転
果たして、響歌は御来屋のことをどのように思っているのだろうか。
響歌は御来屋の考えていることがわからないといった。その思いはいつから秘めていたのだろう。勢いで出た言葉だろうか、つい最近の悩みだったのだろうか、それとも付き合い始めた当初からの不満だったのだろうか。思い返すほど、御来屋は響歌と向き合っていた自分がわからなくなった。
自分は響歌のことが好きだったのだろうか。響歌だから好きだったのだろうか。どのくらい響歌のことが好きだったのだろうか。どんな心でも見透かすはずの世界眼鏡を持ってしても、自分の本心を読み取ることは出来なかった。
響歌からの着信を無視してから三日が過ぎようとしていた。御来屋は布団に四肢をなげうちながら、この三日間はずっと響歌のことを考え続けていた。思えば誰かのことをここまで長く考え続けたことはなかったのかもしれない。ただ、現状ではいくら考えても望まない末路しか思い描くことが出来なかった。
午前四時を過ぎた辺りで、御来屋は気分転換に散歩へ出かけた。この時間帯ならば人通りはほとんどなく、安心して出歩くことが出来る数少ない機会だった。流石に買い物をする際には人と出会うことも避けられないけれど、深夜帯のレジ係の多くはあまり深いことを考えているでもなく漫然と業務に徹しているので、御来屋としてはありがたい限りであった。
ふらふらと歩を進めながら、ぼんやりと空を見上げる。徐々に明るくなっていく空は虹色から金色へと塗り替えられていくところで、この光景に立ち会えることだけは世界眼鏡を手に入れて良かったと思える数少ない点だった。
「それだけとは、勿体ないお言葉で御座います」
その言葉は唐突に横合いから投げかけられた。御来屋はびくりと驚いて振り向くと、いつぞやと同じように老婆が露店を構えていた。
御来屋は不審がった――今や御来屋の周囲に立つものの思考は問答無用で暴かれるというのに、この老婆は一体何を考えているのか全く読めなかったのだ。
(この老婆も、普通じゃないってことなんだろうか?)
御来屋は足をすくませながらも、勢いに任せて老婆に詰め寄った。
「一体何なんですか、この世界眼鏡は。この妙な眼鏡のせいで、僕の生活は――」
「素晴らしいものになったのではないでしょうか。あなた様の心に燻っていた願望は、世界眼鏡によって限りなく近い形で叶えられたはずで御座いましょう」
「こんなものは望んじゃいない!」
「ですが、望むと望まざると、あなた様はヒトに許された範囲を超えた力を行使なされました。奇跡の力を得るには同等の代価が必要となります」
「代価……? 世界眼鏡の代金ならちゃんと払ったでしょう」
「それは『世界眼鏡そのものの代価』で御座います。使われた力におきましては、別の形で支払って頂かないと、ねえ」
きしし、と老婆は不気味な声とともに御来屋を見た。ぎろりと動く眼球で舐めるように見つめられた御来屋は、老婆相手だというのに一歩も動けなくなるほどすくみ上がった。
「ば、化け物め……!」
「おやおや。化け物というものは、あんなものをいう言葉じゃあありませんか?」
老婆の言葉に御来屋は思わず頭上を仰いだ。そこには正真正銘の化け物が居座っていた。
「なんなんだ、あれは」
御来屋はこれで何度目かという呟きを零した。
頭上に漂う『それ』は完全無比の球形で、この世の絶望を凝縮したといっても頷けるほど黒々としていた。見れば見るほど不快感が込み上げてくるそれは空中に浮かんでいて、街中のどこからでもその姿が見て取れた。今までなぜ気付かなかったのか、その程度の疑問など吹き飛ばしてしまうほど御来屋は追い詰められていた。
「あいつは、僕のことを探しているんだ」
御来屋は考えるでもなく、当たり前のことのように言葉を続けた。
「僕は何の代償もなしに世界眼鏡を使った。これは人が使っていいものじゃなかったんだ。だから罰が必要なんだ。僕に罰を与えるためにあいつが来た。あいつは僕のことを探しているんだ。そうに違いない」
(なんだこいつ、ぶつぶつ呟いて気持ち悪い)
(頭がおかしいのかしら、若いうちから可哀想に)
「あいつは化け物だ。人間の僕にはどうすることも出来ない。僕以外にあいつを見られる人なんかこの世の中にはいないから、誰に助けを求めても無駄。誰かに助けを求めようとしても、誰も僕のいうことを信じちゃくれない。僕を頭の狂った奴だと笑ってくれることしかできない。僕は狂ってなんかいない。僕は狂ってなんかいない。僕は正常なんだ。おかしいのはこの世の中なんだ」
御来屋は当てもなく、それでも『あれ』に見つからないように街をさまよった。もう二日も飲まず食わずで歩き続けている。とにかく、一所に留まっていてはいけないと脅迫めいた妄想が御来屋を突き動かしていた。
「そうだ、僕はおかしくなんかない。こんなの絶対、おかしいよ。なんでこんなことになったんだ。なんで、どうして僕なんだ。僕がなにしたっていうんだ。僕は普通に生きてきただけじゃないか。僕には僕の都合があるんだ。それを、それなのに、響歌ときたら……!」
御来屋は住宅街を経て都市部のスクランブル交差点へと辿り着いた。既に身体は満身創痍で、一見して浮浪者の姿となんら変わりはなかった。そんな御来屋を目にした人々は、その胸中で各々勝手な言葉で御来屋をあざけり罵った。その言葉が御来屋自身に見透かされているとも知らずに。
いつしか御来屋は立つことすらままならず、スクランブル交差点の中央で膝をついた。
「響歌、響歌……僕には響歌が何を考えているのかわからないよ。何を考えていたのかわからないよ。響歌だけは僕に興味をもってくれたのに。響歌だけが僕のそばにいてくれると思っていたのに――」
「うん、わかった。私がずっとそばにいてあげるからね?」
久々に耳にする肉声によって御来屋の言葉が遮られると、背中から回された手が優しく御来屋を抱き起こした。顔を上げるまでもなく、その人物が御来屋の顔をのぞき込んでくる。
久しぶりに見る彼女の笑顔は、何より御来屋の支えになった。