小夜の午前
時間のある内に、今日の香里さまの婦人会のしたくをしちゃおうと、台所に立つ。味噌と醤油が少なくなっていたから、後で三河屋さんに注文しなくちゃ。
今日の婦人会のデザートは、ケーキでいいだろう。香里さまが、「今日のしたくは自分がやる」と言ったが、香里さまは料理が出来ないし、これくらいは、やらなくては申し訳ない。
粉を取りだし、ボールに入れようとすると、
「ん?・・この花、なに?」
と、ご飯を口に頬張りながら、恭弥さまが聞いてきた。居間に小走りで行くと、恭弥さまは、机の上に飾って置いた鉢植えの胡蝶蘭に似た、花を弄っていた。
「何?この花。昨日は置いてなかったよな?」
「あっ、あの・・・昨日の結婚式に来てくれた、中学の時の友達がくれたんです。確か・・デンファレ?だったような・・・ランの仲間だそうですよ」
言っていると、恭弥さまが『隣に座れ』というようなジェスチャーをしたので、言われた通り、隣の空いてるスペースに座る。『デンファレ』という言葉に、香里さまが反応した。
「デンファレ?
まぁ、さすが、小夜ちゃんのお友達ね。センス、いいじゃない。デンファレの花言葉、知ってる?」
首を横にふる。恭弥さまは知ってるかと思い、横を見ると、恭弥さまも首をひねっていた。思ったより、恭弥さまとの距離が近くて、心臓がバクバクいう。
香里さまを見ると、楽しそうに微笑んでいた。
「デンファレの花言葉はね、『お似合いの二人』よ♪」
思わず、横を見ると、恭弥さまと目があった。瞬間、恭弥さまの顔が赤くなる。たぶん、自分もそんな顔をしているのだろう。
2人で、示し合わせたかのように、同時に下を向いた。
* * * *
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃいませ。お気をつけて」
この挨拶をすると、いつも、恭弥さまは苦笑する。時代錯誤のような挨拶が気になるみたいだが、侍従関係だもの。これくらいの挨拶は普通だ。結婚しても、侍従関係は続く。
村治家と河瀬家の溝は、埋まるはずがない。
私は河瀬家の血が流れているし、恭弥さまには村治家の血が流れている。
言葉にするとこれだけだが、この溝は深く、暗い。
どんなに頑張っても埋められない溝なら、埋めなくていい。
ただ、私は、村治家が末永く繁栄してくれればいいのだ。私など、そのための捨て駒にすぎない。
* * * *
「本当にいいの?河瀬さんの成績なら、このまま進級するなんて簡単よ」
「いいんです。行きたくっても、行けませんから」
担任の先生が、少し悲しそうに眉をひそめる。
「それぐらい、村治さんに出していただけないの?
それに、出してもらわなくたって、定時制とか奨学金って手があるのよ?」
あいまいにほほ笑む。
「・・どっちにしろ、働きに出ることは出来ませんから」
先生は、悔しそうに唇をかんだ。この先生はいい人だ。
まだ若いが、生徒のことを1番に考えてくれているし、1人1人をちゃんと見て、アドバイスしてくれている。
私のこともよく見てくれている。
その証拠に、二者面談は1人15分のはずなのに、もう、30分はたっている。
「・・河瀬さんなら、東大を目指してもおかしくないくらいなのに。もう、次の子が待ってるから、終わりにしましょうか」
「はい」
同時に立ち上がる。先生は、扉の前で振り返り、浅い深呼吸をしてから、
「でもね、河瀬さん。
村治家から出たくなったら、私に言いなさい。小夜ちゃんの人生は、家系の血なんかで終わりにされちゃダメよ」
と早口で言った。あの時の、先生の真剣な顔を忘れることはないだろう。根拠はないが、本気でその時そう思った。
小夜が15歳の時に、恭弥さまは村治家当主になった。2年前のことだ。
たまに、先生との二者面談での会話を思い出す。
今頃、どうしているだろうか。定年にはなってないだろうから、まだ学校にいるだろうか。
いつか会いに行こうと思った。
いつか――あの時の事を笑顔で話せるようになったら、会いに行って微笑みながら話そう。
あの後の帰り道、少し泣いたんだと。
先生に「高校に行きたいです」と言おうとして言えなかったことが悔しくて泣いたんだと。
「・・・・高校に行きたいです」
一人、庭を箒で掃きながら呟いてみる。呟いた言葉は風に吹かれて、砂埃にまみれて消えた。
やっぱり、私には似合わない言葉だった。