にぶちん幼馴染のテレパシーが効かないラブコメッ!
前川想太は心を読める。
「明里、調子悪いだろ。休憩も練習の大事なメニューだぞ」
「うっさい長距離はあっち走ってろ! 予選突破できると思って調子乗ってるだろ! それに、タカセンに見つかったら私もサボってるって思われるだろうが、私は大丈夫だから! ――(くうー、想ちゃんが近くにいてくれるだけで癒される。左大腿二頭筋長頭の辺りに痛みが走るけど想ちゃんが来てくれて治ってきた気がする、ずっとそばにいてくれないかな)」
夏風明里はツンデレであった。
想太はその場でジョギングをするように足を動かしたまま明里を見下ろすように考え、詰め寄ると。 「でもな治ったと思い込んだ瞬間が最も警戒すべきなんだ何故ならそのまま放置してしまうと肉離れなどの炎症は再発しやすい故に完治しないで使い続けると故障し続けることになってしまうだから歩けないなら肩を貸すから恥ずかしくないから保健室に行くなり日陰で休むなりしてるんだでないと――」
「近い! 長い! うるさい!」
明里は想太を突き放すと足で砂のグラウンドに線を引きながら保健室の方へと向かった。砂をすり潰す音がした。校庭の中心では長距離のラップをとるストップウォッチの音が、校舎側では短距離組がミニハードルを広げて声を張っている。反対方面の塀に沿っては高飛びの砂が舞い、離れた位置で遠投組がメディシンボールの鈍い音を響かせる。本日の校庭は陸上部がの活気に満ち溢れていた。
「肩貸すよ、歩きにくそうだし」
「頼んでないし! ――(あー密着しちゃってるじゃん好き)」
「まあまあいいじゃない――(嫌われてなくて良かったー)」
前川想太は心が読める、しかし鈍感である、にぶちんである。
「想ちゃんってさ、自然な気配りが出来てなんでもお見通しなのにそれを自慢げにひけらかさないでサラッとやってのけるわけよ、世界はそれを優しさって呼ぶんだけど、気だるい目つき気にして目を合わせないとかで可愛いとこあんのよ」
「身長も高いし顔も申し分ないって感じで」
「まあそれはいいじゃない」
「女子の中でもほのかに噂立つくらい人気だよねー」
「まあ、それはいいじゃいない……そうなの?」
「明里の幼馴染トークは聞き飽きるほど聞いたけど飽きないな、あは」
明里は中学から知り合いの友人と机を間に談笑していた。昼休みは購買で買ったポテトの匂いが薄まってきた頃、油が回り始め塩気が強まってきた。
県立清峻高等高校のポテトは袋が小さい割に内容量が多い。制服の白シャツについた胸ポケットに収めるには少々窮屈だが、ラグビー部と野球部とサッカー部は無理やりねじ込む姿が目立つ。家に帰ったあとを想像すると、あんたの服は油臭いのよ、なんて弁当に入れた覚えのないポテトフライの匂いが洗濯機で二次被害を生むのだろう。
「ねえ、なっちゃん。想ちゃんってモテると思う?」
「その話してたよね? 振り出しに戻さないで、焦る気持ちもわかるけどさ。でも大丈夫だと思うよ、前川って中学の時に明里が思い切って手にぎった時も、なんだ寒いのかこれ貸すよ、って手袋貸してくれたじゃん、しかも予備のさ。どんだけ鈍いんだよ、にぶちん野郎、へっぴり腰へえ助!」
なっちゃんは頬杖をついて明里の胸ポケットに手を伸ばした。塩っけのきいた指を舐めるまでが美味しいのがポテトフライだ。
「真面目な話なんだけど、どうなの、想ちゃんのどこが人気なの!」
身を乗り出した明里の頬は赤い。なっちゃんは詰め寄った勢いでこぼれ落ちたポテトフライを掴んで食べる前に、彼女の鼻先にちょんと付けた。
「私は明里の気持ちが恵まれて欲しいよ。だから敢えて教えないし、それは明里がよく分かってるんじゃないって思うけど?」
明里は目の前のポテトを睨み、食べた。
「なっちゃん……ありがとう、そうだよね。自分で考えてみるよ、優しいところ……っていうのはあくまで親しくなって初めて知る想ちゃんのいいところで。周りの女子が噂するくらいだから意外と顔がいいよね、とかいってわかった気になってんでしょうね。でもあの気だるい目つきってのは外見に含まれるわけで、私が夜な夜な見返す写真も中身を知った上で外見を見てるわけだから私も同じくスタートラインに立っているってことになる!」明里は机に突っ伏した。
「勉強ができると回りくどくなんのかね?」
「恋は盲目だよー!」
「それ自分でいわないよ。そうだね、明里はよく知ってるからそれを当たり前に感じるんだよ」
「……というと?」重ねた腕から覗き込んでくる涙目はまるでご飯を待つ子犬のよう。
「明里は前川しか男子と話さないの?」
「そんなことないよ、他の男子とも話す」
「前川はどう?」
「話すよ」
「あー違う、前川も、だよ。前川も明里と同じで異性と話すこともあるの。学生してたら授業中のディスカッションとか行事で接点ができる」
明里は首を傾げている。
「前川が優しくて気配りできるって、明里だけが知ってるわけじゃないってこと」
「んがッ!」椅子が倒れた音にクラス中の視線が集まった。それに軽く会釈するように縮こまると、なっちゃんの耳元に囁いた。「独り占め出来てへんやん」
「なんで関西弁やねーん」なっちゃんは明里に手の甲を添えた。
夏風明里は焦った、体が火照った。
「明里から揚げいる?」
「げっ」驚くなっちゃん。
「ぎょッ!」驚く明里、体が猫のように逆立つと威嚇するように構えた。「どうしたの、想太」
「から揚げいるかなと思って」想太はから揚げの入った袋を差し出した。
「も、貰おうかな。ん、美味しいなこれ」明里はから揚げを頬張り手についた油をスカートで拭おうとした。
「待って、ハンカチあるから」
「ああ、ありがと。――(こ、これ使っていいのか……想ちゃんの私物、接触難易度S級ハンカチ!) ご好意に甘えさせて頂いて」
明里がハンカチを手に取ろうとすると、想太は引っ込めてから揚げを胸ポケットにおさめた。一度広げると畳直し、再び差し出した。
「これまだ使ってない、ズボンにも触れてない面だから――(危ない危ない、他人が使ったハンカチ使わせると思わせるなんて、流石に礼節がなってなかった)」
「んがー。――(早く受け取ればよかったァ) 気にしてないけどナッ!」強奪。
想太は気にしてやがる、と思いつつ指についた油を早く拭いたかったのかと渡した事にほっとした。
「あ、そうだ明里、足は大丈夫だったか?」
「ん、湿布貼ってるからイけるだろ――(湿布の匂い気にしてなかったけど匂ってないか)」
「にしてもから揚げって胸ポケットに入れてると結構、油っこい香りするな」
「――(大丈夫そうだ) あはは、そりゃその距離じゃな! 私のポテトフライも負けてないぞ、ほら、から揚げのお返しにあげるよ」
「お、サンキュー」
想太がポテトフライに標準を合わせた時、ふたつの考えが脳に伝わった。ひとつ、ポテトフライ美味しそう。ふたつ、ポテトフライが胸ポケットに入れられていることから必然的に、視点と、掴もうとする指が明里の胸部へと向かっていたことに対する危険信号。加えてふたつめにおいて、このままでは幼馴染に嫌われかねないという可能性と、変に意識することで嫌われかねないという可能性が浮かび上がる。
(ええい、どうにでもなれ!)
両者必滅。しかしポテトフライ美味しそうという今にして邪念となった思考が彼をニタニタ顔にさせる。ニタニタ顔で胸目掛けて手を伸ばす、変態と酷似している。想太は思考回路が途切れポテトフライに手を伸ばすことしか考えられない。
(……まずいまずいまずいよ!)
対して変態に迫られている、様に見える明里にふたつの考えが脳に伝わった。ひとつ、ポテトフライ美味しいよ。ふたつ、ポテトフライを胸ポケットに入れていることから必然的に感じさせる胸部を狙われている事に対する危険信号、による被害への対応。加えてふたつめにおいて、控えめながら抱いたコンプレックスからくる大山への異常な執着は戦闘本能を煽り立て、想太が近づいてくるという恋愛感情は明里の期待感をそそり立たせる。
(く、くる……臨戦態勢警戒!)
興奮共存。普段からシュミレーションしている
大阪・東京で勢力を拡大させる夢のテーマパーク二大拠点サークルをどのように攻略するのか、さらに妄想する恋人と過ごす理想の時間が明里を凶悪なニタニタ顔にさせた。
ニタニタ顔の決戦。
(ポテトポテトポテトポテトポテトポテト)
(いい加減に私の事意識しやがれェ!)
それは両者が満足する形で決着が着く。
想太はポテトフライを確保し、明里は接近に妄想が膨らむ。どちらも嫌われず、脳内が暴かれることなく、二人はのぼせた。
「何見せられてんだよ、私」なっちゃんは頬杖が止まらない。
放課後、部活動の声で賑わい始めた校庭ではサッカー部と野球部がじゃんけんで練習権を決めていた。ここまで二十二連勝中の野球部は部員が九人、県予選初戦突破のかかるサッカー部は意地でも練習がしたかった。野球部代表の近藤は心理学の本を読み漁りサイコロジストと呼ばれていた、成績は下から二番目。対するサッカー部代表の山岡はサイコロジスト近藤に打ち勝つために心理学の本を読み漁りサイコサイコロジストと呼ばれていた、成績は馬場を踏んでいる。「最初はチョキだ」サイコロジスト近藤の常套句である『宣言』はここまで百発百中、かつ文言も一緒である。「なら俺はグーを出す」サイコサイコロジスト山岡の常套句である『宣言』はここまで実行率百パーセント、かつ文言も以下同文である。サイコロジスト近藤の考えはこうだ、力んだ力任せの阿呆はグーしか出せない、心理学の一冊の片隅のオマケコーナーに書いてあった一文をずっと信じてきた。故にパーを出して二十二連勝を勝ち取ってきたのだ。が、サイコサイコロジスト山岡はバカだ。グーを出す、男に二言は無いのではない、嘘をつきたくないからだ。決着の時、近藤と山岡の一戦を固唾を飲んで見守る十八名はふかざされるグーとパーを待っていた。想定外であったのは十八名の中の一人、大きく息を吸い込んだ河田の動きだけであったろう。サッカー部の河田は心理学者を倒す心理学という本を穴があくまで読み、現に穴は空いた、クリティカルガンリキ河田は本に穴が空いた時、悟った。「そうだ、山岡にチョキを出させれば勝てる」と、成績は下から三番目であった。どん底の頭脳戦、どん底の頭脳戦はクリティカルガンリキ河田が肺に貯めた空気を吐き出したことで決まる。サイコサイコロジスト山岡は首が弱かった、否、首がわ弱すぎた。それはある日の冬練の帰り、マフラーの隙間風に身震いを起こすサイコサイコロジスト山岡をクリティカルガンリキ河田が見ていたのを覚えていたのだ。これしかないと思ったクリティカルガンリキ河田が吹き込んだ息はサイコサイコロジスト山岡の首をくすぐった。して身震いは握りしめた拳へと伝わり、二本だけ指を立てた、これがチョキの起源だ。二本だけ緩んだグーこそチョキなのだ。してやられたサイコロジスト近藤、今だ勝ちを把握出来ずにくすぐったいサイコサイコロジスト山岡は共に膝から崩れ落ちた。究極の頭脳戦はサッカー部の連勝阻止によって幕を閉じる、まるでゴールネットを揺らすように。
「今日は筋トレか、やっぱり足痛めてたんだな」
「うっさいな、私の事からかいに来たのか?」
世紀末じゃんけん大会を他所にグラウンドの隅でヨガマットを広げる明里の元へ想太はやってきた。
「俺も今日は筋トレの日なんだな」
「は、え〜? 長距離のみんな走ってるじゃんなんで――(凄く嬉しいんだけど)」
「いやあタカセンにベースを肺活量のランニングにして、各々で筋トレの日を設けた方が自分の体調と足りないところを鍛えられるんじゃないかっていったらさ、それでいこうかってこんな顔してオッケーしてくれた」
「ぷ。何その顔――(全然眉間にシワ寄ってないの可愛すぎる、アザラシみたい)」
「悪かったな呑気な顔で」
「いや、別に……わるくいったわけじゃ」明里の語尾は伸びたアザラシのようにすぼんだ。
「隣、もうちょい詰めて」
「なんでだよ、スペース余ってるのに」
「長距離が走ってるとこ見ながらしたいんだよ」
青い衝動に蹴られた砂塵が二人のいるコンクリートの手前で地面に吸われてゆく。手前には死角になる大きな倉庫があった。明里はそれから全身が隠れない位置にマットを広げていたが、隣を取ろうとする想太が彼女の傍に来ない限り彼の視野に校庭は映らない。
「後から来たんだから辛抱しろ!」
「ちょっと寄ってくれればいいじゃん、広いんだから」
「なんかヤダ、私先に居たんだから融通効かせるのは想太だろ」
「じゃあいいよ」想太は明里のマットに自分の用意した物をくっつけた。足元にタオルを被せたスポーツドリンクとストレッチポールを置いて準備を始める。
「ひょ、え、なんでそうなるんだよ! ――(ままままさかのぴったぴたにくっつく感じか!)」
「ごめん調子のった、ちょっと離すわ」
想太が砂一粒ほど話そうとしたところ、明里が蚊を叩きつけんばかりに想太のマットに手を叩きつけた。
「いいよ! 別に!」
「お言葉に甘えて……それならもうちょっとよってくれない、見えないから」
「ヤダ――(いくらなんでも譲ってたまるか)」
(図々しいが過ぎたか)想太は顔を出すのを辞めた。
体勢を変えるとコンクリートとマットの間に入った砂が息を吹き返す。仰向けに青い空を望み膝を立て腹部を覗けば腹筋、地に這うように砂子を探しフェンス越しのケーキ屋さんに並ぶ二百円のバスクチーズケーキと五百円のモンブランの格差を噛み締めたらば背筋、膝を伸ばした土下座を繰り返せば腕立て伏せ、どすこいどすこいスクワット、ストレッチをして筋肉を伸ばし疲れを次の日に持ち込まないようにしよう。
「よっこらせ」
明里は、想ちゃんよっこらせいうタイプなんだよなそういうとこも好き、と思いながらケーキ屋さんのモンブランに垂涎していた。マットが僅かにすり減る音がして、想太は明里に近づくようにうつ伏せになると両肘をついた。この場所で長距離練を除く事ができると分かると腰を浮かせた。
「プランクじゃん」
「ん、プランクだけどっ」
「もうキツそうじゃん」
「きっ、きっつくないけどッ」
「私もやろ――(想ちゃんと同じやつ)」
「左足、怪我してるだろ」
「つかないようにする、浮かしてやる――(想ちゃんと一緒)」
「じゃあ俺も左、浮かす」
「なに、対抗心燃やしてるのっ」
「おいおい明里、もうっ、キツそうだな」
「そ、想太こそ、意地張ってんでしょッ」
「プルプルッ、してるんじゃないのか、明里……プルプルプルプルプルプルプルプル」
「プルプルうるさいッ!」
なんだあの青春は、とマットをくっつけ合いプランクで切磋琢磨する男女を裏門の太い格子柵の隙間から柴犬に赤いリードを繋げて見ている青春童貞野郎渕西昭代六十四歳は見ていた、中央競馬場で働く渕西は火曜日の今日は定休日だ。後に定年退職祝いの帰りに立ち寄った、足繁く通う常連のバーのママと結婚する、相手は旧名渕東から渕西昭代となる。
「プルプルプルプルプルプルプルプル」
「笑かすのはなしだろッ、反則だッ……プルプルプルプルプルプルプルプル」
「プルプルプルプルプルプルプルプル」
「プルプルプルプルプルプルプルプル」
「「プルプルッ!」」
渕西の話の続きだが、柴犬の名前はバーシー。決して他意がある訳ではなく柴犬だからバーシー、日本犬なのにカタカナでバーシーだ。人懐こく大人しい性格のバーシーは渕西が還暦祝いの時に知り合いの保護犬活動をしている除尾海老真世に紹介されて迎えられた。寝る時は一緒、ご飯を食べる時も一緒、仕事場に一緒に向かい途中で除尾海老の元へ預け帰る時も一緒、こうして散歩する時も一緒、行きつけのバーに行く時も一緒なのはペット可のバーだからだ。ずっと一緒、渕西とバーシーは保護犬と里親という関係を通り越して家族なのだ。バーシーはケーキ屋さんのモンブランに向かってピンポイントで吠えた、物価の高騰とはいえ流石に高いと感じたのかもしれないが、モンブランは五百円はする。
「プップ、プル……プル――(プルプル、限界かもしれない……でも負けないぞ、想ちゃんと同じ……同じ舞台に)」
「プル……プルッ」想太には心做しか余裕がありそうだ。
「プル――(左足を庇って歩いたからかな、右も痛くなってきた)」
日に照らされて、時間が経って、体が滲みはじめる。重力に逆らえない汗が首筋から顎を伝い、頬を伝う一滴が唇にしょっぱさを感じさせた。マットの色が部分的に変わって、でもすぐに乾き出していた。
明里の頬は表面的に冷たく感じさせて、目の焦点が合わなくて、だけど体が硬直して動けと脳が信号を送れなかった。視界のフィルムが色を失って多重に重なった複数の色彩が調合しないモノクロを連れてきた。体の芯が冷たく感じると考えがまとまらない、限界は時に本能を降伏させる。
「俺の負けだァ」想太は腹を打ち付けるように音を立てた。「明里、飲んで」
ハッとした彼女は耳から色を取り戻した。すぐに崩れるよう横たわると大きく息を整える。差し出された水筒に手を添えて肩を落ち着かせると口に少量を流し込んだ。
「わ――(私の勝ち)」
「明里!」想太は明里の肩を掴み優しく揺すった。「熱中症だと思う、今飲んだの水?」
「え、ああ――(水)」
「これ飲んで、スポーツドリンク」
「うん、ありがとう」
「休憩しに日陰いこう、歩けそう?」
「うん」
「肩貸すからさ、ほら」
「ありがと」
(なんでもっと早く止めなかったんだよ俺……明里が頑張り過ぎるの知ってるくせに)
小さな声も、大きな後悔も、伝わりすぎない距離が青春なのかもしれない。か弱く思える背中に回す無骨な腕に体重がかかるのは相手を信頼しているから、とひとつの理由だけではないらしく。
(か、かか)
明里の頬は林檎が熟れていくように赤みがかってゆく。異なる歩幅でありながらペースの合うあべこべな二足を目で追いかけていた。
(間接キスじゃないかッ!)
照れる明里を他所に、失念に悩める鈍感な想太は考え過ぎていた。
どうしようか、筒抜けた個室で想太は頭を抱え蹲った。水の流れる音がした、誰かが手を洗っていて、夢中に放り出された小さな水滴がブロック柄の地面に馴染んだ。誰かが体から大量の液体を放出していて、それが流される音がするも、想太は耳を塞いで誰かが来ても来なかったことにした。
「想太どこいんのかな」クラスメイトの北道が彼のことを探している。「あいつまたトイレにこもってんだろ、昼練する約束すっぽかしやがって」足音を立てるように歩いた。「おい」
想太はハンカチを顎に挟み手を洗っていた。「悪い、腹痛くてさ」
「お前さ、逃げるなよ。もうすぐ県大会なんだから、練習もラストスパートかけてきつくなるだろうけど、みんな勝つために練習してる――(弱気な想太に勝っても勝った気しねーしな)」
「そうだよな、ありがとう北道」
「行こうぜ」
前川想太は心が読めて、彼の事は悪い人ではないと知っている。差し伸べた手を取ろうと思わないことには理由がある。県大会から全国大会に出場できる人数が上位六名であり県立清峻高等学校は県内屈指の陸上強豪校であることから県大会の出場者が多く、他校を含めると上位六人という出場制限の壁が立ちはだかる。本校からは毎年、全国大会へ出場する生徒が現れるも、多い年で三人と決して門は広くない。
想太は周りの声を意図せず聞いてしまうが故に、悪意を直接受け止めていた。
「お疲れ様です――(この人やる気ないくせにタイムだけはいいんだよな)」
「お疲れ様です――(絶対に勝つ)」
「お疲れ様です――(俺が勝つには前川さんが衰えるしかないのに)」
「お疲れ様です――(サボってる奴には負けたくないってか棄権してくんないかなー)」
「んゲェっ!」
「大丈夫か想太、ほんとに体調悪かったのか!」
想太は吐いた、噛みきれず飲み込んだ溶けかけたポテトフライが萎れていた。彼に手を差し伸べるように集まる赤いジャージが、空を飛ぶ鳥には花に見えたのだろうか。肩を借りて気だるい体を無理やり動かす。
(わかってる、仲良しこよしで部活やってるんじゃないって。でも、聞こえてくる声が気持ち悪いんだよ、黙っててくれ、俺の事なんて無視すればいいだろ――ああ、俺も……心が読めなくてもお前らと一緒だったのか)
保健室に運ばれた想太は仕切りのある空間で仰向けになった。安静に疲れを取るはずのベットが嫌に固く感じて居心地が悪い、天井に空いた防音の小さな穴が視界を覆い尽くして目が回る。
「また吐きそう」
毛布を払いのけて横になった。想太は心が読めるゆえの葛藤に頭を抱えた。
もう慣れただろ、心の中の彼はいう。そんなものに気を取られるのはもうやめたはずだ、とも。そして咳き込んだ、大きく、長く。
「……誰かいますか」
声が聞こえるまで想太は気が付かなかった。だけど気がついたことがあった、声に聞き覚えがあった。
「明里?」
「あれ、想太なのか?」
パーテーションの金具が擦れる音がして、目の前には見知った顔がいた。
「大丈夫か、具合悪いのか?」
「明里こそ」
「私は保健室の先生に用があってな、でもいないみたい。それよりなんだその格好――(赤ちゃんみたいに丸くなってる)」
手が沈んでいく、支えて腰掛けるように体を起こした。想太は上目に明里を見つめた。
それだけはしないように気をつけてきた、なぜならされて嫌な事だとわかっていたからだ。しかし塞ぎ込んでいた気持ちを表面に出すことは難しく、溢れ出るのは自分の嫌いな感情ばかりだった。もうどうにでもなってしまえと、少しでも考えたことを後悔して、もう遅くて。自分のことをどう思っているのだろうか、以外に考えられなかった。
想太は明里の考えていることを覗きみようとした。
(そんなに可愛い顔で上目遣いされたら堕ちちゃうよ……何で何も喋らないんだ、早く間を繋がないと吸い込まれる……想ちゃんに吸い込まれる!)
「あはは、吸い込まれるってなんだよ」
「え」
「あ――(良い笑顔)」
言葉はこぼれ落ちていた。偶然にもセッティングされた二人だけの空間に思いが転がる。ひとつは驚きと、興味。
「あれ、口に出しちゃってた……?」
明里は気を張っていたのにと頭を人差し指でなぞった。困惑に表情がかげっていって、口角は雲に引っ張られている。
「気にしなくていいから」想太は再び横たわると彼女に背を向けた。
「気にしなくていいからって……想太、悩んでることあるだろ」
「なんでそう思ったんだ」瞳孔がじんわりと広がって、耳が傾いた。
「聞いちゃったんだよ」窓から雲が流れると晴天に思えた。「後輩たちが想太を悪くいってるの」
「ああ……そうか」
明里は想太の足元に腰を下ろした。
「北道が喝入れてたな」
「え、北道が?」
「無駄な話するなら練習して結果出せってな。そりゃそうだよな、結果も出してないのに人の失敗ばかり望んで自分が成長した気でいるなんて、人間として成長出来るはずがないよな」
「なかなか辛辣だな明里」想太は上体を起こすと彼女の隣に足を着いた。「そっか、北道が。あいつずっと俺の事ライバル視してくれててさ、昼練する時は誘ってくれて、いいやつだよな」
明里は想太の項垂れた横顔に目を向けた。そして背中に手を合わせた。
「ほら、元気だして!」明里は笑顔で覗き込んだ。「負けられなくなっただろ、いい結果出そうッ!」
いつも明里は励ましてくれて、笑顔で、元気で、自分にない感情を引き出してくれる、想太はそう考えて拳を振り上げる彼女を見上げた。そして微笑ましくなって、胸の奥が温かくなって、だから伝えないといけないと思った。無理をしてでも晴れた気持ちを忘れない彼女のことを、彼はよく知っていたから。
「怪我が、治らないんだろ」
心の底から湧き上がった笑顔はまるで張り付けたように色が落ちていった。明里は拳を下ろした。彼女は俯いた。
「想ちゃんはいつも、なんでもお見通しだな。でも大丈夫! 無理はしてないし、休養もちゃんと取って」
「明里がいったんだ」想太は言葉を遮るように話し始めた。「俺、覚えてるよ。中学で一緒に陸上部入った時に、二人て全国大会に行こうって、明里がいってくれたこと」
明里は目を丸くして耳を立てた。どこか安堵しているように見える。
「怪我のこと考えないようにしてる」
想太の言葉に明里は首を横に振った。
「治らないと練習できない。練習できないってことは成長もしない!」
「足を使わないように練習したの見ただろッ! ていうか一緒にプランクしたじゃんか、忘れたのか!」
「家帰って無理して足使ってるだろ!」
「なッ、なんでそれを!」
「明里が頑張ってるのはよく知ってる!」高まる熱量をぶつける想太、明里に向き合うと肩を掴んだ。「朝練ない日は早起きしてランニングして、休みの日もウェイトトレーニングは欠かさないし、誰よりも練習に熱心で……努力を怠らない! 明里が真剣に陸上と向き合ってるの、俺が一番知ってる!」
「ナナナ、ナニ知った気になってるんだよッ!」
「ずっとずっと、バレバレなんだよ! 俺は――人の心が読めるんだから!」
目の前の熱情は盛っていて、あまりの直球さに髪が乱れてしまうほどだった。固まった視点には後悔と願いを首にかけた想太の後頭部が映って、明里はいわれた事を整理するには追いつかない情報を与えられた。
「そ、それってさ。私の考えてること、全部見られてたってこと?」
「そう……」
「じゃあなに、私が怪我してるのにコソ練してるの知ってたのは、そういうこと?」
「それもある、でも明里はわかりやすいから、それがなくても分かってたかも」
「わっ、わかりやすいってなんだ!」
空回りした声が裏返る。明里は必死に冷静を保ち想太の返答に勤しんでいたが、目の奥は笑っていなかった、目眩がしたように視界が円を書いていた。
(ももももしかして、私が想ちゃんのこと好きってのも、ずっとずっと知ってたってことか……? ならなんで想ちゃんは冷静でいられるんだッ! 私は浮き足立って顔もまともに見られないのに! ……はッ!)
「ごめん」
明里から想太はしおれて見えた、日を跨げば葉先の色が落ちて薄く茶色を伸ばし枯れてしまわないか心配になった。
「なあ……いつも隙を盗んで私に会いに来てくれるのは、皆から嫌な気持ちを感じていたからなんだよな?」
「そう、だけど。それだけじゃ」
しりすぼみな音は細い糸ながら耳に入っていった。
「それだけじゃない気が……今わかった気がする。心読めること話したら距離置かれるだろうって思ってたけど、明里にそんな心配するなんて杞憂だった。気が付かなかった訳じゃないけど、気が付かない方がいい気がして蓋してたんだ……俺も」
「俺も?」
「俺……も好きなんだ、明里のこと。だから気になって仕方なかった。心読めること打ち明けてハッとした、明里、俺に対してやけに好意的なこと思うんだなって感じてた。でも違ったんだな、明里は俺の事」
「ちょちょちょいっ、んな読み切った恥ずかしい事いうなよ! 私の思いが筒抜けじゃんか!」
「はは、もう筒抜けてもいいんだろ」
「あ……そうだな――このっ」
思い詰めて無理をして進んだ道のりは、要所要所で休息を経ていつの間にか進んでいた先に振り返ると、後ろににいるのかもしれない。
少しづつ積み重ねて、一気に距離を縮めないでいる方が結果を受け入れやすいのだろう。
予鈴がなって本鈴が鳴るまでのあいだ、慌ただしい生徒が階段をかけ登り、移動教室で締め出される生徒も散見された中。空には雲ひとつなかった、青さの先からひとつの窓を覗けば、肩を寄せ合うふたりが見えた。
「にぶちんめっ」
「しゃー今日も練習頑張るぞー」
前川想太は心が読める。
「お願いします――(今日は気合入ってるなー)」
「今日だけじゃないよな」
しかし心が読めるゆえに苦悩することがあった。
「ありがとうな北道、おかげ様で本腰入った。もう手は抜かない! 真剣に走って、真正面から勝って、有無は思わせない」
「夏風、怪我治ったんだな。そういや昼飯、一緒に食べたいって人づてに聞いたけど」
「明里が? そうか……じゃあ、昼練に誘うか!」
そして最後に、にぶちんである。