狐と狸
狐と狸
「王先生、どこに行っておられたのですか!」
ドアを開けるなりメイメイが叫んだ。珍しく取り乱している。
「ずいぶん心配していたんですよ!」
「尼寺で鬼退治をしておった」
王はソファーに身を沈めてメイメイを見た。
「またそんな冗談を・・・」目が潤んでいる。「槇草さんが付いていながら・・・どうして」
「槇草君を責めてはならん。平助と二人でやった事じゃ」
「私は王大人に合わせる顔が有りません、もし先生の身に何か起こっていたら・・・」
メイメイは、ついに両手で顔を覆って泣き出した。
流石にこれには王も狼狽した、ソファーから立ち上がりメイメイに近づく。
「儂が悪かった、この通りじゃ、許せ」手を合わせて頭を下げる。
「ならば、明日の飛行機で、私と一緒に台湾にお戻りください!」
「嫌じゃ!」王は即答した。
「え・・なぜ?」
「儂は、生まれて初めて生きている事が楽しいと思った。もう少しこの楽しさを味わっていたいのじゃ。贅沢は言わん、せめてあと一週間、儂を自由の身にしておくれ、のうメイメイ・・・」
王の眼差しは真剣だった。メイメイは未だ嘗てこんな真剣な王の顔を見た事が無い。
「でも・・・」
「頼む、息子の小言なら台湾に戻ってから幾らでも聞く。息子の家族と一緒に暮らせと言うのなら甘んじて受けよう。然しこの日本での経験は何物にも代えがたい経験になる、と云う予感がするのじゃよ」
「先生・・・本気なのですね?」
「勿論じゃ」
「ならば、あと一週間、私も日本に滞在致します。決して先生の邪魔はいたしません、でも困った事があったら必ず私に相談してください。その条件が呑めるのなら・・・」
「分かった、皆まで言うな。委細承知じゃ!」
「先生・・・なんだか軽くないですか?」
「そんな事は無い、お前の思い過ごしじゃ」
「そうかなぁ・・・私を騙すおつもりじゃ無いでしょうね?」
「何を人聞きの悪いことを言っておる。日本の諺にもあるじゃろうが、『武士に二言は無い』と」
「先生は侍では無いでしょ」と、メイメイが突っ込んだ。「う〜ん、怪しいけど・・・まあ、良いでしょう。では一週間ですよ」
「分かった、必ず約束は守る、ほれ指切りじゃ」王が小指を突き出す。
「我々に、日本の指切りは無効です。でも、約束は守って下さいね」
そう言い残してメイメイはスイートルームを出て行った。
「やれやれ、骨の折れる弟子じゃ。さて、何をするかのぅ」
ドアの外で、メイメイがペロっと舌を出した事には、流石の王も気付かなかった。
メイメイと美希
「この人には敵わない・・・」美希は目の前の女性を見てそう思った。
職業婦人としての自信だろうか・・・
美希は一度も働きに出た事は無かった。女学校を出て、お茶やお華、料理の学校には通った、着物も一人で着る事が出来る。女性としての教養は一通りマスターした。
それでも・・・美希は根拠の無い引け目を感じていた。
「李梅と申します」と、その女性は言った。「台湾で、槇草さんには大変お世話になりました」
今朝早く電話があった。是非お会いしたいと受話器の向こうの声が言った。
メイメイの事は槇草から聞いていた、自分と似た女性を想像していたのだが・・・
しかし、目の前にいる女性は明らかに美希とは違う。
「お待ちしておりました。どうぞおあがり下さい」動揺に気づかれないように苦労した。
「お邪魔いたします」メイメイは美希に誘われるまま、台所のテーブルの椅子に座る。
「こちらの方が居間より落ち着くと思って」
「ありがとう、畳にはあまり馴染みがありませんので」
「お茶で宜しい?それともコーヒー・・・もっともインスタントですけれど」
「どうぞお構い無く、貴女とお話が出来ればそれで・・・」
「八女茶があるの、中国のお茶とは違うかも知れないけれど、美味しいのよ」
「では、お言葉に甘えて」
「お茶受けは小城の羊羹くらいしかないけれど・・・」そう言って美希はゆっくりとした動作でお茶を淹れた。そうすると少し落ち着く事が出来た。
「美味しい・・・」メイメイが言った「甘味があってふくよかな、何というか・・そう、上品な美味しさです」
「そう、良かった」初めて美希が微笑んだ。
「あらためてご挨拶いたします。李梅、みんなメイメイと呼びます、梅・梅と書いてメイメイです」「美希です、貴方のことは伺っております。主人が台湾では大変お世話になりました」
「お世話になったのはこちらの方です。兄のことはお聞き及びですか?」
「ええ、大体の事は・・・大変強い方だと聞いております」
「その兄が、最近丸くなったと評判なのです。以前は鬼教官と恐れられていましたのに」
「まあ、それは・・・『男子、三日会わざれば刮目してみよ』ですね」
「どういう意味ですか?」
「男の人は短い期間で変わる、という程の意味でしょうか」
「女はなかなか変われませんが・・・」
その時、台所の窓の外からチリンチリンと音が聞こえた。
「あれは?」
「小太郎ですわ、庭で三輪車に乗って遊んでいるのでしょう」
「一人で?」
「きっと、しのも一緒です」
「しの・・さん?」
「行ってみますか?」
「はい、是非」
居間に入って縁側のガラス戸を開けると、庭が見えた。
小さな男の子が三輪車で遊んでいる。
その周りを、黒っぽい鞠のような小動物が走り回っていた。
「あれが、しのです」
「犬、ですか?」
「狸ですの、小太郎にとっては姉のような存在ですわ」
しのは、槇草が春吉神社の神官から譲り受けた狸だ。
庭下駄をつっかけて外に出た。小太郎としのが怪訝そうにメイメイを見る。
メイメイは小太郎に歩み寄った。「こんにちは小太郎くん、私はメイメイよ」
「めいめい・・・」舌足らずに小太郎が繰り返す。
「そう、覚えておいてね」
しのが、側でじっと見ている。
「怪しい者じゃないわ、心配しなくても大丈夫」メイメイは、しのの頭を撫でた。
メイメイが美希を振り向いた。「私これで帰ります」
「え、もう?」
「私、あなたに逢いたくて王先生に一芝居打ちました」
「まあ!」
「多分先生は気づいていると思う。王大人には、先生の事が心配だから、あと一週間日本に滞在しますと伝えてあります」
「では、まだしばらく日本にいらっしゃるのね?」
「はい」
「だったら、その間にもう一度遊びに来てくださる?」
「え、良いのですか?」
「勿論よ、今度はゆっくりお食事でもしましょう」
「はい、ありがとうございます」貴方は私の思った通りの方でした。と言ってメイメイは帰って行った。
最初の緊張感はなんだったのだろう、きっと私の思い過しだったのね。
美希はメイメイが来たら何を作ろうか、と考えた。




