第10話・近江・坂本
pixivに投稿した作品を修正・加筆したものになります。本能寺の変前後の1ヶ月を全18話にしました。
第10話・近江・坂本
ねねが長浜城からの退去を進めている午前11時30分。京都では光秀が、投降した所司代の役職者と信忠の諸将、信長の馬廻り衆の頭を、まだ燃えている二条城前に集める。
光秀 「例え織田であろうが、明智であろうが、所司代の使命は京の治安維持であり、その任務に違いは無い。この度の混乱により、残党狩りと称して野党紛いの押し込み、狼藉が起きるだろう。所司代の者は今まで以上に責務を果たせ。上様の馬廻り衆と信忠様の諸将も所司代に協力するのなら、責めは問わん」
光秀の言葉に、厳しい処罰を覚悟していた一同は唖然とする。
馬廻 「我らは織田の家臣ですぞ。よろしいのですか?」
諸将 「我らを信じると?」
光秀 「お前達は私を信じたからこそ、刀を捨てて城を出たのだ。そのお前達を、私が信じないでどうする」
顔を見合わせる織田の諸将
馬廻 「そ、それは、そうですが・・・・・」
驚きで言葉が続かない。
諸将 「もし、隠れ潜んでいる織田の家臣を見つけた場合、我らは見逃すかもしれません。それでも、よろしいのですか?」
光秀 「洛中が安泰であれば、それでよい。お前達の判断に任せる」
この男は本気で言っているのか?皆、光秀の言葉が信じられなかった。
光秀は落ち着いた表情で一人一人を確認する様に見ている。
本気だ。光秀の言葉に偽りは無い、と感じた織田の諸将は意を決する。
諸将 「分かりました。我らは明智様に刃向かうではなく、また、お味方になるでもなく、所司代と共に京の治安維持に務めます」
光秀 「うん。宜しく頼む」
光秀は本能寺と二条城の片付け、亡骸の弔いを命じ、投降した織田の将兵を所司代に任せる。代わりに所司代は、京の南を守る勝竜寺城と淀城を光秀に開城する。
馬廻り衆がすぐさま本能寺へ向かうと、門の前で異変を聞き駆け付けていた信長とは兄弟同然の阿弥陀寺の清玉上人が明智の兵に阻まれ、おろおろとしながら気が気でない中の様子を伺っていた。
馬廻 「上人!御い出ででしたか」
上人 「お、お前達は・・・・・」
信長の馬廻り衆が来た事に驚く上人
馬廻 「詳しい事は後でお話しします。とにかく、中へ」
馬廻り衆は明智側から本能寺の後始末を引き継ぎ、上人と共に中へ入り、信長がいたであろう書院へ急ぐ。焼け落ちた書院の前には検分の終わった亡骸が並べられていた。既に解放されていた坊主達がお経を唱え、死に切れなかった小姓達が泣き崩れている。
馬廻1 「全ては我々の責任だ。お前達が咎められる事は無い」
馬廻2 「相手は明智様だ。お前達は頑張った」
馬廻3 「よく、生き残ったな」
小姓達を励ます馬廻り衆。
状況を全く理解できない上人は馬廻り衆と明智の共謀を疑う。しかし、馬廻り衆から変後の説明を受け、納得して大きく頷く。
上人 「何と大胆な。しかし、如何にも、明智様らしい合理的な判断じゃ」
上人は連れて来ていた僧徒達に命じ、馬廻り衆と共に弔いの為、本能寺と二条城の亡骸の搬出を始める。
上人 「ところで、明智様は、上様の御首級を見付けたのでしょうか?」
馬廻 「晒していないと言う事は、まだ見付けられていないと思います」
上人 「すると、上様の事です。巧く逃げ遂せているのではありませんか?」
馬廻 「我々もそう思いたいが、相手はあの明智様です。上様を取り逃がす様な事は無いでしょう」
沈痛な表情の清玉上人。
書院の下は首が埋められていないか調べる為、燃え残った柱や棟が取り除かれ、多くの穴が掘られている。諦め顔で焼け跡を見る上人。
馬廻 「鬨の声を聞いた時には、既に燃え上がっていました。上様は直ぐに自害され、油を撒いて火を点けたと思われます」
上人 「相手が明智様と分かった時点で覚悟を決められたか」
馬廻 「首が晒される事だけは、何としても避けたかったのでしょう」
上人 「これだけ探して見付からないと言う事は、崩れる棟に圧し潰され、燃え尽きてしまったに違いない」
焼け跡に向かい手を合わせ、大雑把に片付けられた廃材をジッと見ている上人
上人 「馬周り衆の方々」
悲痛な表情の馬周り衆に命じる上人
上人 「燃え残りの中から最も損傷の激しい亡骸、いや、どの様に小さくても、亡骸と思われる物を探して下さい」
馬廻 「この中からですか?」
上人が観ている廃材を諦め顔で見る馬周り衆
上人 「柱か棟や梁に何か付いていないか、よく探すのです」
ハッ!と、何かに気付いた様に焼け残りを移動して探し始める馬周り衆
炭と化した大きな梁に、木の燃えカスとは違う何かが張り付いているのを見付ける。
馬衆 「上人、これは!」
上人 「恐らく、それが上様じゃ」
時間が止まったかの様に全員の動きが止まり沈黙する。静かに合掌する上人。あちらこちらからすすり泣きが聞こえ始める。
光秀は信忠の将兵に隠れている者が出て来易い様、織田の旗指物を差して洛中の探索をさせる。そのお蔭で、警戒をして潜んでいた多くの織田の将兵と、京に残っていた徳川の家臣や、織田家臣団の京屋敷にいる家来達が不思議に思いながらも出て来たので争いが起きる事は無かった。
しかし、当然の様に
「お前達は上様を守れずに明智に従うのか!」
「一矢報いるべし!」
と、隠れていたにも関わらず威勢を挙げる者達がいる。しかし、信忠の将は
「相手は明智様じゃ。今は時期尚早。僅かな人数でどうする。時を待て」
と言って鎮める。
光秀は無理攻めをしていないので負傷者こそ出したが戦死者は皆無に近かった為、斎藤利三を大将にして本能寺へ攻め込んだ1000と二条城を包囲した5000、勝竜寺城と淀城の明け渡しを受ける1000の合計7000を京に残し、残り9000を率いてその日の午後、近江の坂本城へ向かう。
しかし、その途中、光秀は思いもしない知らせを受ける。
前方より慌ただしく駆けて来る物見
物見 「申し上げます!」
光秀 「何事じゃ」
物見 「勢多城の山岡景隆様、瀬田橋を焼き、甲賀へ逃亡!」
光秀 「山岡殿が?」
臣1 「山岡殿は上様と特別親しい訳でもなく、これといった恩も無い筈」
臣2 「我らが攻めて来ると思ったのでしょうか」
光秀 「早まった事を」
臣3 「湖東へ向かうには瀬田橋はなくてはならない橋。困りましたな」
光秀 「困っているのは我々ではない。勢多の領民だ」
臣1 「安土への進軍を止めたつもりでいるのでしょうか」
臣2 「浅はかな奴じゃ」
光秀 「応急で良い。直ぐに修復に取り掛かれ」
臣2 「はッ!」
臣3 「迂回する事も出来ますが、よろしいのですか?」
光秀 「焦らずとも、2,3日の遅れは問題では無い」
臣2 「畏まりました」
光秀は黒鍬衆だけではなく、足軽達も修復の手伝いに向かわせる。
夕刻、坂本城に到着する光秀。留守居の者達が歓喜して迎える。
その夜、城内では盛大な酒宴が開かれ、信長を討ち、光秀が天下人になった事を喜び、夢を語り合う家臣達で盛り上がっていた。
臣1 「まずは殿!おめでとうございます」
臣達 「おめでとうございます!!」
臣2 「いやいや、ただの殿ではないぞ。これからは上様じゃ!」
臣3 「天下様じゃ!」
豪快な笑い声が御殿に響く。
臣1 「それよりも殿。水臭いですぞ」
臣2 「そうじゃそうじゃ。我らに何の相談も無く決められるとは、我らを信用されておらんのですか!」
臣3 「そうは申しても、殿が京へ行く!と聞いて、一番驚いておったのは、お主ではないか」
臣2 「そうだったか?」
臣3 「今更、何を言っておる」
喜びを抑えきれない家臣達
臣1 「それはそうと、流石は殿。此度の決行、良くぞご決断なされた」
臣2 「我ら、余りにも巧く行き過ぎて怖い位です」
臣3 「どうか我らにも、殿の御決意、聞かせて頂けませんか」
臣4 「斎藤様にだけとは、勿体のう御座います」
光秀 「この度の決意か?」
臣達 「はい!」
光秀の発言に注目する家臣達
光秀 「そうじゃのう。敢えて、一言で言うなれば」
臣達 「言うなれば」
光秀 「ゆっくり休みたい。それだけじゃ」
臣1 「ゆっくり休みたい、とは・・・・・・」
臣2 「どう解釈してよいものか・・・・・」
光秀 「もう、誰にも、囚われる事は無い」
怪訝な表情で顔を見合わせる家臣達
光秀 「ワシは、自由なのだ」
臣達 「はぁ?」
勇ましい言葉を期待していた家臣達は光秀の言葉に戸惑う
臣1 「要するに、殿が上様じゃからのう」
臣2 「全ては、殿の御心次第」
臣3 「成る程。誰にも囚われる事が無い、と言うのは、殿が全てを決める、天下を治める、と言う事ですな」
臣4 「それなら分かり易い!」
臣1 「殿!いえ、上様!我らは、何処までも付いて行きますぞ!」
酒を一気に飲み干す家臣達。女中達が次々と酒を運んで来る。
女1 「殿。この度はおめでとうございます」
酒を光秀の前に置く女中
臣1 「こらこら。お前達、言葉を慎まんか!これからは殿ではない。上様じゃ。よいか。上様と呼ぶのじゃぞ」
女2 「上様、ですか?」
臣2 「そうじゃ。上様じゃ!」
女1 「上様・・・・・」
女2 「何だか、恥ずかしゅうございます」
光秀 「いや、かまわん。今まで通り殿で良い」
臣3 「謙遜なされるな、上様」
豪快な笑い声が途絶える事はない。
光秀は笑顔で答えているが、その笑顔に影を感じ、光秀の横に座る秀満。
秀満 「殿」
光秀 「ワシの心配か?」
秀満 「家臣達を動揺させない様、御心を確りとお持ち下さい」
光秀 「分かっておる。分かっておるのだが、上様を討った事で、一気に気が抜けてしまったのだ」
秀満 「本当に大事なのは、これからですぞ」
光秀 「うん。しかし、その事は、明日からでも良かろう」
秀満 「明日からでよろしいのですか?」
光秀 「今宵は何もかも忘れ、酔いつぶれるのも良いのではないか?」
秀満 「そうですな。今宵は、何も考えず、酔いますか」
光秀 「うん。そうと決まれば」
周りを見渡す光秀
光秀 「酒じゃ!酒を持て!今宵は、思い切り酔うぞ!」
臣達 「おー!!」
更に盛り上がる酒宴は朝まで続いた。
6月3日早朝、配膳の散らかる御殿で酔い潰れて寝込んでいる家臣達
静かに抜け出す光秀。朝日の眩しさに思わず目を閉じる。
光秀 「ワシは・・・・・・」
夢から覚める様にゆっくりと目を開く。
信長を討った昨日の事が、まるで何年も前の様に感じる。
フラフラと城内を見て回る光秀。台所を覗くと女中達が慌ただしく朝餉の準備をしている。
光秀に気付く女中達
女1 「殿!おはようございます」
女2 「違う違う。上様ですよ」
女1 「失礼しました。上様、おはようございます」
女達 「おはようございます!」
光秀 「殿でよい。気にするな」
女達 「はい。申し訳ありません」
壺にある梅干を摘まみ食いして顔をしかめる光秀
光秀 「うん。これは確かに現実じゃ」
ふふッ、と笑う光秀を不思議そうに見る女中達
光秀 「すまぬ。邪魔をした。支度を続けてくれ」
台所を出る光秀。頭を下げて見送り、急いで朝餉の支度に取り掛かる女中達
城内見廻りの家臣達の挨拶に軽く答えながら天守に向かった光秀は最上階に上がり、朝日に輝く眼下の琵琶湖を見渡す。
光秀 「琵琶湖とは、こんなにも広く、穏やかな湖だったのか」
坂本城は琵琶湖を背にした水城である。安土城も琵琶湖に面している。当然、琵琶湖を毎日見ているのに、光秀には琵琶湖を湖として認識するだけの余裕が今まで無かった。琵琶湖を湖として見るのは初めてかもしれない。
光秀 「静かだ」
朝日の反射する湖面に安らぎを感じる光秀
ゆっくりと天守に上がって来る秀満
秀満 「何処へ行ったのかと思えば、此処でしたか」
光秀 「秀満か」
振り返る事も無く、ジッと琵琶湖を見たまま答える光秀
秀満 「女中達が言っておりました」
光秀 「ん?」
秀満 「あの様に穏やかな表情の殿を見るのは初めてだと」
光秀 「ワシは、何時も穏やかではなかったのか?」
秀満 「女中達にはその様です」
光秀 「そうか。今までワシは、穏やかではなかったのか」
秀満 「戦に明け暮れておりましたからな。仕方の無い事です」
光秀 「だが、戦はこれからも続く」
秀満 「その事ですが、先程、情勢を把握する為、各方面へ偵察を出しました。10日もすれば、各地の状況がはっきりします」
光秀 「ワシが上様を討った事実は、直ぐに全国津々浦々にまで知れ渡る。しかし、信頼の置ける自家の伝令ならともかく、流れて来る噂を直ぐに信じたりはしない。混乱させる為の嘘かもしれんからな。先ずは真偽を確かめる。行動に出るのはそれからじゃ」
秀満 「全国の大名も我らと同じで、情報のやり取りと確認に10日、早くても6日はかかるでしょう。しかし、問題は、肝心な上様の首を晒す事が出来ていない事です」
光秀 「その心配はいらん。例え、上様の首を晒す事が出来なくても、一月経ち、二月経っても上様が現れなければ、人々は上様が亡くなった事を嫌でも認識せざるを得なくなる」
秀満 「それもそうですが・・・・」
光秀 「その事は時が解決してくれる」
秀満 「はい」
納得はしても、光秀の落ち着き様に不安を感じる秀満
秀満 「しかし、細川は丹後ですから遅れるとして、今になっても大和の筒井が何の知らせもよこさないのは、少し変ではありませんか?」
光秀 「あの二人は気にするな」
秀満 「気にするな、と言われましても、細川は殿と縁戚関係、筒井は殿に大恩ある身。一報を聞くや、直ぐにでも駆け参じるのが常識。余りにも不敬ではありませんか」
光秀 「筒井の性格はよく分かっておる。あの男は重要な決断を自分でする事が出来ぬ。ただ、おろおろと戸惑い、周りの動きに合わせるだけじゃ。恐らく、ワシの謀反を知り、今頃は郡山の城でどうすれば良いのか分からず、震えているのではないか?」
秀満 「しかし、細川の嫡男・忠興様には殿の娘、玉様が嫁いでおられます」
光秀 「玉を忠興に嫁がせたのは上様の御命令じゃ。細川も上様が決めた事なので反対が出来なかったのじゃ」
秀満 「それでは、余りにも玉様が御可哀想です」
光秀 「玉には武将の娘としての覚悟は出来ておる」
黙って頷く秀満
光秀 「それと、細川だが、細川はワシの出世を妬んでおる。常に揚げ足を取り、足を引っ張る事しか考えておらん。しかし、面と向かって刃向かう様な事は出来ん。今後の情勢がはっきりしない以上、何処にも付かず、中立を決め込むだろう」
秀満 「すると、細川と筒井は」
光秀 「放っておけ。大勢がはっきりすれば、向こうから自然に寄って来る。特に、細川にとって玉はワシとの大切な繋がりじゃ。粗末には扱うまい」
秀満 「筒井と細川の事はよく分かりました。後、堺にいると思われる徳川様ですが」
光秀 「徳川殿なら明日にでも三河へ戻られる」
秀満 「大坂には長曾我部攻めの為に2万近い兵を率いた信孝様と丹羽様が控えています。それなのに、危険を犯してまで三河へ?」
光秀 「信孝様と丹羽殿に即決の行動力は無い。こちらの情勢を伺い、暫くはジッとしている筈じゃ」
秀満 「確かに、そうかもしれませんが・・・・・」
光秀 「徳川殿もこのまま大坂に留まり、何時までも国元を留守にする訳にはいくまい」
秀満 「しかし、無事に、堺から三河に辿り着けますでしょうか?」
光秀 「徳川殿は用心深いお方じゃ。ワシが亀山にいる間、堺には向かわず京に滞在していたと聞く。恐らく、何か起きると警戒していたのであろう」
秀満 「抜け目がありませんな」
光秀 「もし、ワシが堺から三河へ帰るとすれば、まず宇治へ向かい、甲賀で東海道に出て伊勢に入る。そうすれば、最も早く、安全に三河へ帰れる」
秀満 「成る程。宇治、甲賀の領主は織田の家臣、伊勢は織田領」
光秀 「三河へ帰れば、一旦こちらの情勢を伺い、その後、甲斐へ攻め込む筈じゃ」
秀満 「甲斐へ?」
光秀 「甲斐、信濃、上野は織田領になったばかりでまだ統治が始まっておらん。領主のいない今なら簡単に攻め獲れよう。ただ、北条と上杉も狙っていようから、三つ巴の獲り合いになるやもしれん」
秀満 「では」
光秀 「諸大名に対する誘降は一切不要!こちらから書状を送る必要は無い」
秀満 「畏まりました」
光秀 「今は情報が入り乱れている。ワシの元へも、既に祝いの書状が随分と届いておる」
秀満 「昨日の今日ですぞ?」
光秀 「まあ、見てみるがよい」
光秀は秀満と共に天守を降り、書院へ向かう。
書状の束を秀満に見せる光秀
秀満 「こ、これはまた・・・・・」
書状の多さに驚く秀満
光秀 「ワシがワシに送った祝い状まである」
呆れた表情で書状に目を通す秀満
光秀 「上様を討って2日と経っていないのに、どうして、上杉や毛利から書状が届くのだ?」
書状を手に大きく溜め息をつく秀満。
光秀 「天下を獲ればワシは隠居する、望みの所領を与える、望みの役職を与える、お前達の息子を取り立てる、関白の位を与えると言うのもある。ワシは、何時から天皇になったのだ?」
秀満 「まるで、形振り構わずですな」
光秀 「ワシの為と思い、少しでも仲間を増やそうと思ってしてくれているのであろうが、ここまで書けば、もう笑うしかあるまい。有り難迷惑な話じゃ」
秀満 「よく、これだけの嘘を」
光秀 「どうせ、公家どもの仕業であろう。ワシが上様を討った事が余程嬉しかったとみえる。嬉し過ぎて、誰に、どの様な書状を送ったのかも分からなくなっている様じゃ」
秀満 「で、どうされます?殿が直接、書状を認めますか?」
光秀 「今、ワシが何を書き送っても、偽書状としてしか判断されん。無駄じゃ」
秀満 「しかし、これらの書状は、余りにも無責任すぎます!」
光秀 「気にするな。一月もあれば大勢は落ち着く。そうすれば現実が見えて来る。全ては時じゃ。時が解決してくれる」
秀満 「それもそうですな」
光秀 「うん。それよりも、話をしていると腹が減ってきた。どれ。朝飯にでもするか」
秀満 「はッ」
書院に次々と料理が運ばれてくる。
光秀 「これはまた、えらく豪勢ではないか」
女1 「はい!殿が上様になられましたので、今までと同じではいけないと思いまして」
光秀 「気を使わせた様だな」
女2 「とんでもありません。私達も嬉しいのです」
光秀 「そうか。嬉しいか」
女1 「はい!上様」
上様という言葉に照れ笑いをする光秀
朝餉を終えた秀満は御殿へ向かう。
御殿では家臣達が大きないびきをかいてまだ寝ていた。
秀満 「お前達、いい加減に起きんか!もう朝だぞ」
臣1 「う、う~ん」
臣2 「あ~あ」
あくびをしながら目をこする家臣達
臣1 「あッ!これは秀満様。おはようございます」
秀満 「おはようございますではないぞ!昼から今後の対応についての軍議を行う。それまでに戦勝気分を切り替え、しっかりと目を覚ましておけ!」
臣達 「はッ!申し訳ありません!」
書院で次々に届けられる書状に目を通し、折り畳む事も無く横へ投げる光秀。小姓達が拾
い集めている。
光秀の前に座る秀満
秀満 「寝ている者達を叩き起こしてきました」
光秀 「そうか。手間をかけるな」
秀満 「浮かれ過ぎると隙が出来てしまいます」
光秀 「うん。だが、あまり責めるな」
秀満 「はッ」
小姓達が持つ書状の多さに秀満もため息をつく
光秀 「次から次へと、どれもこれも、真偽を確かめる価値も無い書状ばかりじゃ」
秀満 「相変わらずですな」
光秀 「ところで、物見からの連絡は何か入っておるか」
秀満 「はい。幾つか届いております」
光秀 「では、後で、皆にも報せてくれ」
秀満 「はッ!」
午後、二ノ丸御殿で軍議を始める光秀
昨日の戦況を説明する秀満。満足気に頷きながら聞く家臣達
秀満 「それと、安土へ向かわせた物見からの情報も入っております」
臣1 「安土か」
臣2 「次の目標じゃな。気になる所だ」
臣3 「やはり、籠城しておるのか?」
秀満 「いえ、安土の留守を預かる御台様ですが、昨日の午後には甲賀の蒲生定秀様が駆け付け、そのまま清州へ向かったので安土城は蛻の殻だそうです」
光秀 「さすが、御台様じゃ。決断と行動が早い」
秀満 「更に、城下にも人っ子一人いないそうです」
臣3 「早いな。もう、皆逃げたのか?」
光秀 「安土の城下は出来てまだ日が浅い。愛着が湧くまでにはなっていなかったのだろう」
臣1 「では、安土城はそのまま我らの物、ですか?」
臣2 「何だか、拍子抜けですな」
光秀 「戦わずに済むのが一番じゃ」
秀満 「はい。その通りです。後、最も気になる柴田殿と羽柴殿の動きに関しても、10日以内にははっきりします」
臣1 「やはり、最大の敵は柴田殿であろうか?」
臣2 「柴田殿の怒り狂っている様子が目に見える様じゃ」
臣達 「如何にも」
柴田に対する認識が一致しているのか、頷き合う家臣達
臣1 「それよりも気になるのはもう一人の男」
臣2 「羽柴殿か?」
臣1 「あの男は信用出来んからな」
臣2 「確かに。どうも、あの男は調子が良過ぎる」
臣3 「しかし、羽柴殿は上様に救援を求める位じゃ。例え噓であったとしても、楽勝と言う訳ではあるまい」
臣4 「それに、直ぐに引き返すにしても互いに2万の軍勢じゃ。どんなに急いでも20日、いや、一月は掛かるだろう」
臣5 「毛利と上杉にも知らせが届く。そうすれば、毛利や上杉も攻勢を強める筈」
臣6 「二人共、引き返すに引き返せなくなるのではないか?」
臣3 「そうなるのが最も有難いのだが」
臣達 「うん」
大きく頷く家臣達
光秀 「皆の心配はよく分かる。ワシも羽柴殿は信用しておらん。秀満。羽柴殿の動き、特に注意せよ」
秀満 「はッ!」
光秀 「ところで、瀬田橋の修復はどうなっている?」
秀満 「はい。昼夜を徹してやっておりますので、明日の昼までには出来るそうです」
臣3 「では明日、早速、安土へ」
光秀 「いや。明後日、5日の朝でよい」
臣4 「少しでも急いだ方がよろしいのでは?」
光秀 「安土は既に蛻の殻。焦らずともよい」
臣達 「はッ!」
その決定に秀満は光秀の躊躇いを感じる。
秀満 「では、安土への進軍は明後日、という事で全軍準備致します」
光秀 「全軍で向かう必要は無い。向かう兵は3000。その内、1000の兵と共に秀満に安土の城を任せる」
臣5 「安土城をたった1000でよいのですか?」
光秀 「安土城は上様の権威の象徴として造られた城じゃ。戦う事を想定しておらん。北と東の状況を見て、動きがあれば直ぐに坂本へ撤収しろ。城を守る必要は無い」
臣1 「安土の城を捨てるのですか?」
臣2 「お前は何を聞いておったのじゃ」
臣3 「安土城は戦に向かんと言っておったではないか」
臣1 「それはそうなのだが・・・・・・」
光秀 「お前達の勿体ない、と言う気持ちは分かる。しかし、今の我らは限られた兵を最大限有効に使わねばならん」
臣達 「御最も」
大きく頷き納得する家臣達
6月4日、城内のあちらこちらで武具の手入れを怠りなくしている足軽達。しかし、安土に敵はおらず、直ぐに戦が無いと知っているためか、皆、一応に明るい。時折、大きな笑いが起こり、戦とは無縁の時が流れている。
午後、二ノ丸御殿、軍議
秀満 「本日、先ずは朗報が入っております」
臣1 「朗報とは、どの様な?」
秀満 「昨日、我らに味方し、北近江・京極高次殿が長浜城、若狭・武田元明殿が佐和山城を占拠したそうです」
臣2 「京極殿と武田殿が」
臣3 「それは頼もしい」
臣4 「既に、周りの諸将も、我らの決起に呼応しておるのか」
臣5 「後、安土を圧さえれば」
臣1 「近江はほぼ制したも同然」
臣1 「これで上杉、毛利と同盟を結べば」
臣2 「案外、楽勝かもしれませんな」
臣達 「おお」
家臣達に喜びの笑顔が広がる。
光秀 「喜ばしい事だが、こんな時こそ身を引き締めよ」
臣達 「はッ!」
頭を下げる家臣達
光秀 「京極殿と武田殿に伝えよ。長浜城、佐和山城、それに伴う羽柴、丹羽の所領をお二人に与えると」
秀満 「はい」
光秀 「それと、加増は今後の働き次第、とな」
秀満 「畏まりました」
臣3 「よ~し。ワシも頑張るぞ!」
臣4 「お主は何を頑張るのじゃ?」
臣5 「当面、我らの敵はおらんぞ」
臣3 「う~ん。ワシの槍働きを見せられんとは、残念じゃ」
冗談を言って笑う家臣達
秀満 「それともう一つ」
臣1 「何じゃ。勿体振らずに早く申せ」
秀満 「大坂の信孝様と丹羽様ですが」
臣2 「そうじゃ。あの二人を忘れておったわ」
臣3 「長曾我部攻めの為に2万の兵がいた筈」
臣4 「こちらへ向かっているのか?」
秀満 「それが、2日、我らの戦況が伝わると同時に、兵達は一斉に逃亡を始めたそうです」
臣1 「逃亡?」
臣2 「我らが大坂へ向かっている訳でもないのにか?」
秀満 「はい。既に、八割方が逃げ去っている模様です」
臣3 「何とも情けない話ではないか」
秀満 「直ぐにでも弔い合戦を臨んで来ると思っていたのですが、とんだ取り越し苦労でした」
光秀 「すると、今の所、畿内にはこれと言った動きは無いのだな?」
秀満 「はい。全く問題ありません。ただ」
臣1 「ただ?」
秀満 「与力衆の動きが、まだ、はっきりとしておりません」
光秀 「皆、状況を見定めているのだろう」
臣2 「我らに味方する様に催促でもしますか?」
光秀 「いや、その必要は無い。各自の判断に任せる」
臣3 「そう言えば、秀満様から聞きましたぞ」
臣4 「物凄い数の書状が届いているそうではありませんか」
臣5 「脈略の無い物ばかりと聞きましたが」
光秀 「ここでワシまでが書状を送れば混乱に拍車をかける。こんな時は、何もしないのが一番じゃ」
臣達 「はッ!」
頭を下げる一同
光秀 「ただ、気がかりが一つだけある」
秀満 「何でしょうか?」
光秀 「鞆にいる公方様じゃ」
秀満 「義昭様ですか?」
光秀 「恐らく、今日、明日中には、ワシが上様を討った事が伝わる筈じゃ」
秀満 「成る程。これは確かに、心配の種ですな」
光秀 「ワシに鞆まで迎えに来い、ならまだしも、喜び勇んで京まで飛んで来るのではないかと気が気でないのじゃ」
秀満 「あのお方ならさもありなん」
光秀 「今、公方様に出て来られれば話がややこしくなる。出来れば情勢が落ち着くまで、義昭様には鞆で静かにしておいて頂きたいのだが」
秀満 「毛利にとっても義昭様は厄介な居候ですからな。我らとの同盟の条件として、義昭様の引き取りを求めるのではありませんか?」
光秀 「ワシとしても、それが一番厄介なのじゃ」
秀満 「お察し致します」
光秀 「今更、幕府でもあるまい」
秀満 「如何にも」
夕刻、瀬田橋の修復を終えて坂本城へ帰って来た黒鍬衆と足軽達を光秀が出迎え、その夜、労をねぎらい夜を徹して酒宴を催す。再び盛り上がる家臣達
6月5日早朝、光秀は3000の兵を率いて安土城へ向かう。