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世界眼鏡  作者: 朽葉丁
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 世界眼鏡がその真価を発揮するまで、そう時間はかからなかった。

 始めはわずかな変化だった。陽が沈み、夕焼けの赤に染まっていく街並みがいつもと違って美しいと感じられた。何故改まってそんな感想が出てきたのか疑問が浮かんだけれど、それもすぐに得心がいった。

 夕日が完全に沈んで夜の帳が降りると、その違いは明白だった。深い闇が広がっているはずの夜空が七色の光を薄く纏っているのである。星の瞬きこそ欠けているものの、どこか幻想的な色合いを散りばめた世界は御来屋(みくりや)の心をなだめるには充分だった。

「すごい……これが老婆の言っていた、『本当の世界』……」

 この時ばかりは御来屋も響歌とのいさかいを忘れて目の前の幻想的な光景に見入った。今まで難しい表情を浮かべていたのが嘘のように朗らかな笑みが浮かぶ。冗談交じりではあったけれど、世界眼鏡を手に入れて良かったとさえ思えたほどだ。

「そろそろ響歌の機嫌も直っている頃だろう。明日には仲直りできるといいな」

 そんな未来を夢見ながら、御来屋は浮かれた様子で帰路についた。


 世界眼鏡を手にして喜んでいられる時間はあまりに短かった。

 おかしいと感じ始めたのは翌朝のことである。目を覚ますと空にはやわらかな金色がどこまでも広がっていて、風が吹き抜けるたびに様々な光を残していく。七色に瞬くそれらの光はゆったりと空中を漂ったかと思えば、ふいに訪れた風に乗り、どこか遠くの空へと溶けていった。

 およそ現実のものではない光景に一瞬だけ面食らったものの、すぐに世界眼鏡に思い至った。手で触れて確信したが、既に世界眼鏡を掛けていたらしい。

「いつの間に……おかしいな、寝る前には確かに枕元に置いていたのに」

 もっとも、起き抜けに寝ぼけながら世界眼鏡を掛けたのかもしれず、御来屋は首を傾げながらも目新しい日常へと戻っていった。この時はまだ違和感の確証を得るには至らなかった。

 疑惑が確信に変わったのは大学の食堂でのことだった。未だ響歌と連絡が取れず一人で昼食を摂っていると、昨日と同様に一樹が同席してきた。軽い挨拶と共に自らのトレイを二人がけのテーブルに置くと、御来屋の顔をのぞき込みながら様子を伺ってくる。

「なんだよ、結局は響歌と和解できなかったのか? ちゃんと謝ったんだろうな、御来屋」

 一樹は気を遣うでもなく二人のことについて口を挟んできた。これに限ってはいつものことで、御来屋もなんら悪い気はしなかった。ただ、その次に続いた言葉は普段の一樹からは想像し難いものだった。

(このまま仲違いして別れちまえばいいのに)

「えっ?」

 御来屋は自分の耳を疑った。だが後頭部にぼんやりと響いた声はたしかに一樹のもので、聞き間違いだとは到底思えなかった。驚いて一樹の顔を一瞥すると、再び先の声が聞こえてきた。

(響歌も何でこんな奴と付き合ってるんだろうな。さっさと別れて、俺と付き合えばいいのに)

 今度は先ほどよりもはっきりと聞き取れた。そればかりではない、一樹の周囲に聞き取った言葉が確かに浮かんでいるのである。御来屋はさっと恐ろしくなる一方、奥歯を強く噛みしめながら一樹に言い寄った。

「おい、僕と響歌が別れればいいって、本気で考えてるのか?」

「はあ? 何を言い出すんだよ急に。俺がそんなこと考えてるはずがないだろう」

 一樹は表面上では慌てず取り繕うものの、御来屋はその内心の変化を見逃さなかった。

(なんだこいつ、気持ち悪い。俺がうっかり口を滑らしたのかもしれないけど……気をつけないとな)

 ここで御来屋の疑惑は確信へと変わった。この世界眼鏡は普通の眼鏡じゃない――どんなものでも、例え人の心の内であっても見透かしてしまう不可思議な眼鏡なのだと。

 気付いた途端、劇的な変化が御来屋を襲った。視界に入った人たちの思考が一気に御来屋の頭に流れ込んできたのである。ちょうど食堂が混み合い始める時間帯だったこともあり、数百人にも上る学生らの心の内が御来屋の目の前に暴かれることになった。その混沌とした世界は周囲を埋める幻想的な雰囲気に溶け込んで、あっという間に御来屋の知る現実世界を塗り替えていった。

「さながら魔法の眼鏡か。はは、呪いと紙一重何じゃないか、これ」

「なあ御来屋、どうしたんださっきから。悩みがあるなら俺に話してみろって」

(まさか気でも振れたんじゃないだろうな、こいつ。こんな奴とは関わり合いになりたくないなあ)

 御来屋は引きつった笑顔のまま席を立つと、足取りもおぼつかないまま学生食堂を離れた。もちろん、一樹を遠ざけたところで頭の中に響いてくる心の声が消えることはない。視界に映った人の心は絶えず御来屋の思考へとなだれ込んでくる。どれもこれも表面上に見える感情とは真逆で、むき出しになった胸の内はこんなにもみにくいものなのかと御来屋は青ざめた。たまらなくなった御来屋は立ち止まり空を見上げた。辺りに広がる風景は依然としてこの世のものとは思えないくらいの美しさで御来屋を優しく迎えていた。もうこればかりが御来屋の正気を紙一重で保たせていたのだった。

 しかし現実は御来屋の望まない方向へと塗り替えられていく。辺りの風景ばかりに目を向けてから数時間が経った頃だろうか、ついには近くにいる人間ならば視界に映らずとも考えていることが読めるようになってしまった。

「違う、僕はこんな世界が見たかったわけじゃない」

 御来屋は目をつぶり、必死に世界眼鏡を外そうとした。だが、いくら強く望んだとしても御来屋の手が世界眼鏡を外すことはなかった。いや違う、外せないのだ。まるで何かに怯えているかのように、脅されているかのように、身体が世界眼鏡を外すことを拒んでいるのである。

「人の考えていることがわかればいいなんて、ほんの一瞬、願っただけじゃないか……それなのに」

 ――それなのに、あんまりだ。


 御来屋は自宅への帰路をひた走った。途中幾人かにぶつかろうと、それでどれだけの憎まれ口を叩かれようとも、御来屋は一心不乱に走り続けた。ようやくアパートの自室に辿り着くと、ドアに鍵を閉め布団の中にうずくまった。吐く息が籠もり、うだるような暑さになったとしても構わなかった。今や布団の中だけが御来屋を孤独にさせてくれるのだった。

 そこに追い打ちを掛けてきたのが一本の着信だった。震える携帯電話を怖々と覗くと、ディスプレイには響歌からの着信だと表示されていた。御来屋は途端に救われたような気になって着信ボタンに指を伸ばすと、そこで恐ろしい想像が脳裏を巡った。

 世界眼鏡の効力は電話口からでも発揮されるのだろうか? いや、どんなに摩訶不思議な力を持っていようと、これは眼鏡だ。電話口からの声だけで相手の心が読み取れる道理はない。だがしかし、先は世界眼鏡で見なくとも心の内を暴けたではないか。いやいや、それは対象が近くにいたからで、響歌が部屋の近くにいるとは限らない。もし響歌が近くにいるなら、部屋のチャイムも押され――。

 そんな考えに至ったところで、不幸にも部屋の呼び鈴は鳴らされてしまった。この時点では、まだ扉の前に誰がいるかはわからない。響歌でない可能性は十二分にあるだろう。しかし、御来屋は反射的に縮こまると、鳴り続ける響歌からの着信音とチャイムとに頭を揺さぶられ、いつしか正常な思考能力は失われてしまっていた。

「来るな! 来ないでくれ!」

 御来屋は喉の奥から大声を張り上げると、頭から布団を被り、必死になって暗闇へと逃げ込んだ。


 気付けば着信音もチャイムも鳴り止み、日はとっぷりと暮れていた。眠りながら泣いていたのだろうか、頬に残る涙の痕を不快に感じながら、居心地の悪い心細さを拭うために声を荒げた。

「……くそう!」

 御来屋は携帯電話を思い切り床に叩きつけると、にじむ世界を屹然とにらみ返した。

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