004.プロローグ 4/4
それからつつがなく授業が終わり、ホームルームを終えて先生が教室を出ていった。
それを合図に教室の雰囲気も緩み、雑談や帰宅準備をする音が教室に響く。
「っしゃ、帰ろーーえっ、あれ?あ、足が……」
そんな中、誰かがそう呟いた。
「え、は?ちょ、何これ?!」
その数秒後には、教室に混乱の声が広がっていく。
「足が動かねぇ!なんだこれ?!」
原因は、こういう事だった。
まるで粘着剤で固定されたように足が床から離れない。
誰もがその場から移動出来ず、混乱の声は段々と悲鳴染みたものに変わっていく。混乱が混乱を呼び、完全にパニック状態だ。
そして。
「うわぁっ?!床が光りだした!?」
前触れなく、ぼんやりとした光が教室の床に広がる。
机や椅子で分かりにくい上に、混乱に満ちた生徒達では気付かなかったが、その光は幾何学的な紋様を描いておりまさに魔法陣といった形をしていた。
「おぉ、これは写真撮っとかないと。ははは、番組とかに送ったらお金もらえないかな」
パニック状態の教室の中、足のみの拘束で手は自由な事に気付いた凪は、混乱を通り越して逆に冷静になっていた。いや、笑顔で写真をパシャパシャ撮ってる時点で冷静ではないかも知れないが。
そうしている内に、ぼんやりとした光が段々と強くなっていく。
いよいよ目を開けているのも辛くなってきた頃、ガラッと音を立てて勢いよく扉が開いた。
教室にいる生徒達全員が縋るように視線を向けると、そこには眉尻を吊り上げた凛が勢いよく入ってきていて。
「透先輩に浮谷先輩!ちょおっとお話したい事があるん何ですかこれぇ?!え、魔法陣?!異世界召喚?!チートでかわいい聖女な私爆誕っすかぁ?!」
勢いよく混乱し始めた。きっと彼女のアレな発言も混乱のせいだろう。
ともあれ、意外にも核心をつく言葉に、凪は納得と共に反射的に声を上げる。
「冬野!すぐ教室から出ろ!」
「凛って呼べって何回言わせるんすか! てか足動かないんすけど?!鼠取りに捕まった鼠ってこんな気分なんすか!?」
「バカ、女子が自分を鼠に例えるな!それと普通この状況を例えるならゴキ」
「ちょおい!それ以上言ったら凪先輩でも許さないっす!」
とか言ってる内に、一際眩しく魔法陣が輝きーー教室から、生徒が消えたのだった。
これが後に今世紀最大の謎とされた、学生大規模失踪事件となるのだが、これはまた別の話。
「ふぇえ………まんま小説っすね、これ」
「まぁな……でもあれ神様か?なんかぼんやりとした光にしか見えないんだけど」
上下左右、全てが真っ暗闇の空間。その中でポツンと存在する光る円形の床。
その床の上に生徒達は教室にいた位置のまま立ち尽くしていた。
よく見れば円形の床が魔法陣と同じ大きさだと気付くだろうが、そんな些細な事を気にする生徒は一人としていない。
誰もが呆然と立ち尽くしていた。先のやり取りをする凛と凪を除いて。
人間、混乱を通り越すと黙るのだと分かる風景だ。
ーー1人、多い
そんな中、突如空間にぽつりと響く声。
いや、声というよりは意思、だろうか。耳を通したものではなく、脳に直接意味だけを伝えさせられた感覚。
その不慣れな感覚に気分を悪くさせつつも、誰もが口を開けずにいる。
それでも本能的に状況を把握しなければと意識を声へと傾ける。
ーー1人、指定より多い。力を、届けられない。……世界の壁も、越えられない。
意味が分からず混乱する生徒たち。
そんな彼らにとって、続く発言はあまりにも無常だった。
ーー1人、選べ。その1人は、自力で壁を越えよ。よほど運が良ければ、生きて辿り着く。
よく意味はわからない。
わからないが、しかし雰囲気で伝わるものがある。
誰か1人、運が良ければ生きれる。
つまり、運が悪ければ死ぬのだと。
「ッや、柳を落としてくれ!」
「そ、そうだ!柳だ!」
「そうよ!丁度良いじゃないッ!」
……そうなると、当然こうなる。
最早狂乱とさえいえる程に、唾を散らして喚く生徒達。
「そ、そうよ!その性犯罪者が落ちなさいよ!」
「そうだな。それがいい」
数人の声だった指名も、三大美少女などと呼ばれる秋宮と、カーストトップの天城が加わった事で一気に広まった。
あっという間にクラスの大半が落ちろと叫ぶようになる。
「え……」
「嘘、なにこれ……」
そんな中で呟かれた小さな声など、誰の耳にも届くはずもない。
一方あまりの光景につい呆然とした凛と武史、文也。
しかしすぐにこれは不味い、と我に返って反論しようとしたが、その一瞬の遅れはあまりにも致命的で。
ーーでは、ヤナギ・ナギ。落ちよ。
「………ハッ」
宣告を受けて力無く自嘲する凪は、しかしその目に感情のカケラも宿していない。
全てに失望したような顔で、能面のような生気を感じさせない表情で、底なし沼のような昏い瞳で、彼は唇だけを歪ませて嗤う。
次の瞬間、凪の足元だけフッと光が消えた。
それに伴い、重力に引かれるように彼の体が落ちる。
謎の声の主の即決即断ぶりに、こんな時だというのに凪は少し感心さえした。
「っせる、かぁ!」
その瞬間、飛び出したのはすぐ近くにいた凛だった。
歯を食いしばり、倒れるように駆け出して、限界まで手を伸ばし、落ちようとする凪の服を掴む。
「っぐぅっ?!」
かろうじて間に合ったが、男子1人の体重を支えられるはずもなく。
地面に這うようにして引きずり込まれないように耐えるが、掴む所もないのでズルズルと引き込まれていく。
凪を掴む手も、落ちまいと踏ん張る力も、どちらもあっという間に限界が近付く。
「……離せって」
その状態を即座に察した凪は、温度を感じさせない声音で告げる。が、凛は歯を食いしばって返事こそ出来ないが、一切離す気はないと必死に掴んだまま。
「……」
ほんの1秒の思考の後、凪は自分の襟あたりを掴む凛の腕を解こうと手を伸ばす。
それを察した凛は、血を吐くような勢いで叫んだ。
「ダメッ、ダメです!誰か!誰か助けてっ!!」
どうにか首を捻って周りを見やるが、天城をはじめとした大半はポカンとした顔で呆然としていた。
武史と文也は、必死な顔で、今にも泣きそうに顔を歪めながら、足を両手で掴んで動かそうとしている。
「ッくそがぁああ!!動けやぁあ!!」
武史の溜まりかねた雄叫びが轟く。
その声で、どうやら教室にいた頃と同じように足が拘束されたのだと気付いた凛は、何故自分が動けたのかという疑問が浮かぶも即座にそれを捨て去る。
びきり、と嫌な音を立てて軋む手は、筋力の限界でブルブルと震え始めており、もう長く彼を掴んでいる事は出来そうもない。
ならば、と閃いたと同時に、凛は光るナニカを睨むように見ながら口を開いて叫ぶ。
「っ、私が代わりに落ちるから!私が来たから1人増えたのッ!私が落ちるべきなの!だから変えて!早くッ!お願い!!」
「……はは、このおバカ。ここは俺に任せて先に行け。帰ったら俺、幸せになるんだ。その時は一緒に酒でも飲もう。なぁに、大丈夫だ、問題ない。俺が死ぬ訳ないだろ?」
「怒涛の死亡フラグやめろバカぁあ!」
「てなワケで、また後で会おうな、凛」
「っ!」
パシン、と酷く乾いた音と共に凛の手を弾いた凪は、真っ暗な空間へと落ちていく。
その姿を呆然と見送りながら、凛は手を伸ばした体勢のまま動けない。
「……このタイミングで名前呼びとか、何で最後まで死亡フラグ詰め込んでるんすかぁ…」
実にあの先輩らしい。
らしいけど、とても笑える気分にはなれない。
ポロポロと溢れる涙が、凪を追い求めるかのように暗闇の空間へと落ちていく。
「っ、凪ぃいい!!」
「くそッ……!!」
ガァン!と光る床が揺れるような轟音。
静かに涙する凛以外が本能的に視線を向けると、這いつくばるような体勢で血が滲む拳を地面に叩きつけている武史がいた。
よく見れば、武史も、そして文也も、両脚が掻きむしったかのように痛々しく血が滲んでおり、手も血に汚れている。
必死に、足を動かそうともがいた跡だった。
「っ……ま、間違ってない、よな?1人死ぬなら、あの犯罪者しかいないよな?」
あまりに痛々しい武史と文也と、そして見るだけで悲痛さが伝わる凛を見て、誰かが耐えられなくなったように呟いた。
「そう、だよな……」
「う、うん……」
ポツリポツリと、それを肯定する声が上がる。
しかし、いつもならすぐに勢いづいて合唱のように貶めるのだが、今回は弱々しい勢いのまま。
これはもしもの話だが、ここに鏡があればきっと驚嘆した事だろう……自分が浮かべている顔が、どれほど醜く歪んでいるかを知って。
それを見ずに済んだ事は、彼らからすれば幸運だったのかも知れない。
「……ざけんな…!」
漏れ出すような呟く声。
ガリ、と噛みすぎて鳴る歯。
ぶちり、と握り締めて皮膚を貫く爪。
その小さく漏れ出た言葉に込められた異様な気迫に、誰もが顔を向けた。向けてしまった。
集まる30人近い年上の男女達の視線に怯むどころか、睨み殺さんとばかりに極寒の視線を向ける彼女、凛へと。
「冤罪だったんですよ、凪先輩」
唐突の宣告に、目を丸くして絶句する生徒達。何人かが反射的に口を開きかけて、
「全部浮谷先輩の嘘、虚栄と保身の為の生贄にしようとした。……助ける為に頑張ったのは、凪先輩一人だけ」
しかし疑問や否定の言葉を挟ませる気すら、彼女には毛頭ない。
「そんな醜い嘘を思考停止して信じて」
涙の跡が残る光のない瞳。
それはまるで人ではない何かを見るような、酷く冷たいもので。
スッと静かに睨まれた天城は、その迫力に体をびくりと硬直させた。
「本当に助けた人を貶めて、弾劾して……殺した」
次に見据えた春山、夏沢、秋宮も、体を跳ねさせた。
「ッそ」
「今更」
思わず口を開いた夏沢に、しかし凛は言い訳も、例え懺悔だろうと言わせる気はない。
意見を聞いた上で叩き潰してもいいが、こんな相手にくだらない言葉の応酬に付き合う気にもなれない。
「……今更、何言うつもりですか?……先輩を殺したあんた達が」
故に、行うのはただ一方的な冷たい宣告。
クラスメイト達も、凛の言う事が真実かは分からない。しかし、あまりの迫力と否応なく伝わる強い感情が嘘の可能性を押し潰していた。
結果、誰もが凛の視線から逃れるように顔を背けた。
この時、俯いていた武史は顔を上げた。
そして凛を見て、ふと思う。
(……まるで、凪だな)
激昂するタイプだと思っていた。現に教室にブチギレて乗り込むくらいには怒りを燃え上がらせるタイプだ。
しかしこの怒り方は、まるて凪のようではないか。
まるで親友が乗り移ったようにすら見えて、つい呆然と魅入る。
そして凛とふと目が合うと、彼女はくしゃりと顔を歪ませた。
ポロリと、涙の跡をなぞるように涙が溢れる。
彼女から発せられていた、張り詰めた空気は霧散した。……彼女の張り詰めていた精神が限界を迎えたのだ。
その場に崩れ落ちて顔を両手で押さえて、静かな空間でなければ聞こえないような、しかし酷く痛々しい小さな慟哭。
「っ……!」
その姿に現実を突きつけられた心地になったせいか、武史も、そして文也も再び俯き、ついに涙を流す。
酷く重たい沈黙の中、ただ彼女の悲痛な慟哭だけが響いていた。