金曜日の SPEAKEASY BREWERY (もぐり酒場)にて
こちらまでいらしてくださりありがとうございます。
明るいお話のはず。
作品内でお下品な言葉を使ってますので、伏せ字等で抑えたつもりではありますが大人向けかもしれません。
目に余るようでしたらご指摘お願いします。
一人称視点です。
軽い内容にしています。
心も目も半分開けた状態でお読みください。
つじつま? あっちにぺっしなさい、ぺっ! というノリです。
グッドラド・ドライブ923 、というのが私の職場の住所。
Speakeasy Breweryというなんとも不謹慎な名付けの健全なバーだ。健全でないバーはあるのかって?ありますよ。同じ業界の噂は自然と入ってくる。詳しくは言いません。
ここ Speakeasy では成人のみに安全なお酒を提供する場として、公式営業許可証を掲げるしっかりした企業です。醸造所とそこから新鮮なビールを提供するバーが隣接していてわりと人気があり夜は毎晩忙しい。おかげで時給がいい。チップもいい。
ビール瓶ラベルには『シーっ』のポーズでウィンクするお姉さんというわかりやすいロゴが描かれている。
更衣室のロッカーを閉めると、先輩が出勤してきた。
「おはよう、ネッサ」
着替えの時間も業務として含まれる。自分のシフトの数分前にバーの更衣室に到着する先輩はとても真面目だ。他の従業員は平気で数分遅れてくる。その分遅くまで残って調整したりはするが。
ただいまの時刻は午後三時。バーの開店は午後四時から。
「おはようございます、トーシャ先輩」
給仕である私達の制服規定は黒であること、品を損なわないこと。だが暗に求められるのは色気。
やる気も経験も豊富な先輩は高いヒールと体にぴったり沿う上も下も見えそうで見えないキワキワの服を着ている。美しい。その造形はもはや芸術。妖気にも近い色気を見習いたい。
ちなみにここでいうやる気とは業務への意欲のことで、経験とは恋愛遍歴のことです。ということを踏まえて。
やる気はあるが経験はない私は、低めの靴で、鎖骨くらいは出すが肩も二の腕も出さない、脚もまぁ浅めスリットくらいならスタイルを続けている。
これはちょっと前まで掛け持ちしていた仕事に関係する。昼間のスーパーのレジ係をやっていたため、露出が高いのは不適切で、妥協点がこの出しても隠してもないような服装なのだ。下だけズボン、スニーカーからスカート、ヒールに変えればいいだけ。
同じ区画に警察署があるために、治安もいい。
今日は金曜日だ、客が増える。
「今夜もチップ稼ぐわよ」
存在感と重量感たっぷりの胸元を整えながら、トーシャは戦闘態勢に入った。
****
「いらっしゃいませ」
夜になってからやってきた常連に笑顔に気合いが入る。お客さまに差をつけるのはいけないことだけど、仲良くなった相手だと自然と出てしまうものってあるでしょ?
ましてや気になってる人相手には。
私服の男性二人はバーの前に横に並ぶ。
「ネッサちゃんこんばんは」
「こんばんは」
「こんばんは! お疲れさまです、ロディーさん、ラグナルさん」
「ありがと! お、新しいのがある。” Kiss Me Goodnight. “ かぁ。うん、それで」
背の高く細いピルスナー・グラスに薄い黄金色のビールを注ぐ。
「ラグナル決めた?」
「……スタウトのやつおススメで」
「では、” Make Me Swoon.” はいかがですか?」
ここのオーナーのビール命名方針が夢見がちで、メニューを眺めるのはちょっと楽しいし、口にするにはちょっと恥ずかしい。
でもほんのわずかだけ、甘えるような色を出してみる。
ラグナルは表情を変えずに頷く。太いグラスの黒いビールを彼は受け取った。
席に座ると私からは横顔しか見えなくなる。
平然を装って、次のお客の注文を取った。
「ご注文は?」
「あーっと……」
仕事帰りであろうスーツの殿方は私の背後、壁に表示されているメニュー表を見て決めかねている。初めてくるお客さまが迷うようなら、私は試飲セットを薦めている。四種類のビールが一度に楽しめる ” A flight. “ は当然それぞれ通常のグラスより小さくはなるが、合わせるとビール缶一杯本分にはなる気軽さ。
ビールの他にはハンバーガーやフレンチフライ、ブリトー、クアサディラなどの夕食になる重めのものから、プレッツェル、ジャーキー、サラミ、生ハム、チーズ、ナチョスなど塩系おつまみまで揃えてある。
カウンター席のグラスの中身の減る量をちらと確認しながら、出そうになるため息を止めた。
違う人だけど、似てるんだよね。
むかし隣の州に家族旅行に行ったとき、州立公園に寄った。そこで同じように両親に連れて来られていた男の子と仲良くなった。
無愛想ともとれる無口なその子に、当時の私は懐き積極的にアプローチしていたらしい。具体的なことは覚えていないが、歳上の彼の気を引きたくて一生懸命だった気持ちは記憶にある。あれが初恋だったんだなぁ、とも。
私は七歳とか八歳だった。男の子の茶色に近い金髪と深い緑の瞳がぼんやりしていたのが、二年前バーの客として来たラグナルを見た瞬間に鮮明に蘇ったのだ。
さらさらの金髪はそのままに、真っ直ぐの眉毛、一重まぶたの涼しげな目。
でも彼は本人じゃない。少年の名前はロナルドといった。
ラグナルさんはそっくりさんというやつだった。
以来、ずーっと気になっているのだけれど。世間話はしても、私から個人情報は聞かずにいる。だから名字も年齢も家がどこかも不明だ。
コーヒーはブラック派だとか、カカオ百パーセントのチョコレートをたまにかじるとか。そういう些細なことばかり。
甘くないそれはチョコと呼ぶの?って思ったけど。その時たまたま持ってたらしいカカオのかたまりをもらった。それを食べた私の苦味の走る顔を見て、ほころばせた笑顔にときめいてしまって『ごちそうさまです』と告げた。
間違ってないでしょ?
明るいロディーほど口が達者ではないが、ラグナルの態度は柔らかくて、とても落ち着いている。見た感じは若いけれども、雰囲気は二十代も終わりかなぁ、と勝手に予測している。ロナルドは今年二十五か二十六になっているはずだ。
ロディーが片手を上げたので、乾いたグラスを片付けていた手を止めた。
「お次は何にします?」
「 ” The Puppy Love. ” にしてみるよ」
「ラグナルさんは?」
「さっきと同じやつお願い」
「かしこまりました。少々お待ちください」
この、酔っていても行儀が良く、態度を変えない、というところにも惹かれている。お酒が強い弱いに関わらず、人格の変わる人は恐ろしく変わる。
どれだけ杯を重ねても紳士な二人への評価は上がった。
二人が来るのはたいがいが毎週金曜日だった。カレンダー通りのお仕事をしているのだろう。たまに祝日があるとその前日に飲みにきたり、土日にきたりもする。一人でふらっと飲んでいることもある。
恋人はいないのだろうか。
どちらも連れてきたことはない。
ロディーもラグナルも、うちのバーのスツールに座ってるだけで、ポスターになりそうな容姿をしている。
浮き足だったかつての従業員や女性客がラグナルにモーションをかけても、しれっと無かったことにされた、らしい。トーシャいわく。
口説かれてもロディーは堂々と『恋人がいるから』と断る。ラグナルだって恋人がいたら正直に言うと思うので、暫定独身で間違いないだろう。
よっしゃ。
****
とある金曜日。
「ねぇ君、どこかで見たことあるんだよね。オレら会ったことある?」
「え〜、どこですかね? ホテルとかですか〜? やっだ〜」
嫌味のつもりで返したが、男の目は爛々としている。私の心は冷え切っている。『やっだ〜』には惜しげもなく軽蔑と侮蔑を乗せた。
「まさか。こんなかわいい子、一度寝てたら忘れないんだけどな。オレと寝てないよね? 今夜確かめようか」
新しいグラスを手に取って、適当なビールを注ぐ。
「それはそれは。これ、特別なビールなんですけど。お客さまだけにお出ししますね」
「特別? いいの?」
「ええ。名前は ” F**k off, douchebag! ” です、どうぞ」
ただし中指は立ててない。
「ふぁ、あ、そう……」
軟派男もドン引きの口の悪さだ。スーッと退店した。よしよし。二度と来ないでね。
噴き出す声の先を見ると、立ち上がるラグナルの肩を掴んで引き止めるロディーがいた。呆然と満面の笑顔という、噛み合わない感情表現をするそれぞれ。
あらやだ聞かれてしまった?
「ネッサちゃん、” Awesome! ” 」
羞恥心は持ち合わせてはいるが、この場を取り繕うには遅い。ロディーのサムズアップにウィンクしてみた。恥の上塗り。
「それ、もらっていい? 俺の会計につけといて」
ラグナルが手を伸ばしたので、手付かずのビールを差し出した。受け取るや否や、一気にグラスを飲み干す。
こんな粗野な飲み方するところ、初めて見た。今度は私が呆気にとられる番だった。いつもグラスにきれいに均等な泡の跡を残すような上手な飲み方をしているのに。
はわはわと口を抑えるしかできない。首は細いなって思ってたけど撤回します、けっこうしっかり太い。喉が、上下する喉仏が大変色っぽくてもう、やられました。
ひとり拍手していた。ロディーもおかしそうに乗ってくれた。
その心意気を賛して、今夜は私の奢りにさせてください。
ラグナルが帰るときに会計を拒否したら静かに怒られた。なので、本当に彼が頼んだビールの分だけ請求すると、チップをこれでもかと盛られた。その手には逆らえないわ。
****
二十歳の頃から勤めて二年。
私は短大時代の夢を叶えてみようかな、という気になってきた。
バーの仕事を辞めたい、と相談したときマネージャーはじっくり話を聞いて納得してくれた。退職日は余裕を持って二ヶ月後に決めた。トーシャには別の相談事がある。
「あわよくばラグナルさんを籠絡したいです」
「恋愛ばぶちゃんが小賢しい手を使うより、真っ向勝負なさい」
ばぶちゃん……。あっ、赤ちゃん? 赤ちゃんよりも幼い卵かも。0だから。Oscar のOじゃなくて、ゼロだから。
店の隅に貼ってある、Alcohol and Pregnancy Don’t Mix の(妊娠中の飲酒はやめましょう)ポスターがちらつく。
いや、私妊娠してませんし。赤ちゃんできるようなこと、したことありませんし。
「 ” One night stand. ” でいいんです」
「高度なこと言うわね」
「ご指南お願いします」
「相手はラグナルさんでしょ? ちょっとねぇ」
言いにくそうにしたが、トーシャは私のため、と話してくれた。
「あの人、不能だって噂なのよ」
私はそれはおかしい、と反論した。
「ラグナルさんは仕事できるって、ロディーさん言ってましたよ」
先輩は苦笑して、額に手を当てた。
「仕事の有能無能じゃなくて。うーん、ネッサには無理じゃないかしら」
「ダメですか?」
「男として不能だって、私の元同僚が言ってたのよ。その子ラグナルさんに振られたから、腹いせに言ってたのかもしれないけど。すぐ辞めちゃったし」
男として、の意味はその、大事な部分が肝心なときに役に立たない、ということで。実体験はないけど、私だって男女の交わりでなにがどうなるかくらい知識はある。
「ネッサはそういう男の人を相手にしたことどころか、誰かと寝た経験もないんでしょ?」
「ないです」
「なら好きですってアピールするとこから、かしら」
「大人なアプローチはないんですか?」
純真ピュアなあなたを大事にしてくれる人をパートナーにしなさい、とトーシャは忠告した。
「よしんばどう転んだって、何を置いても避妊は必須だからね」
トーシャは避妊具をポーチから出して私の谷間に挟もうとして失敗し、にこっとした。そこに挟むだけの渓谷はなく、整えられたネイルをした指が私のブラに個包装を差し込んだ。ギザギザの切り口がちくちくとした。これが噂のゴム。これまで恋愛する余裕のなかった私はお世話になることがなかった品だ。
女の武器が使えないから手管をきいたのにな。
****
私は二ヶ月間いっぱい悩んで、バーに来るラグナルと普段と変わらない時間を堪能した。トーシャが言うように『好き』なんてアピールしなくても、視線や態度で伝わってしまってる気もする。ラグナルが大人らしく節度を持って接してくれているから、いままで何もなかっただけで。
そして出勤最後の夜。珍しく一人でやってきたラグナル。天が味方したとしか思えない。
バーで使用している紙製のコースター、ウィンクするお姉さんのロゴが描かれているその上にペンを走らせる。
手のひらを広げて隠し、メッセージを記したコースターを彼の手の下に潜らせる。
こんな軽薄なこと、生きてきた中で考えたことも実行したこともなくて史上最高に心臓に悪かった。
ごつごつした手を上から握り、『そういう意味に受け取ってね』という想いを込めて彼の目を見て微笑んだ。瞠目しているラグナルからそっと離れる。
『この後、私の家で飲みませんか?』
これからは彼がコースターの文字を読んで可否を決める時間だ。私のシフトが終わるまであと一時間。無視して帰るもよし、そのときは潔くさよなら。そのまま席で待っていてくれていれば、嬉しい。
横目で確認したらコースターを胸ポケットに仕舞うところだった。これはひょっとするかも。心臓がバクバクして血液循環しているのに、手足は冷える。
テーブル席のグラスや皿を片付けて、バーに戻るときに腕を掴まれた。
目を合わせると彼は「 ” Sure. ” 」とだけ言う。
「はわ、あ。はい!」
いいんだ! いいんだ? やったー!
「何時に終わるの?」
「じゃあ九時に」
「九時ね」
なんとなぁく、照れているように見えたのは私の欲目かも。
約束まであと十五分、となったときに彼は会計を済ませて店を出ていってしまった。あれ、これってやっぱりナシってことで振られた? と悶々としたが、もうあとは身ひとつで帰るだけである。
同僚たちから明るく別れの挨拶をされて裏口から出ると、ラグナルは店の外の角で待っていてくれていた。
「お疲れさま」
「あ、ありがとうございます」
いつもと逆の立場のやりとりに笑うと、彼も少し表情を崩した。
なんか仕事終わりに彼女をわざわざ迎えに来てくれた彼氏っぽくない? 憧れのシチュエーション達成!
「酒屋に寄っていいですか?」
「いいよ。でもいま醸造所から出てきたのに。別の会社の酒を買うの?」
「ラグナルさんが飲みたいお酒を私も飲みたいので」
あくまで名目は、一緒に飲むことなので体裁くらい整えなければ。
酒店ではこのお酒を試した、とかこのブルワリーの缶のデザインが好き、だとかこの味は珍しい、などどうでもいいことまで話してしまった。私は一滴も飲酒していないのに気分が高揚しておしゃべりになっている。酔っているのはラグナルのほうなのに、彼は穏やかにいちいちに相槌を打ってくれた。
これだけで惚れる。
ラグナルは赤白のワインを一本ずつ掴み、私にアイスワインを持たせた。お会計のところまで持たせただけで、
「俺が飲みたい酒なんだから俺が買う」
とサッとカードで払われてしまう。
紙袋に包まれた瓶もラベルも記念に取っておこう。
ワンルームの部屋で乾杯、と白ワインのグラスを鳴らす。
二人で横に並ぶのはとても新鮮だった。常にバーカウンターを挟んで対面だったから。
「来てくださってありがとうございます」
「誘われたのは驚いたけど、嬉しかったよ」
「えーと実は、今日付けでバーを辞めたんです」
マネージャーがお別れ会は店を開く前のお昼にしてくれたので、今日の帰りはあっさりしたものだった。
「……それで?」
瞬きの数から驚愕度合いは知れたが、ラグナルは静かに先を尋ねた。
「スピークイージーで働いてたのは、時給もチップもよかったからです。もう時給に拘る必要もなくなったので、正規で日中の仕事に就こうかなと」
借金返済(私の短大費用)と生活費、あとこっそり弟の大学費用貯金のためにバイトの掛け持ちもしていた。シングルマザーの母も同じことをしている。しばらく前に私は借金を完済し、弟もバイトできる歳になったので、安いスーパーのレジ打ちのバイトを辞めて代わりに日中に就職活動をしていた。
見つけた仕事は引っ越したほうが便利な距離なので、荷造りも始めている。
などなどを説明した。
「驚かせてすみません」
「いや。ネッサさんの行動にいますごく納得した」
バーの客と従業員という関係を解消するからこそ、対等になれた。声をかけて家に呼ぶなんて、後先を考えればできない。
赤ワインは次回に取っておいて、とラグナルはアイスワインをグラスに空けた。次も考えてくれるほどには、私を気に入ってくれている?
「スピークイージーで二年間お疲れさま」
「ありがとうございます」
ラグナルは白ワインはすいすい飲んでいたのに、アイスワインはペースが落ちているので、彼はきっと私のために甘いお酒を選んでくれたんだなと自惚れてしまう。
優しい。好き。
ラグナルの指が一つ残らず私の指に絡む。頬に唇を寄せても私が嫌がらない様を確認すると、ゆっくり唇を合わせた。
大人のキスはお酒の味がした。デザートワインのとろけるように甘くて、ふくよかな香りのするいいお酒。信じてはいなかったけど、ファースト・キスって酸っぱくないのね。
「こういうことでいい?」
この先に進むよとの合図に、私はキスを返した。
「そういうこと、です」
目を開く度に、私の大好きな深い緑の瞳が、私だけを映している。
私の肩にある薄いほくろにキスをしながら「すごくセクシーだ。かわいい」と言ってくれた。かわいさとセクシーさって同居できるのか、なんてぐずぐずの頭で考えた。
男の人から「かわいい」は言われたことあったけど、「セクシー」は初めてだった。あ、男の人にほくろ見せるのが初めてだったわ。
ラグナルはいくつも私の初めてを奪っていく。
彼は優しくて、隅々までくまなく愛してくれて、
好きだ、と繰り返し濡れた響きで囁いて、
呼び捨てでネッサと名前を繰り返してくれて、
これ以上最高の『初めて』はないように思わせてくれた。
自分が愛する人の本物の恋人になれた気分。
情事にかこつけて、私も何度も好きだと訴えた。
好きな人に遠慮なく想いを伝えられるのって照れを覚える以上に快感だわ。
ベッドの上で私は服を着ることもせず後ろから抱きしめられながら、余韻に浸る。人の素肌はあたたかくてすごく安心することを学んだ。
「ネッサは俺の名前、知ってる?」
「ラグナルさん」
即答すると、んー、と間伸びした低い声を出した。振動が私の剥き出しの肌にこそばゆい。ちょっと眠たそうな響き、たまらない。
「……こういう仲になっておいて知らないというのも変だから教えとく」
私の左手をラグナルの大きな左手が取った。短い爪をした人差し指を使って、私の手のひらにアルファベットを大文字で書いていく。
R-A-G-H-N-A-L-L.
「ラグナルさん」
「それ、ロナルドって読むんだ」
私の体が跳ねた。Dの音はどこからきたの? じゃなくて。
「ロナルド? え、……えっ?」
初恋の少年の名前。上半身を起こしてひねると、被っていたシーツがはらりと落ちた。ラグナル、いやロナルドがそれを拾って私の裸の胸元に押しつける。この際羞恥とかどうでもいい。
「読めないだろ? だからロディーが最初にあだ名として呼び出したんだけど、すっかり浸透して。ラグナルっていうのはもうミドルネームだと思うことにしてる」
私はひとつのことしか考えられないようになっていた。
「州立公園の……ロナルド?」
ポンと出た地名に、彼は詳細を加える。
「プロッパズウェル州立公園だろう。子供の頃は毎週のように行ってた。ネッサがまた現れるんじゃないかと期待してね。後から君は旅行に来てただけの子だって親から聞いてショックだったよ。連絡取りようもないし」
確定した。この人が初恋の君のロナルドなんだ。
「覚えてるならなんで、早く言ってくれなかったんですか!」
「会った瞬間に『俺たち昔会ったことあるんだ』なんて、ネッサが忘れてたら軟派野郎にしかならない。これからも通うバーなのに、気まずいだろ」
「あぁ……」
頭が軽くて下半身が緩い奴らの常套句ですもんね。『俺たち会ったことある?』って。しつこい奴らを撃退したことだって一度や二度じゃない。
ベッドにへなへなと横たわると、ロナルドは私の存在を確かめるように深いキスをした。短いキスで締めくくる。
手のひらやその他の体の部位をくすぐり笑いあいながら、いくつか難しい名前の読み方の当てっこをした。
“Seosamh” で「ジョー」なんてぜったい間違うと思う。
おやすみ、とキスされたときにはもう思い残すことはないな、と幸せいっぱいに眠りに落ちた。
好きな人からの「おやすみちゅー」に勝る安眠剤はないですよ。
文化的に『付き合ってください』という告白をすることはない。お互い『好きだよ』と言い合っていても、相手の友人や家族に『恋人です』と紹介されない限り、体だけの関係になってしまう。
私はそれを逆手に取ってラグナルと素敵な一夜の夢を見るために利用した。
たくさん『好き』と伝えられたことを後悔はしない。
****
朝になっておはようのキスをして服を着た私達。
コーヒーを淹れて、軽い朝食を済ませるというほのぼの空間。ロナルドは甘い印象を崩さない。このまま夢心地でいさせて。
彼は外に出るために扉に手を掛けた。
「またこの部屋に来てもいい?」
「ごめんなさい、引っ越ししてこの街を出るんです」
来ないでください。
「じゃあ引っ越し先の住所を教えて」
「できません」
これ以上は聞いてほしくないなぁ。
彼がドアノブから手を離して、私に向き合う。
「俺は、ネッサの恋人になれたんだと思ってた」
切なく目を細める様子は、真剣に私をパートナーとしてくれたんだと物語っていた。この人ったらどれだけ私を喜ばせてしまうの?
「一夜限り、です。すごく幸せでした、ありがとうございます」
「別れるつもりで俺に抱かれたのはなんで?」
だ、抱かれ……ました。私、この人に抱かれたんだなぁと今更ながら体に染み渡る。
「思い出が欲しかった、からです」
黙っていても、彼の全身が『うそつき』と言っているのを感じ取れた。
「初恋の人に似てたラグナルさんのことがずっと気になってて、この街の最後の思い出にしたかったんです。ほんとに昔好きだったロナルドだったのは予想外で嬉しかったです」
少年のロナルドを好きという想いより、大人になって出会ったラグナルを好きという気持ちのほうが優っていた。同一人物なのだからそれは足し算上乗せのひとつの好意となってしまうけれど。
私が決めた就職先は、隣の州とはいえ飛行機で飛ばないといけないくらい遠い。この国土は広いから、国の端と端で時差だってある。州を跨げばこれまでみたいに毎週末、約束もなしに会うなんてことはなくなる。
それに私は遠距離恋愛は耐えられない。週一で会うという贅沢を覚えてしまった後だから。
いろいろ本末転倒なところはあるが、もう採用を受け入れてしまったし、バーだって辞めたし、この部屋の契約も来月末には終わる。
もうあとはひとりでこっそり情けなく泣くから許して。
「俺はね、会社の事業拡大して新しく支店置く場所を任されて悩んでたんだ。ネッサの次の家の近くにする」
「えっ? いや、それは……支店? 事業? とは?」
なんの話かわからない。
「もう決めた。住所教えて」
あれ、私の戸惑いと質問をスルーされた。
ロナルド、消極的に見えて実は押しが強い?
「まだこれから部屋を探すつもりで……」
「どこらへんで?」
状況が飲み込めない。私は引っ越す。ロナルドは会社の敷地を探している。そこに関係性はないのでは。脳の処理が追いつかずにポロポロと嘘偽りなくこぼしていった。
「プロッパズウェル州のメトロジェールズのどこか……」
「ならちょうどいい、俺も一緒に行くよ」
「ちょうどいいとは? 」
「俺も一緒に住む家を見に行くよ」
『一緒に』というのが『俺も住む』にかかっているのか、『見に行く』にかかっているのか、微妙なところだ。
「ロナルドも一緒に?」
「住む。ウェストジェールズなら昔住んでたし」
『同居する』のほうでした! これだから違和感は無視できない。
ってあれ、ウェストジェールズってお金持ち区域だったような。あそこに住んでたの。州立公園は、確かにそこから近かった。
「いえ、イーストジェールズで探すつもりです」
ムッとしたロナルドもいいかも。だめだ、私フィルターかけちゃってる。だってロナルドの全ての表情をこの距離で真正面から鑑賞できるというのが私には格別すぎる。
「イーストはだめだ、治安が悪い」
「でもあの辺り家賃安いし、昼間しか歩き回らないから大丈夫です」
「だめだ。去年あそこで発砲事件が何件あったか知ってる?」
我が国は銃刀法が制定されており、重火器等の所持は特別な免許保持者を除き禁止されている。けどたまに、事件は起きる。
「知りませんけど」
「下調べ不足、なおのこと却下」
どうしてこの人はこんなぐいぐいくるの? 食い下がってこられると断れなくてもっと困る。
「……彼氏面しないでください」
わざと突き放した。傷ついた顔を見て、私の心がザックザクと鋭利なもので刺されたように痛む。口の中だけでごめんなさいと言った。
「俺が彼氏じゃ嫌?」
頬を包む手が、夜と変わらず熱い。ロナルドの瞳はあの夏の日の公園の樹木を彷彿とさせる。思い出そのまま。
私はこの瞳に弱い。ひいてはロナルドに弱い。
「好きです……」
口が自然と動いていた。惚れた弱みってこういうこと?
キスが私の唇、ほっぺ、耳と移動する。
「俺もネッサが好きだよ」
耳たぶをやんわり噛みながら囁かれれば、昨晩の名残が疼いてしまう。キスに抵抗する力が出ない。
「ん、でも……」
「ネッサ、流されてよ」
ロナルドの唇と鼻先が私の首を滑る。後頭部がぞわぞわして腰が痺れる。
「だって一度だけ、って決めてて……」
「”I’m begging you.” ネッサをちょうだい」
真摯の中に甘えを滲ませた声に脳が溶けそう。
『俺の手に落ちておいで』と過激に扇情してくる瞳に指に吐息、もうロナルドの存在全てが惑わせてくる。
「や、も、……むり」
我慢の限界を迎えそう。
「俺のことが無理? 俺はネッサのことすごく好きだよ」
ついばむようなキスを続けながら、ロナルドは私の体に聞く。キスだけで人間こんなにぐだぐだになれるものなのね。
「ロナルド、が、欲しい」
好きだからもっと知りたい。酔ってないときのロナルドも、朝と昼の姿もいっぱいみせて。
「かわいいね、ネッサ。おねだりよくできました」
ぽふん、と柔らかく倒された場所はベッドだろう。
…………。
……見事に情に流されました。
ついでに昨晩は手加減してくれてたんだなって思い知りましたよ。二人の『初めて』だったけど、あれは私にとって人生の『初めて』だってバレてたんじゃないかなぁ。
だからあんなに過剰なくらい優しく、……うわん好き。
籠絡するつもりが籠絡されてしまった。
だからって二度目も否応なしの暴挙ではなく、私から求めるという結果になっていたような。
「えーと、何が問題でしたっけ……」
ロナルドの裸の胸の上に乗っかりながら、頭を働かせた。
「何も問題ないよ」
全ての憂いを忘れさせるおまじないをかけるように、彼は私の髪を梳いている。
「あ、そうでした。全貌はよくわからないけど、大事なお仕事の事業計画は慎重にしてください!」
ふぅ、と現実に戻されたロナルドがため息をついた。
「じゅうぶん吟味してるよ。メトロジェールズでは長期の案件いくつか抱えてるから、支店を置く最有力候補のひとつなんだ」
「私情挟んじゃいけません。あっちに行って私がすぐ仕事嫌になっちゃって辞めたらどうするんですか……」
「いいよ、嫌な仕事する必要ない。生活は俺を頼って? そもそもなんでプロッパズウェルなの」
そこを聞かれると、答えづらい。
「えっ……と。就職したい会社があるから、と。州内にロナルドがいるかな? と」
ああだめ彼の前では真実しか言えない。
借金から解放されて社会経験も積んだし、新しい生活を始めるつもりだった。ついでに初恋を探しながら。
でもここに私が求めていた人はいる。その人を置いていくことになるから葛藤する羽目になった。仕事での憧れの人があっちにはいる。夢も諦めきれない。
「俺はここにいるよ」
「あ、はい。そうですね。ロナルドは、どうしてこっちの州に?」
「ネッサを探しに。こっちの大学入学して、先輩に誘われたから企業を手伝って、そこに就職して副社長になって、あるとき酒飲みに行ったらネッサがいた」
それから二年間想いながら見守っていてくれたってこと?
んじゃあもう流されたままでいっかな!
探してくれたのは心の底から嬉しい。
すれ違わなくて、本当に良かった。
「改めまして、ネッサ・クリスタルです。よろしくお願いします」
「ロナルド・オブライン。よろしく」
どちらからともなく、唇を合わせる。
「ルームシェア楽しみですね」
「いいや、同棲婚って言うんだよ、知ってる?」
同棲という言葉の破壊力よ。
彼の快進撃がすごいです。
けど強引なロナルドも、嫌いじゃない……。好き。
翌週にはプロッパズウェル州に二人で訪れ、ウェストジェールズに手頃なアパートを見つけた。彼の両親にも『恋人』として引き合わせてもらって、次は私の家族に紹介すると言えばにこにこされた。
かわ……、かわいい。
その夜はホテルでキスとかちゅーとかフレンチ・キスとか
……しました!
The End.
最後までお付き合いくださりありがとうございます。
冒頭の住所だけ算用/アラビア数字にしています。統一すべきなのはわかってますが、ここが漢数字だとどうしても違和感があったのでお見逃しください。
以下キャラとかもろもろです。
ネッサ・クリスタル*Nessa Cristall
22〜23歳
高校卒業後、短大に通いつつスーパーのレジ打ちに就職、バーには20歳になってから勤め始めた。家族は母と弟。
短大は料理学校、将来は憧れのシェフのレストランで働きたいと考えていた。
ロナルド・オブライン*Raghnall Ó Briain
(ほんとにラグナルではなくロナルドと読む)
25〜26歳
建築関係副社長、主にデザインとかやってる。
幼いネッサと公園で遊んだとき無愛想&無口だったのは、ネッサがめちゃんこ好みでかわいくて緊張してたから。
トーシャ・ケッグ*Tosha Kegg
名字がKeg(ビールの小たる)と似てるのでバーに採用された。
ロディー・ダネル*Roddy Danell
警察官。
あるときカウンター席で隣同士になったラグナル(ロナルド)と意気投合して今に至る。
Brusseles lace (ブルッセルス・レース)
エンジェル・リングとも。エンジェル・リングだと髪の毛の艶と混同されそうだなって思ってこちらにしました。飲み方が上手だとできる、ビールグラスの内側に残る均等な泡の跡のこと。
ラグナル(ロナルド)は15分の間に「そういうことだよな??」と万が一に備えて避妊具を買いにいってました。だいじ。
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I will not accept to make profits through my work without my permission.
Thank you very much for reading my work.
小ネタ。
大人の方だけこっそりお読みください。
↓
不能の真相
それまでどんな女性を相手にしても無理だったロナルド(ラグナル)でしたが、ネッサを想定して(オカズに)したらできたので、付き合うなら彼女しかいないなってなりました。