第2話:「王国の影と暁の光」
朝霧の中、使節団はゆっくりと出発した。
昨夜の襲撃は、明らかに偶発ではなかった。敵の動きは訓練された部隊のそれであり、使用していた兵装も、帝国技術を模した極めて高度なものだった。だが、それ以上に蓮たちの胸を重くさせたのは、敵が何も語らなかったという事実だ。
――言えなかったのか、言わなかったのか。
「どちらにしても、敵は“誰かの意志”で動いていた。それも、帝国の動向をかなり詳しく把握している相手だ」
ミストが馬車内の簡易作戦盤に情報を並べながら、低く呟いた。
蓮は腕を組み、深く考え込んでいた。
「情報漏洩の可能性は?」
「本国からの直接漏洩の可能性は低いと思う。暗号通信は三重。帝都からの出入りも統制されてる。ただ……」
ミストは口を閉ざし、視線を外した。
イリスがそれを受け継ぐように、代わりに口を開く。
「私たち以外の“関係者”が、すでに帝国周辺の勢力に接触していた可能性がある。帝国を利用したい者、あるいは潰したい者がね」
「それも、相手は“外交開始”を阻止したい、という意図が明確だった。もしかすると……王国側にも何らかの内部工作が?」
蓮は目を細めた。
「つまり、俺たちを迎えるはずの“グラン・アルダ王国”内部で、すでに何かが起きているってことか」
「可能性は高いわ。王国の宗教派閥、軍部、あるいは貴族階級の間に“帝国を歓迎しない派閥”が存在しているのかも」
馬車が森の道を抜けると、はるか彼方に王国の大地が広がっていた。
太陽はまだ登りきっておらず、朝露に濡れる大地が金色に輝いている。
だが、その美しさの奥にある“静かな不穏”を、蓮たちは確かに感じ取っていた。
◆
王国南方――巡礼都市。
使節団が正式な王国入国のために立ち寄るべき、最初の関所であり、同時に“アルダ教団”最大の神殿が存在する信仰の中心地でもあった。
そこに到着した蓮たちは、想定外の歓迎を受けた。
「ようこそ。黎明帝国よりお越しの皆様を、フェオル・グレイスは心より歓迎いたします」
出迎えたのは、セリア=フェンリル枢機卿。
歳若くして教団の実務を統べる才媛であり、飴色の髪と柔らかな微笑を湛えた彼女は、まるで“理想の聖女”そのものだった。
蓮が礼を返しながら小声でイリスに囁いた。
「……正直、もっと硬い歓迎を覚悟してたんだが」
「私も。けれど、彼女の態度は“演技”ではない。少なくとも、私たちに敵意はないと見ていい」
だが、ミストは視線を落としたまま、ひとつだけ呟いた。
「歓迎の言葉が、どこにも“王国の名”を冠していない……」
◆
セリアの導きにより、使節団はフェオル・グレイスの迎賓館に招かれた。
市内の建築はすべて白石で統一され、天空を映すようなガラス細工が至る所にちりばめられている。
まさに“信仰都市”と呼ぶにふさわしい荘厳さがそこにはあった。
歓迎の宴では、清らかな音楽と共に、神聖舞踏が披露された。だが、蓮の目にはそれらがどこか“儀礼的”に映った。
まるで本質が、意図的に“曖昧にされている”ような感覚――。
「陛下」
セリアが歩み寄り、優雅に頭を垂れる。
「一つ、お話ししたいことがございます。できれば、お二人だけで」
「……わかりました。イリス、少しだけ席を外すよ」
「……気をつけて」
二人は別室に移った。
セリアは扉を閉じると、笑みを消して静かに言った。
「帝王陛下。グラン・アルダ王国には、二つの“顔”があります」
「……二つ?」
「一つは、外交儀礼に従い、帝国の使節団を受け入れようとする王宮。もう一つは、“神権独立”を掲げる急進的教団派閥……。その内部には、“帝国の存在自体”を神の意志への冒涜だと見なす者たちがいます」
蓮はわずかに目を細めた。
「昨夜の襲撃は、そちらの意志によるもの……かもしれない?」
「否定はできません。ですが、私たち穏健派は、帝国と手を取り合うことで“世界の再構築”に道を開けると信じています」
セリアの瞳は真剣だった。
「お願いです。この都市を発つ前に、アルダ神殿の主祭礼へご参列いただけませんか。あなたが“神に祝福される存在”であることを、信徒たちに示していただきたいのです」
「……危険じゃないのか?」
「……はい。正直に申し上げて、祭礼には“急進派”も潜り込むはずです」
「……それでも、やる価値があるというのか」
「はい。これは、ただの儀式ではありません。“帝国が人の手で築かれた正義である”と証明する、最初の扉なのです」
蓮は深く息を吸い、しばし思案した。
そして、静かに頷く。
「……わかった。その扉、俺が開こう」
◆
祭礼の当日。
フェオル・グレイス中央神殿には、万を超える信徒が集まっていた。
天空に響く祈祷歌。
純白の聖衣をまとい、蓮はイリスと共に神殿の中央へと進む。
手には、星霊の加護を受けた《創星の枝》。
神託に用いられる神具のひとつだ。
イリスが耳元で囁く。
「この枝が光れば、“神の加護がある”と見なされる。けれど、光らなければ――“拒絶”と見なされる」
「つまり、神の“形式”に従う以上、俺は博打に出てるってわけか……」
「でも、あなたならきっと大丈夫」
蓮は歩みを止めず、神託の台座へと進む。
全員の視線が集中する。
そして――《創星の枝》が、音もなく、淡い光を灯した。
――天頂から一筋の光が、蓮を照らす。
次の瞬間、神殿全体からどよめきが起きた。
「神の……加護が……!」
「帝国の王に……神の光が!」
セリアが両手を広げて宣言した。
「これぞ、光と理の証明! 黎明帝国の王・蓮・アークライト陛下に、主アルダの祝福が降りたもうた!」
だが、蓮は感じていた。
この光は、誰かの“意志”ではない。
まるで、“世界そのものが反応した”かのような、底知れぬ感覚だった。
◆
祭礼は成功し、都市の空気が一変した。
だがその夜、セリアは蓮にこっそりと伝えた。
「主祭礼は成功しました。しかし……王都からの使者が、あなた方の到着を“保留”と伝えてきました」
「……どういうことだ?」
「国王陛下がご病床にあり、外交判断がすべて“摂政評議会”に委任されていると……。そして、その評議会の筆頭こそ、“神権急進派の代表”」
蓮は、静かに拳を握った。
「つまり……王国との“本格交渉”は、これからってことか」
夜の帳が降りる中、使節団は再び出発の準備を始めていた。
平和への道は、まだ遠く、そして険しい。