18. 花の季・始(3月)16日②
朝の静かな気配のなか、両手で狼の身体に触れるアリシア。一度目を閉じて呼吸を整え、それからゆっくりと言い聞かせるように言った。
「辛いの、辛いの、飛んでいけ……。」
一見何も起こらない。でも、わずかに周囲の空気が揺らいだような気がする。
「……もう一回。」
そう声を掛けると彼女は頷いた。不安げな瞳に確かな意志が宿る。
「辛いの、辛いの……飛んでいけ。」
今度ははっきりと、その手から優しげな光が生まれるのが見えた。けれどすぐに消えてしまう。
「大丈夫、出来るよ。」
慰めではなくて本当にそう思った。あと少しで、その祈りが形になる。子狼も確信したかのようにアリシアを見上げていた。彼女自身も何か掴めたのか、三回目は迷いのない凛とした声で言う。
「辛いの辛いの、飛んでいけ。」
その瞬間、再び生まれた光が小さな身体を包み込んだ。柔らかで温かなそれはやがて粒子となり、空気に溶け込むように消える。
光のなかから現れた狼の様子は、先ほどまでと明らかに違っていた。
きゃう、と可愛らしい鳴き声をあげたかと思うと、尻尾をぶんぶんと振りアリシアに飛びつく。毛並みがふわふわで心地よさそうだ。
「ふふ、くすぐったい。ルカくん、私、成功したみたい!」
向けられたのはこれまでで一番嬉しそうな笑顔。可愛い……まるで花が咲くみたい。ルカがどうとかではなくて、それは誰もがキュンときてしまうような笑みだった。
「よかった……わっ、」
アリシアから顔を離したかと思うと、白いもふもふが自分の胸元へ飛び込んでくる。反射的に受け止めると、最初の警戒が嘘のようにじゃれつき甘えてくれた。
「……可愛いな、お前。」
自然と言葉が漏れる。雪のような純白の毛並みや体温が気持ちいい。
しばらく触れ合った後、一連の流れを見ていたアリシアと目が合い少しだけ恥ずかしくなった。
「えっと……魔法、使えたね。」
「ルカくんの……アドバイスの、お陰だよ。ありがとう。」
先ほどの無邪気な笑みとはまた違う、少し照れたような微笑み。この子の感情表現ってすごく素直だ。だから自分も自然体で応えることができる。
「役に立ったなら良かった。」
その魔法は、優しいのに神秘的な輝きだった。まるで無限の可能性を感じさせるような……。それを上手く扱えない理由は推測できるようでもあり、けれど不確かだ。
「まだまだだけどね。なんでだろう……相手がこの子なのもあって、成功した気もする。」
「そう……。」
「くうん」
大人しくこの腕のなかにおさまっている姿も可愛い。でもそれだけではなくて、やはりどこか特別な生き物だという感覚が拭えなかった。
「学園に、報告を……。」
そう声にした瞬間、狼はぴくりと身体を震わせる。腕から抜け出してそのまま森の方へ駆けてしまった。慌てて追いかけようとすると足を止め、木陰からこちらを窺ってくる。
――ここから離れたくない。そんな意思を感じた。
アリシアにも伝わったのか、彼女は言葉を選ぶように慎重に言う。
「報告したら……保護、されるよね。」
「……そうだ、ね。」
「この場所にいたいって……そう言ってる気がする。」
「………。」
自分もそう思う。黙っていても、良いのかな。先に口を開いたのはアリシアだった。
「まずは数日、様子を見てもいいかな。危険なら報告するべきだけど、この子は違う。それに……ここに居たがるのには、理由があるんだと思う。」
「……わかった。」
彼女が抱いた感覚こそ、大切なものであるような気がした。狼もそれで良い、とでも言うように満足げに鼻を鳴らす。思わずくすりと笑ってしまった。
「良い子にしてなきゃだめだよ。それが条件。」
言い聞かせるアリシアも相まって微笑ましい。見守っているのが楽しくて、それからふと我に返った。
「アリシア、そろそろ戻らないとだ。」
「わっ、そうだよね。ごめんね……また来るねっ。」
何を食べるのかも分からないけれど、もしお腹が空いていたら可哀そうだ。早足で図書館の中へと戻りながら、放課後またここで待ち合わせる約束をした。
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そうして出会った狼に、アリシアは"アル"という名前をつけた。
どうやらアルに食事の必要はなかったらしい。授業終わりに図書館で調べたところ、恐らく魔法生物の類だという結論に至った。自身も魔力を持っていて、基本は眠ることで魔力を循環させて生きていける。
その日の夕方は他に人がいたからか会えなくて、また翌朝のアルバイト時、どこからともなく姿を現した。
警戒心が強いのも氷の魔法を見せると無性に喜ぶのも、清らかな魔法を好む魔法生物の特徴と一致している。
でも、なんだろう。他にも何かがある気がする。
アリシアとアルが一緒にいる様子……絵になるというのもあるけれど、もっと深い絆を感じさせられるのは気のせいかな。
もしかしたらアルは、最初からアリシアに会うために学園に来たのかもしれない。一度そう思うと、明確な根拠がなくても不思議と疑う気にならなかった。




