく、御来屋を探し回って奔走していたのだろう、足も靴もぼろぼろだったのが見て取れた。
「好きな人がいなくなったんだもん。どんなことをしてでも探し出したいって思うのは当然でしょ」
二人の間に笑顔が零れる。こうして二人で話していると、ようやく日常に帰ってこられたのだと実感できた。御来屋は笑いながら、ここ最近の癖で空を見上げ――絶望した。
澄み渡る青空には、あの頃と変わらずに『あいつ』が浮かんでいた。
「なん、で……」
そればかりではない。空に浮かぶ『それ』は、ようやく御来屋を捉えたと言わんばかりにこちらに近づいてくるのである。
どうして『あいつ』だけが未だに御来屋の日常を驚かせるのか、世界眼鏡がなければ見えないんじゃなかったのか……様々な憶測が御来屋の頭に溢れた。
「ん、どうかしたの? ははん、今更正気に戻ったってわけね。よかった、いつまでも御来屋の妄想に付き合わなくちゃいけないのかと思った」
「妄想……?」
御来屋は心当たりのない謂われに耳を疑った。それを問いかけと受け取ったのか、響歌は当たり前の事実として何の悪気もなく、むしろ嬉々として御来屋に残酷な回答を突きつけた。
「ああ、ごめんごめん。だって、世界眼鏡だなんておかしいじゃない。御来屋は始めから眼鏡なんてかけていなかったんだから」
響歌の言葉は、御来屋を絶望の淵へと追い込むには十分すぎた。そんな馬鹿な、と思わず響歌の手を検めると、そこには世界眼鏡など存在していなかった。当たり前なのである、御来屋は響歌と出会った頃から、いや、それ以前から世界眼鏡などかけていなかったのだから。
思い当たる節はあった。世界眼鏡の効力が強くなる瞬間というものは、自分の脳が作り替えられているような違和感を感じていたのである。つまるところ、あの不可思議な世界を見せていたのは単に世界眼鏡の存在ではなく、新しく作り替えられた御来屋の脳みそなのではないか。それだけではない、御来屋の脳裏に響いた人々の胸の内すら、御来屋自身の妄想だったのではないか。
そう理解した瞬間、再び周囲の光景が幻想的なものへと塗り替えられていった。周囲の人の心こそ見透かせないものの、御来屋の前には再び恐怖が映し出されたのだった。
自我が崩壊しそうになる一歩手前で、なおそれを保たせていたのは響歌の存在だった。あの黒い球体は御来屋に罰を与えにやってくる。それに響歌を巻き込まない為、必死に現状を打破する算段を並べてみせた。だが、どれひとつとして幸福な方法は見あたらなかった。
黒い球体が近づいてくるまで、あとわずか。御来屋が決断を下すには、あまりに時間が残されていなかった。
「それにしても、響歌はひどい女だよね」
「何を言い出すのよ、こんなときに。あんたも言うようになったじゃない」
強がる響歌に、御来屋は無表情のまま詰め寄っていった。
「僕が居なくなった途端、平気で他の男に鞍替えしたりさ。一樹とも会っていたんだろう? 僕のことを馬鹿にしながら、二人して毎日笑ってたんだ。さぞ楽しかったろうね。それでまた僕の前に現れて、今度は何をしようって言うんだ。金でも搾り取って捨てようっていうんじゃないだろうな。そんなことはさせるものか。響歌も一樹も、みんな信用できるものか!」
御来屋はここ数日のうちに響歌に対して漫然と描いてきた妄想を、さも自分が狂っているかのように一方的にまくし立てた。その迫真の演技が功を奏したのか、響歌は困惑した表情で御来屋を見つめてくる。
「ねえ、どうしたの。ごめんなさい、私も悪かったから。だけど、あたしが一樹なんかになびくわけないでしょう? お願い、これだけは信じて」
響歌の言い分は、おそらく本心なのだろう。その必死の訴えかけは、世界眼鏡など必要としなくとも彼女が真実を語っていることを露呈していた。御来屋はそれをわかっていて尚、響歌を追い込むように何度も、何度も何度も何度も何度も罵声を浴びせ続けた。
そこまで徹底すれば、いくら響歌といえども御来屋を見放さざるを得なかった。
「あんたの考えていることなんてわからないわよ!」
再び聞かされた響歌の言葉は少なからず御来屋の心を傷つけたけれど、端から覚悟の上だった御来屋は甘んじてそれを受け入れ、駆けていく響歌の背を見届けた。
「ごめんなさい」
決して届かない言葉を投げかけると、御来屋は空を仰いだ。『あいつ』は既に御来屋の目と鼻の先まで詰め寄っていて、その存在感を惜しげもなく突きつけていた。すると、黒い球体の真ん中から唐突に亀裂が走り、がばりと二つに裂けた。それはさながら口のようで、御来屋をそのうちに包むと、ばくりと勢いよくその口を閉じた。
いきすぎた妄想は人をも×す。
妄想狂にはご注意を。
ここまで目を通して頂き、ありがとうございました。