起
「あんたの考えていることがわからないのよ!」
よく響く透き通った声音も、この時ばかりは耳障りに感じられた。響歌の怒りは案の定、学生食堂の隅まで伝わったようで、恐る恐るといった風に野次馬の視線が集まってくる。元から注目を浴びることを煙たがっていた御来屋は、ばつが悪そうにそっぽを向いた。
この態度にいっそう歯噛みした響歌は、傍らに置いた鞄を乱暴に掴んで席を立った。
「ごめん、一旦帰る」
気が立っている中それだけを言い置くと、響歌は足早に食堂を去っていった。御来屋は乱暴に揺れる長髪を一通り目で追いかけはするものの、自らは追いかけるでもなしに背もたれに身を預け、ゆっくりと息を吐いた。思わず口から乾いた言葉が零れる。
「響歌の考えることだってわからないよ……」
御来屋と響歌は付き合い始めて一年になろうかという恋仲である。元気が良く活発な響歌が御来屋を振り回すのは出会った当初から変わらず、その裏表のない素直な性格が御来屋の気を引いたのだけれど、時として先ほどのような言い合いになることも少なくはなかった。今回も口論の発端は些細な出来事だったような気もするが、冷静に思い返したときには後の祭りである。
「また響歌と喧嘩したのかよ。相変わらず仲がいいな、お前ら」
「笑いごとじゃないよ」
背後から声をかけてきたのは友人の一樹だった。御来屋と響歌の共通の知人で、御来屋にとっては珍しく気の置けない友人であった。
「それで、今回は一体どうして響歌を怒らせたんだ?」
「どうでもいいことだった気がするけど……忘れた。響歌からは『あんたの考えていることがわからない』って」
「はは、それはさっき聞かせてもらったよ」
にやにやと嫌らしい笑みを浮かべながら話を進める一樹を前に、御来屋は再び顔をうつむかせると、一樹にも聞き取れないほどか細い声でぽつりと呟いた。
「人の考えてることなんて、わかるわけないのにな」
「ん、何か言ったか?」
いや別に、とその場を濁すと、御来屋は席を立った。どうにも人と話そうという気分にはなれなかったのである。
「行ってらっしゃい。これ以上、響歌の機嫌を損ねるなよ」
一樹はこれから響歌を追いかけるとでも思い込んでいるのか、見当違いの声援を御来屋に送った。
やはり、御来屋には人の考えることがわからなかった。
御来屋は当てもなく街をさまよった。自分でも気付かぬうちに響歌の後ろ姿を追いかけてみるものの、見つけ出したところで気が立った響歌落ち着かせられるはずもなく、話をしたとしてもこれ以上険悪になることは目に見えていた。御来屋には難しい顔を浮かべながら歩き続けるしかなかったのである。
そんな御来屋が老婆の前を通りかかったのも決して偶然ではなかった。
「そこを行く旅のお方。あなた様は――本当の世界に触れてみたいと思いませんか」
腹の底に響くしわがれた声にふと立ち止まると、大して広くもない歩道の傍らには露天商がこぢんまりとした店を開いていた。そこには印象深い鷲鼻を黒いローブから覗かせた如何にも怪しい佇まいの老婆が腰掛けており、よく見れば重く垂れ下がったまぶたの奥から御来屋をしかと見つめている。ここでようやく声をかけられているのが自分だと気づき、御来屋は深くため息をついた。
このまま知らぬ振りをつき通してこの場を後にしてもいい。だが、老婆にかけられた謳い文句は不思議と御来屋の心の端を掴んで離さなかった。なに、相手は老婆だ。危ないと感じたときには走って逃げればいいのである。御来屋はいたずらに湧き出た好奇心に従って老婆の開く露店へと近づいた。
「この世界は常日頃よりあらゆる顔を覗かせておられます。ところが残念な話では御座いますが、それらをあまねく享受するには、我々の双眸ではいささか力不足のきらいが御座いまして、せいぜい世界の一端を御覧じることで精一杯というのが現状で御座いましょう」
訥々と語り続ける老婆を前に、気味が悪いというのが御来屋の第一印象だった。しわくちゃな口から紡がれる話は絵空事のような妄想ばかりで、老婆の風体も相まっていっそう怪しく思えた。もしや新興宗教の勧誘なのではないだろうか、そんな空想も笑い飛ばせなくなっている事態に、御来屋は静かに半歩身を引いた。
そんな御来屋の心情を知ってか知らずか、はたまた、知った上でどうでもいいと感じたのか――それこそ定かではないが――老婆は御来屋の様子を気にもかけずに呪文のような言葉を続けた。
「あなた様は――本当の世界に触れてみたいと思いませんか」
しわがれた声は細く鋭く、御来屋の胸に棘を残す。
「そんなあなた様に、こちらの『世界眼鏡』は如何でしょう?」
気付けば、御来屋は世界眼鏡とやらを手にしていた。特に目が悪いというわけでもないのに自然と眼鏡を着用している自分に呆然としながらも、いつの間に老婆から世界眼鏡を受け取ったのか、一瞬前の出来事がさっぱり思い出せないでいることが不思議でならなかった。
辺りを見回せども老婆の姿はなく、露店ごと忽然と姿を消している。訳が分からないまま、うまく働かない頭でしばらく考えると、御来屋はある考えに至り、鞄から財布を取り出すと急いで中身を検めた。
「……やられた」
財布からはしっかりと一五〇〇円が抜き取られていた。