第1話「メスガキ組長、爆誕」
1. 葬儀
2025年、初夏。
東京都内、某所。
一見するとIT企業のオフィスにしか見えない、近未来的なビル。ガラス張り、白基調、最新設備。
だがここは天霧組の本拠地だ。
弱小組織ゆえに伝統的な「本邸」を持てない天霧組は、先代・轟の判断でこの高級レンタルオフィスを拠点にしていた。黒崎が選んだ、足のつきにくい物件。
その一室に、黒い喪服を着た男たちが集まっていた。
――天霧轟、享年42歳。
天霧組の組長にして、この界隈では知らぬ者のいない大物だった男の葬儀。
線香の煙が立ち込める部屋の中央に、轟の遺影が飾られている。豪快な笑顔を浮かべた写真。生前の彼を知る者なら、誰もがその笑顔に救われたことがあった。
「親父...」
古参の組員、大河内剛が低く呟いた。45歳、赤みがかった髪と傷だらけの顔に無精髭を生やした男。20年以上も轟のそばで戦ってきた男の目には、涙が浮かんでいた。
「...親父、俺たち、どうすりゃいいんだ」
大河内の隣で、22歳の金髪の若手組員・佐々木健が震える声で言った。
「佐々木。今は静かに、親父を見送ろうぜ」
加齢とストレスで白みがかった頭の会計担当・橋本修が、優しく佐々木の肩を叩く。38歳、ふくよかな体型の温厚な男だ。
遺影の前に座る少女が一人。
――天霧雅。11歳。
黒髪ロング、前髪ぱっつん。つり目の美しい顔立ちに、真っ白な喪服。身長は160cmと、11歳にしては異様に背が高い。大人びた容姿とは裏腹に、その表情には何の感情も浮かんでいなかった。
「...」
雅は遺影を見つめたまま、一言も発しない。
組員たちは、誰も雅に声をかけられなかった。
何を言えばいいのか。
この子はまだ11歳だ。父親を失った悲しみに、どう向き合えばいいのか。
だが――
「雅様」
一人だけ、冷静に声をかけた男がいた。
若頭・黒崎誠一。32歳。
長身細身、オールバック、黒縁眼鏡。無表情で、ジト目の男。顔にも全身にも傷が刻まれている。
黒崎は雅の隣に座り、静かに言った。
「そろそろ、遺言の公開です」
「...わかった」
雅は小さく頷いた。
その声には、涙のかけらもなかった。
◇ ◇ ◇
2. 刻まれた遺志
葬儀が終わり、組員全員が本部の会議室に集まった。
長いテーブルを囲むように座る組員たち。上座には空席。そこには、もう轟はいない。
黒崎が封筒を開け、中から一通の手紙を取り出した。
「では、先代の遺言を読み上げます」
全員が息を呑む。
黒崎が淡々と読み始めた。
「雅、お前は俺の娘だ。誰よりも強く、誰よりも賢い。この組を継げ。お前ならできる」
「...は?」
大河内が思わず声を上げた。
「黒崎、今、何て...」
「静かに」
黒崎の一言で、大河内は口を閉じる。
黒崎は続けた。
「黒崎、雅を頼む。だが、甘やかすな。雅が本当の組長になるまで、お前が支えてやってくれ」
「組員たち、雅を信じろ。あいつは11歳だが、俺の血を引いている。必ず、お前たちを守る組長になる」
「以上です」
黒崎が手紙を置いた。
シン、と静まり返る会議室。
数秒の沈黙。
「...は?」
大河内が呟いた。
「今、何て...?」
「聞こえませんでしたか」
黒崎が淡々と答える。
「雅様が組長になります」
「ふざけんな!」
大河内が立ち上がり、テーブルを叩いた。
「親父は何を考えてんだ!ガキに組を継がせるなんて、正気じゃねえ!」
「黒崎さん、これ...本気なんですか?」
橋本が困惑した表情で聞く。
「雅様はまだ11歳ですよ。小学生ですよ?」
「小学5年生です」
黒崎が訂正した。
「年齢は関係ありません。組の掟です」
「掟って...!」
大河内が怒鳴る。
「天霧組の掟は『血筋絶対』。組長の座は直系の血筋のみが継ぐ。年齢は問いません」
黒崎が冷静に説明する。
「過去に血筋以外が組長になった時、内部分裂で壊滅寸前になった歴史があります。だから、血筋が絶対なんです」
「そんなこと言ったって...!」
「大河内さん」
薄青の頭髪と張り付いた笑顔を携えた神崎亮が、爽やかに口を挟んだ。
「先代の遺言に、納得できないんですか?」
「...なんだと?」
「先代が決めたことですよ。それに逆らうってことは、先代の判断が間違ってたって言いたいんですか?」
大河内の顔が、怒りで真っ赤になった。
「テメェ...! 俺が親父を疑ってるとでも言いてえのか!」
「そんなこと言ってませんよ」
神崎は笑顔を崩さない。
「ただ、遺言に従わないなら、そういうことになりますよね?」
「...っ!」
大河内が神崎に掴みかかろうとした瞬間、黒崎が間に入った。
「二人とも、落ち着いてください」
「掟は掟。それに、先代の遺言です」
黒崎の言葉に、組員たちは顔を見合わせる。
佐々木が震える声で言った。
「親父さんが...そう決めたなら...」
「佐々木、お前、本気で言ってんのか?」
大河内が佐々木を睨む。
「あのガキが組長だぞ!? 11歳だぞ!?」
「でも...親父さんの遺言...」
「俺は認めねえ」
大河内が断言した。
「ガキに何がわかる。組を守れるわけがねえ」
神崎が再び口を開いた。
「もちろん、実務は黒崎さんが仕切ります。形式上は雅様が組長、実質的には黒崎さんが統括する。それでいいでしょう?」
「...まあ、それなら...」
橋本が頷く。
「俺たちが支えればいいんだよな。掟だし、親父の遺言だし」
「俺、組長を信じます!」
佐々木が拳を握る。
「親父さんが選んだんだから、きっと...」
「お前はいつも単純だな」
大河内が舌打ちした。
「だが、俺は認めねえ。絶対に認めねえ」
「大河内さん」
黒崎が静かに言った。
「あなたの気持ちはわかります。だが、先代の遺言です。従ってください」
「...ちっ」
大河内は椅子に座り直したが、拳は震えていた。
黒崎が全員を見渡す。
「異論がある方は?」
誰も手を挙げない。
「では、決定です。天霧雅が、天霧組の新組長となります」
そして――
「あのさ〜」
会議室に、明るく高い声が響いた。
全員が一斉に振り向く。
上座に、いつの間にか座っていた雅。
11歳の少女は、つり目をさらに吊り上げて、ニヤリと笑っていた。
「みんな、うるさくない?」
◇ ◇ ◇
3. 牙剥く雌餓鬼
「私が組長になるの、当然じゃん♥」
雅は足を組んで、偉そうに椅子に座った。
「だって私、お父様の娘だもん。血筋って言ったでしょ? あんたたち、従うしかないよね〜♥」
組員たちが固まる。
「ざぁ〜こ♥」
雅は組員たちを見渡して、鼻で笑った。
「おじさんたち、使えな〜い♥ でも安心して。私が組長になったら、ちゃんと使ってあげるから♥」
「...テメェ」
大河内が拳を震わせる。
「このガキ...!」
「ガキ?」
雅がニヤリと笑う。
「あ〜、確かに11歳だけど♥ でもね、おじさん、私もう組長なの♥ わかる〜?♥」
「...っ!」
「おじさんより偉いんだよ〜?♥ 立場が違うの♥ 理解できる〜?♥」
大河内が、ゆっくりと立ち上がった。
「...ガキ」
その声には、さっきまでとは違う凄みがあった。
大河内が一歩、雅に近づく。
「お前、親父の葬式の日に、その口のきき方か」
「...っ」
雅の背筋が、ぞくりとした。
大河内の目。
本気で怒っている目。
20年以上、修羅場を潜り抜けてきた男の目。
「俺は20年、親父に命を預けてきた。お前が生まれる前から、この組のために血を流してきた」
大河内が、さらに一歩近づく。
雅は、無意識に一歩下がった。
「...っ」
足が、動いた。
自分の意思じゃない。
体が、勝手に後退した。
「お前が組長だってのは、認めてやる。掟だからな」
大河内が、雅を見下ろす。
「だが、敬意ってのは、立場じゃ買えねえんだよ」
「...」
雅は、何も言えなかった。
心臓が、バクバクしている。
怖い。
本気で、怖い。
この人は——本物だ。
「わかったか、ガキ」
大河内が、低く言った。
沈黙。
雅の唇が、かすかに震えていた。
大河内がさらに詰め寄ろうとした瞬間、黒崎が静かに間に入った。
「落ち着いてください」
「黒崎!コイツの言い方、聞いてたか!?」
「聞いていました。ですが、組長です」
黒崎は淡々と言った。
「組長、お言葉ですが」
黒崎が雅に向き直る。
「組員たちは、先代に仕えてきた者たちです。敬意を持って接してください」
雅は、小さく息を吸った。
...悔しい。
でも、ここで引いたら負けだ。
「え〜? なんで〜?」
努めて軽い声を出した。
雅は首を傾げた。
「だって、私が組長でしょ? 組員は私に従うのが仕事でしょ?」
「...」
「あ、黒崎も説教しちゃう〜?♥」
雅がクスクス笑う。
「怖〜い♥ でもね、黒崎も私の下でしょ〜?♥ 若頭だっけ? まあ、偉そうだけど、組長の方が上だよね〜♥」
黒崎の表情は変わらない。
「そうですね。組長が上です」
「でしょ〜?♥」
雅は満足そうに笑った。
「でもね、黒崎。私、お父様の書斎でいっぱい勉強したんだよ? ハンニバルも、スキピオも、諸葛孔明も、アレクサンドロス大王も、ナポレオンも、ぜ〜んぶ読んだ♥」
「それは存じています」
「だったら、私が組長にふさわしいってわかるでしょ?」
雅は組員たちを見渡す。
「あんたたち、頭使えな〜い♥ 私が指示するから、動けばいいの。簡単でしょ〜?♥」
組員たちの顔が、怒りで歪む。
橋本が間に入ろうとした。
「組長、まあ、落ち着いて...」
「あ〜、太ったおじさん♥」
雅が橋本を見る。
「料理担当だっけ? まあ、ご飯作ってればいいんじゃない〜?♥ 美味しいの作ってね〜♥ マズかったら捨てるから♥」
「...はい」
橋本が深いため息をついた。
佐々木が震える声で言った。
「組長...俺、頑張ります...」
「あ〜、誰?」
雅が首を傾げる。
「名前知らない♥」
「...え?」
佐々木の顔が凍りつく。
「だって、覚える必要ある? あんたたち、番号でいいじゃん。1番、2番、3番...」
雅は指を折りながら数える。
「あ、めんどくさ〜い♥ じゃあ役職で呼ぶね。おじさん1、おじさん2...」
「雅様...」
佐々木が小さく呟く。
「俺、佐々木健って...」
「知らな〜い♥ 別に覚えなくていいでしょ〜?♥」
「雅様」
神崎が爽やかな笑顔で言った。
「僕は神崎亮です。よろしくお願いします」
「あ〜、誰? 知らな〜い♥」
「僕は神崎亮です。よろしくお願いします」
「ふ〜ん♥ まあ覚えないけど♥」
神崎は変わらず爽やかな笑顔で頷いた。
「組長らしくて、素敵ですね」
「でしょ〜?♥」
橋本が深いため息をついた。
「...はいはい」
橋本は諦めたように頷いた。
大河内が怒りで震えていた。
「黒崎...俺、もう無理だ...こんなガキ、組長として認められねえ...」
「気持ちはわかります。ですが、我慢してください」
黒崎は淡々と言った。
雅は満足そうに笑った。
「じゃ、よろしくね〜♥ 私、組長だから♥ あんたたち、ザコだけど頑張ってね〜♥」
会議室に、重苦しい空気が流れた。
◇ ◇ ◇
4. 一人きりの夜
その夜。
雅は自室に戻った。
近未来的なオフィスビルの一室。だが、中は完全に和風にカスタマイズされていた。
畳、障子、和風の家具。着物好きの雅の趣味を反映した部屋。
ガラス張りの窓の向こうには、東京の夜景が広がっている。近未来と和風が融合した、独特の雰囲気。
雅は着物を脱ぎ、パジャマに着替えた。
鏡の前に立つ。
映っているのは、11歳の少女。
「...」
笑えなかった。
さっきまでの威勢はどこへ行ったのか。
鏡の中の自分が、ひどく小さく見える。
「...っ」
大河内の目を、思い出した。
あの目。
本気で怒っている目。
20年以上、修羅場を潜り抜けてきた男の目。
『敬意ってのは、立場じゃ買えねえんだよ』
「...っ」
雅は、無意識に拳を握った。
悔しい。
悔しい、悔しい、悔しい。
あの瞬間、体が勝手に後退した。
自分の意思じゃない。本能が、あの男を「本物」だと認めてしまった。
組長なのに。
お父様の娘なのに。
あんな、ザコ相手に——
「...ザコ、じゃなかった」
小さく呟いた。
あの男は、ザコじゃない。
20年間、お父様と一緒に戦ってきた男。
私が生まれる前から、この組のために血を流してきた男。
「...っ」
雅は布団に倒れ込んだ。
天井を見つめる。
「...悔しいなぁ」
口では「おじさんより偉い」と言った。
立場では、確かにそうだ。
でも、あの瞬間——立場なんて、何の意味もなかった。
あの男は、私を見下ろしていた。
私は、後退していた。
それが、事実。
「...敬意は、立場じゃ買えない」
大河内の言葉が、頭から離れない。
悔しい。
でも、否定できない。
私は組長だ。でも、尊敬はされていない。
当然だ。何もしてないんだから。
お父様の血が流れてる。でも、それだけだ。
「...」
雅は、父の遺影を見つめた。
豪快な笑顔。
お父様は、あの組員たちに尊敬されていた。
20年間、一緒に戦ってきたから。
命を預けられる男だったから。
「...私は、まだ何もしてない」
小さく呟いた。
悔しいけど、認めるしかない。
立場だけじゃ、人は従わない。
「...でも」
雅は拳を握った。
「負けたくない」
あのおじさんに。この悔しさに。
今日は負けた。本能で負けた。
でも、いつか——
「いつか、認めさせてやる」
どうやって?
わからない。
でも、このまま終わりたくない。
「...お父様」
小さく呟いた。
「見ててね。私、ちゃんとやるから」
父の声が聞こえる気がした。
『雅、お前は誰よりも強い』
「...まだ、強くない」
雅は小さく笑った。苦い笑みだった。
「でも、強くなる。絶対に」
そう誓った。
「じゃ、おやすみ〜♥」
口調を、意識して出した。
つい先日まで何の変哲もなかった、けれど確かに変わってしまった口調を。
雅は目を閉じた。
少しだけ、不安はあった。
...それと同時に、なぜか明日のことを考えている自分がいた。
組のこと。東雲会のこと。
どうすれば、あの男に認められるか。
不思議だった。
でも、大丈夫。
お父様の通りにやればいい。
それだけ。
簡単でしょ?
◇ ◇ ◇
5. 翌朝
翌朝、雅が会議室に入ると、組員たちが既に集まっていた。
「お待たせ〜♥」
雅は明るく言った。
「おじさんたち、早起きだね〜♥ 偉い偉い♥」
組員たちの顔が引きつる。
黒崎が静かに言った。
「組長、今日から組の業務について説明します。実務は私が行いますが、概要は把握しておいてください」
「え〜、説明だけでいいの〜?♥ ラッキー♥」
「ラッキーではありません。組長として、状況を理解する必要があります」
「はいはい♥」
雅は足を組んで椅子に座った。
「で、何〜?♥」
大河内が舌打ちした。
「...ちっ」
「あ〜、おじさん、舌打ちした〜?♥」
雅がニヤリと笑う。
「怒ってる〜?♥ 顔真っ赤で血圧高そう〜♥ お薬飲んだ〜?♥」
「テメェ...!」
大河内が立ち上がろうとする。
「大河内さん、落ち着いてください」
黒崎が静かに制する。
「でもよ、黒崎!このガキの言い方...!」
「ガキって言った〜♥」
雅がクスクス笑う。
「でも私、組長だよ〜?♥ おじさんより偉いんだよ〜?♥ わかる〜?♥」
雅は指を立てた。
「でもね〜♥ 私だっていろいろ考えてるんだよ〜?♥」
「...は?」
「縄張りをどう守るか〜♥ 争いが起きたらどうするか~♥ お父様の本、全部読んだもん♥」
雅がニヤリと笑う。
「孫子も読んだよ〜?♥ 『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』♥ 知ってる〜?♥」
大河内が眉をひそめた。
「...何が言いてえ」
「え〜♥ こんなのも知らないんだ〜♥」
雅がクスクス笑う。
「ザ・コ・お・じ・さ・んっ♥」
「テメェ...!」
「べっつに〜♥ ただ、ザコはザコなりに頑張ってね〜ってこと♥」
「...っ!」
橋本が間に入った。
「まあまあ、組長、説明聞きましょうよ」
「あ〜、料理のおじさん♥ 昨日の飯、まあまあだったよ〜♥ 70点♥」
「...70点ですか」
橋本が深いため息をついた。
「まあ、70点なら悪くないですよね...」
「悪くはないけど、良くもないよね〜♥」
雅がニヤリと笑う。
「次は80点目指してね〜♥ おじさん、頑張れ〜♥」
「...はい、頑張ります」
橋本は完全に諦めた表情だ。
佐々木が小さく声を上げた。
「組長、俺も...」
「あ〜、誰?♥」
雅が首を傾げる。
「...佐々木健です」
「知らな〜い♥」
雅は欠伸をした。
「別にいいや♥ 用事ある〜?♥」
「いえ...その...」
「ないなら黙ってて〜♥」
佐々木の顔が曇る。
神崎が爽やかな笑顔で言った。
「組長、僕が資料をまとめておきましょうか?」
「あ〜、この人♥」
雅が神崎を見る。
「なんか胡散臭〜い♥ ニコニコしすぎ〜♥」
「そうですか?」
「でもまあ、使えそうだから置いとく♥ 頑張ってね〜♥」
「ありがとうございます」
神崎は笑顔のまま頷いた。
雅が黒崎を見る。
「ねえ、黒崎♥」
「なんでしょう」
「黒崎って、いつも無表情だよね〜♥ 面白くな〜い♥」
「...そうですか」
「もっと笑えば〜?♥ 笑顔の練習とかした方がいいよ〜?♥ おじさん、怖いから〜♥」
黒崎は無表情のまま答える。
「検討します」
「ほんと〜?♥ 嘘っぽ〜い♥」
「では」
黒崎が、口角を上げた。
——笑顔。
のつもりなのだろう。
だが、目が笑っていない。
口だけが不自然に吊り上がっている。
人形が壊れたような、ぎこちない笑み。
会議室が、凍りついた。
「...っ」
佐々木が息を呑む。
橋本は箸を落とした。
大河内ですら、一瞬言葉を失った。
雅は固まった。
「...え」
なにこれ。
怖い。
怖すぎる。
笑顔なのに、全然笑ってない。
むしろ、殺意を感じる。
「...黒崎」
「はい」
黒崎は笑顔のまま答える。目は死んでいる。
「...それ、笑顔のつもり...?」
「はい。笑顔です」
真顔で言い切った。
沈黙。
「...いかがでしょうか」
黒崎が組員たちを見回す。
誰も何も言えない。
数秒の沈黙の後、黒崎の表情が僅かに曇った。
「...何か、おかしかったでしょうか」
その声には、微かな戸惑いが混じっていた。
「いや...その...」
橋本が目を逸らす。
「黒崎さん、練習...した方がいいかもしれませんね...」
「...そうですか」
黒崎は少しだけ、恥ずかしそうに目を伏せた。
いつもの無表情の下に、ほんの少しだけ赤みが差している。
「...あの、気を悪くしたなら...」
「いや、いいのよ〜♥」
雅が引きつった笑いを浮かべる。
「無表情のままでいて〜♥ お願い〜♥」
「...承知しました」
黒崎は無表情に戻った。
その方がずっとマシだった。
雅がクスクス笑う。
大河内が低く唸った。
「...ガキが...」
「あ〜、血圧高そうなおじさん、また怒ってる〜?♥」
雅が大河内を見る。
「ストレス溜まってる〜?♥ 健康に悪いよ〜?♥ ちゃんと運動してる〜?♥」
「...っ!」
大河内の顔が真っ赤になる。
「年齢的に、もうそろそろ体ガタ来てるんじゃない〜?♥ 無理しないでね〜♥」
「テメェ...!」
「大河内さん、座ってください」
黒崎の一言で、大河内は歯を食いしばりながら座った。
黒崎が淡々と言った。
「では、説明を始めます」
黒崎が資料を広げた。
「まず、東雲会についてです」
「東雲会?」
「先代を殺した、敵対組織です」
雅の表情が一瞬だけ変わった。
「...そう」
「東雲会は、暴介法を最大限活用している新世代のヤクザです。警察とも繋がっており、我々より遥かに勢力が大きい」
暴介法——暴力団介助法。お父様の本で読んだ。規制が緩く犯罪しやすい日本は、海外マフィアの格好の的。だから政府は国内ヤクザに「日本を守らせる」ために、活動を保護してる。その代わり、国内の抗争は激化してるってわけ。
「ふ〜ん♥ で?♥」
「今は静観します。無闘に動けば、潰されます」
「つまんな〜い♥」
雅は欠伸をした。
「じゃ、何もしないの〜?♥ 退屈〜♥」
「組長、これは遊びではありません」
黒崎が静かに言った。
「人の命がかかっています」
「わかってるって〜♥」
雅は笑った。
「だから、あんたたちが頑張ればいいじゃん♥ 私は見てるから♥ 応援してあげる♥」
大河内が拳を握りしめる。
「...親父...こんなガキに...」
「親父、親父ってうるさ〜い♥」
雅が大河内を見る。
「お父様はもういないんだよ〜?♥ 今は私が組長♥ 切り替えて〜?♥」
「...っ!」
大河内が席を立とうとする。
「座ってください」
黒崎の一言で、大河内は座り直した。
雅はニヤニヤ笑っている。
「じゃ、説明続けて〜♥ 黒崎♥」
黒崎は淡々と資料を説明し続けた。
組員たちは、雅の言葉に歯を食いしばっていた。
だが、誰も反論しなかった。
掟だから。
遺言だから。
会議が終わり、雅が部屋を出ていく。
「じゃ、頑張ってね〜♥ ザコども♥」
扉が閉まる。
シン、と静まり返る会議室。
大河内が拳でテーブルを叩いた。
「...クソが...!」
橋本が深いため息をついた。
「...これから、どうなるんだろうな」
佐々木が小さく呟いた。
「俺...名前、覚えてもらえるかな...」
神崎だけが、笑顔のままだった。
黒崎は無表情で、資料を片付けていた。
――長い戦いが、始まったばかりだった。
◇ ◇ ◇
第1話 了




