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平助と王 日・台爺い絵巻  作者: 真桑瓜
17/22

無門平助台湾に行く

無門平助台湾に行く


1



「師匠、ポストにエアメールが届いてますよ」道場の引き戸を開けて、槇草が入って来た。

「ほう、エアメールとは洒落ている、誰からじゃ?」

「王先生からです」槇草が表書を見て答えた。

「王か。あやつまだ生きておったのか?」

「相変わらず口が悪いなぁ。師匠だってあんまり歳変わらないじゃありませんか」

「ふん、どれ見せてみよ」

槇草は縁に赤と青のストライプの入った封筒を平助に差し出した。

封を切って手紙を読んだ平助の顔が曇った

「師匠、どうかしましたか?」

「うむ・・・」

「王先生に何かあったのですか?」

「病で伏せっておるそうじゃ、もう長くはないと書いてある。やつにしては弱気な文面じゃな」

「そりゃ大変だ!」

「春節にメイメイが里帰りするので、一緒に来てくれんかと云ってきた。どうも手紙には書き難い事情があるようじゃ」

「今年の春節は一月二十八日です。もう一週間もありませんが、どうされますか?」

「行かずばなるまいて」

「はい、それが良いと思います」

「ついては、儂がおらぬ間留守を頼みたい」

「それは構いませんが、熊さんが居るでしょう?」

「いや、奴も連れて行く。何か嫌な予感がするのじゃ」

「師匠の勘は当たるからなぁ」

「よし、メイメイを呼んでくれ」

「分かりました。今晩来るように伝えます」

「頼んだぞ」




2



「先生、一緒に行っていただけるのですか?」メイメイが訊いた。

「王の頼みとあらば万難を排して行かずばなるまい」

「ありがとうございます」

「熊さんを連れて行こうと思うが問題はないか?」

「ありません。王先生もお喜びになると思います」

「吉田君は?台湾では春節は嫁の実家に行くようになっておると聞いたが」

「主人は仕事の関係で遅れると言っています」

「そうか・・・」

「何かご心配な事でも?」

「いや・・・ところでいつ出発する?」平助は言葉を濁した。

「二十五日には出たいと思います。チケットはこちらで手配致しますが、それで宜しいでしょうか?」

「かまわんよ、手数を掛けるな」

「私は王大人の秘書をしていたのですよ、なんの事はありません」

「うむ、宜しく頼む」


メイメイが帰ったあと、平助は熊さんを呼んだ。

「・・・と言うわけだ。一緒に行ってくれるか?」

「勿論でごわす。おいは何処まででん師匠に着いて行きもす」

「刀を持って行ってもらいたい」

「承知」

「理由を訊かんのか?」

「何事も師匠のお考えのままじゃっで」

「恩に着る」平助が頭を下げた。

「他人行儀なこつは言いっこなしじゃ。じゃっどん、ワクワクしもすな、中華圏には未知の武術家が沢山おっとでごわっしょう?」

「見たことも無いような手練れが、わんさとおる筈じゃ」

「では、早速準備ばすっで、今夜はこれで・・・」

「パスポートはあるか?」

熊さんは無言で頷いて道場を出て行った。



3


福岡空港国際線の出発ロビーは混雑していた。春節に合わせて福岡からも帰国者が多いと言う事か。

「王の容態の新しい情報は入ったかの?」平助が訊いた。

「いえ、まだ何も。王大人にお聞きしたのですが要領を得ません」

心配そうにメイメイが答えた。

「そうか・・・」

「師匠、行ってみれば分かるこってごわす、それまでは心配してもしょんなかこってごわそう」

「うむ、そうであったな」


アナウンスが流れ乗客が3番搭乗口に向かい始めた。

「私達も参りましょう」メイメイが言った。

「うん・・・」

「どうされました、お顔の色が悪い様ですが?」

「いや・・・」

「師匠、ひょっとして飛行機が苦手なのじゃごわはんか?」

「そ、そんな事はありゃせん・・・」

「そうか、思い出しもしたぞ。いつか、師匠の乗った指揮官機が撃墜されたと聞いたこつのありもすたい」

「まぁ、そんな事が・・・」

「違う違う!」

「先生にも苦手なものがあるのですね」メイメイが嬉しそうな顔をした。

「台湾に着くまで、私が手を握って差し上げますわ」

「い、いらんわい・・・さ、行くぞ、ついて参れ!」

平助が搭乗口に向けて早足で歩き出した。

「師匠、足のもつれとる・・・」熊さんが呟いた。


結局平助は、台北空港の到着ロビーに着くまで一言も言葉を発っしなかった。

「師匠、着きましたばい。そろそろ口ば開いてくれてんよか頃じゃが・・・」

「うむむむむ!」突然平助が唸り出した。次の瞬間猛然と走り出す。

「し、師匠ぉ、どげんしたとですか!」

「うりゃー!」人垣を飛び越えて平助が飛んだ。

家族を出迎えに来ていた人たちが一斉に目を見張った。

平助より高く、人影が跳び上がるのが見えた。

「あ、王先生!」メイメイが叫ぶ。

ガッ!空中で二本の脚が交差する。位置を変えて影が地上に降り立った。

「平助、よく来たな!」

「王、元気そうで何よりじゃ!」

「バレておったか?」

「当たり前じゃ。あのような下手糞な嘘はすぐにわかるわい」

「そうか、ワハハハハハハ・・・」


「わ、王先生・・・!」メイメイが絶句した。

「お、メイメイか久し振りだのぅ」

「お久しぶりでごわす、王先生」

「熊さん、元気じゃったか?」

「お陰さんで。じゃっどん、先生もお人ん悪か、師匠がどんだけ心配してござったか・・・」

「熊さん、儂は心配などしてはおらんぞ」

「さっきまで一言も口を利いてくれんかったじゃなかですか」

「あ、あれはじゃなぁ、指揮官機が・・・」

「もう宜しいですわ!それより王先生、これはどういうことですの?」メイメイが怖い顔で王を睨んだ。

「クワバラクワバラ。日本に行っても相変わらず怖い娘じゃ」王はバツが悪そうに頭を掻いた。「これには色々と訳があってな、車の中で追々話そう」

「王、どこへ行くんじゃ」

「息子の所だ」


台北空港の車寄せから黒塗りの支配人専用車に乗って、四人は王大人の待つ圓山大飯店に向かった。


「・・・と言う訳なのじゃ」一通り話し終えて、王が口を噤んだ。

「では、その劉という男は高雄での利権を独り占めしようと企んでおるのじゃな?」

平助がそう問い返した時、圓山大飯店の赤い龍宮門が見えて来た。

「後は、息子の部屋で話そう」王が言った。



4


「劉 國鬼(りゅうこっき)は去年の高雄市長選に立候補して当選した男だが、奴の狙いは次の総統選なのです」王大人が言った。

「それが何か問題なのですか?」メイメイが質問した。

「大問題だよ。総統選には莫大な資金が要る。劉は高雄市長の地位を利用し、インフラの整備などで金を儲けようとしているんだ。建設許可制度や入札契約制度を悪用して大手ゼネコンとの癒着を強めようという魂胆なのだよ」

「王、それとお主とはどう関係があるのじゃ?」平助が王に問うた。

「平助、儂の道場は劉をリコールしようとする市民の本部になっておるのじゃ」

「なに、お主その歳で政治に関与しておるのか?」

「知っておろうが台湾では今でも戒厳令が敷かれておる。その為表立っては政治の話をする事は無い。しかし、それ故しばしば家族をも分断するような問題にも発展することがあるのじゃ。儂の道場はそれを防ぐ為の緩衝材になっておるのじゃよ」

「劉は、高雄市民の為に全力を尽くすという市民との約束を反故にして、総統選に向けて市長職を休職しようとしています」王大人が捕捉した。

「ちょっとよかでごわそうか?」それまで黙って聞いていた熊さんが口を挟んだ。

「なんだね?」

「師匠を呼び出した目的はなんでごわすか?」

「おお、それを最初に言うべきじゃった。実は『劉粉』と呼ばれる劉の支持者達が、リコール運動を妨害しようと画策しておるのじゃ。現にリコール推進派の市民に対する嫌がらせが頻発しておる。春節のどさくさに紛れて、本部である我が道場を焼き討ちしようとの計画も漏れ聞こえておるのじゃ」

「道場ば守る手伝いばせよと仰るとですか?」

「市民はこの道場を梁山泊に、劉を朝廷の奸臣蔡京に見立てて徹底抗戦の意思を固めておる。道場はただのシンボルじゃ。よって建物自体はどうでも良い、じゃが道場を失えば市民の心の拠り所が消える」

平助は腕組みをした。『まさか政治絡みとは思わなんだ、熊さんを連れてきたのは間違いじゃったかの・・・』

熊さんは平助の心を読んだように、不敵に笑った。

「師匠はこうなる事はある程度予測しておったのでごわそ?なら、乗り掛かった船でごわす、全力で王道場を守りもそ」

熊さんの言葉を聞いて、平助は腹を括った。

「聞いての通りじゃ。手をお貸しいたそう」

「平助、熊さん恩に着る」王は深々と頭を下げた。



5



「無門先生、熊先生、父を宜しくお願いいたします。私は中国国民党との関係が深い劉の総統選出馬を阻止すべく、ここに留まらなければなりません」

圓山大飯店の玄関に見送りに出て、王大人はそう言った。


黒塗りの車はメイメイが運転した。助手席には熊さんが座る。

装甲もガラス窓も分厚いドイツ製の車だ。不意の襲撃に備えているのかも知れない。

高雄に向かう車の中で、王は実家に帰るよう厳しくメイメイに命じたのだが、メイメイは頑として受け入れなかった。

日本人の平助と熊さんが道場を守るために立ち上がろうとしているのに、王の弟子である自分がのほほんと正月気分に浸っている訳にはいかない、と言うのである。

「やれやれ、メイメイは日本に行って益々頑固になったわい」と、王は小さく溜息を吐いた。



高雄に近付くにつれ、車窓には雄大な田園風景が広がった。

「見事な田畑でごわす。土の痩せたカゴンマではお目にかかれん絶景たい」

「この景色も一人の日本人のおかげなのじゃ」王が言った。

「日本人でごわすか?」

「熊さんは八田與一という名を聞いた事はないかの?」

「残念ながらありもはん」

「平助はどうじゃ?」

「ある、戦前にこの高雄に烏山頭ダムを造った日本の技術者じゃな」

「その通り。台湾でこの日本人の名前を知らぬ者はおらんよ。このダムのおかげで不毛の大地が一大穀倉地帯へと変わったのじゃからな」王は感慨深げに外の景色を眺めた。

「しかし残念ながら戦時中アメリカの潜水艦に雷撃され、乗っていた船が沈没して亡くなった」

「王、ひょっとしてお主その日本人と親交があったのか?」

「ああ、随分と世話になった。奥方が八田さんの後を追ってダムに身を投げたときには本当に悲しかった。劉はあのダムにも手をつけようとしている、儂はそれを絶対に許しはせん!」王が珍しく語気を荒げた。

「そうか・・・ところで王、なぜあのような嘘を手紙に書いた?」

「高尾の郵便局は劉粉のメンバーが牛耳っておる。日本から助太刀を呼んだことを知られたくはなかったのじゃ」

「なるほど・・・のう」


車が市街地に入った。

「高雄市役所が見えてきました」メイメイが言った。

フロントガラスの向こうに、淡い緑色の西洋建築物が見える。

「日本統治時代に清水組によって建てられたものです」

「台湾最大の悲劇、二・ニ八(ニニハチ)事件の舞台になった場所じゃ」王の表情が曇った。

「ニ・二六ではなく、ニ・二八でごわすか?」

「左様、1947年2月27日に台北市内で起こったある事件をきっかけに、台湾全土に飛び火した国民党政府による台湾人への弾圧虐殺事件の事じゃ。今は、あの場所が劉粉の本拠地になっておる」


車は小高い丘を登り、坂の途中にある二階建ての白い建物の前に止まった。

「ここが儂の道場じゃ。王武館という」

「ほう、洒落た作りじゃ。あの窓のステンドグラスなどは、まるで教会のようだの」

「妙心館とは大違いでごわす」

王は二人を誘(いざな)って玄関に足を踏み入れた。メイメイは最後について来る。

玄関を入るとすぐに、屈強な男が出迎えた。

「先生、お帰りなさい」

「うむ、今帰った。日本からのお客様をお連れしたぞ」王は平助と熊さんを振り返る。

「ようこそいらっしゃいました、李子龍と申します」

軍の武術指導教官李子龍は、王の弟子である。

「お会いできて光栄です」李は流暢な日本語を操りながら、右手を差し伸べる。

「私の兄です」メイメイが口を添えた。

「そうか、君が槇草と戦ったのか」李の手を握りながら平助が訊いた。

「はい、槇草さんはお元気ですか?」

「うむ、元気じゃ。君によろしく伝えてくれと言っておった」

李が嬉しそうに微笑んだ。

「そちらの方は?」

「熊さんじゃ、刀を使わせたら右に出るものはおらん」

「熊さん?」

「前田行蔵ち言いもす。師匠、おいの名前ば忘れよるでっしょ?」

「おお、そうじゃったな、すまんすまん」

「ははは、愉快な先生ですね。李子龍です、宜しく」子龍は熊さんと握手をした。

「ところで、皆集まっておるか?」王が尋ねた。

「はい、道場に」

「では早速参ろうか」



『皆、よく集まってくれた』王が中国語で言いながら道場に入る。道場には二十人ほどの市民が集まっていた。

『あ、王先生お帰りなさい!』年嵩の男が言った。

『呉楊(ごよう)、留守にしてすまんかったな』王は最古参の弟子に言った。『今日集まってもらったのは他でもない。いよいよ劉が動き出した』

『郵便局に潜り込んでいる公孫(こうそん)が情報を伝えて来ております』

『そうか、決行の日が決まったのじゃな?』

『一月二十七日、徐夕(大晦日)の深夜』

『やはりそうか、年が変わる瞬間の喧騒に紛れて襲ってくるつもりじゃな』

『そのようです』



「師匠、なんと言っておるのでごわすか?」熊さんが囁いた。

「儂にもわからんよ。だが緊迫した様子じゃ」


『今日は日本から助っ人を連れて来た』王が言うと皆一斉に二人を見た。『この道場を守る為、一緒に戦ってくれる』

『そんな爺さんと髭面の男が役に立つのですか?』呉楊が訝った。

『心配するでない。この爺さんの腕は儂と互角じゃ。髭面の男は刀を持たせれば天下無双』

『先生のお言葉ですが、とても信じられません!』


「王、その人は儂らの腕を信じられんと言っておるのじゃろう?雰囲気でわかる」

「すまんな。台湾人の日本人に対する思いは複雑じゃ」

「どれ、その中で生きの良い若者を四、五人選べ。『百聞は一見に如かず』じゃ」

「師匠、おいが行きもす」

「お主は後じゃ」

「わかった、怪我をさせるなよ・・・」王が言った。『趙、燕、魯、柴、犀この爺さんに掛かってみよ』

集まっていた市民は、五人の若者を残して壁際に下がった。



平助を囲んで五人の男たちが円陣を組んだ。皆、武祭『宋江陣』に出る程の腕自慢だ。

正面の男が他を制して一歩前に出た。流石に年寄りに一斉に掛かるのは気が引けたようだ。

平助の前に立った途端、男の顔が蒼ざめた。構えを取ったが前に出ることが出来ない。

平助はただ立っている。

男の顔が見る見る朱に染まる。息をする事を忘れているようだ。

「青くなったり、赤くなったり、忙しい事よのぅ」

平助の言葉に誘われるように、男が奇声を発して猛然と突っ込んで来た。

動いたようには見えなかった。ほんの僅か身を屈めただけで男は壁際まで飛んでいく。見ていた人々が慌てて男の身体を受け止めた。

糸が切れたように、四人の男たちが一斉に平助に飛び掛かった。

平助は舞うように男たちの間をすり抜ける。

男たちは面白いように投げられ、ある者は電撃に打たれたように硬直して倒れた。

たちまち道場が静かになった、男たちの呻き声だけが聞こえる。


「そちらの方のお相手は、私がしよう」振り向くと子龍が手に長剣を携えて立っていた。

熊さんはゆっくりと帯に刀を差し、道場の中央に出た。

左手の親指を鍔に掛け子龍に向かって礼をする。

子龍は剣の柄頭に左掌を当て、中国式の礼を返す。

同時に間合いを切って抜刀した。

熊さんは青眼、子龍は剣指(剣を持たない方の手指)を熊さんに向け右手の剣を額の前で構えた。

やがて、子龍の剣はゆっくりと顔の前で縦回転し、次第に速度を上げた。それに対し、熊さんの刀は微動だにしない。

子龍の剣が頭上で横回転に変化した。

熊さんが一歩前に出る。子龍の剣は高速で回転したまま軌道を下げた。

キン!と高い音がして熊さんの刀が弾け飛んだかに見えた。

子龍は剣を振り切らなかった。そこに、熊さんの刀が最短の軌跡を描いて飛んできた。危うく子龍は剣を立てて斬撃を凌ぐ、振り切っていたら斬られていただろう。

そのまま、鍔迫り合いに入る。互いの柄を通して相手の力の流れを読む。

先に動いた方が負ける。膠着状態が続いた。

どちらからともなく、間合いを切り仕切り直す。

熊さんが刀を鞘に納めた。子龍が怪訝な顔で熊さんを見る。

「負けを認めるのか?」

「うんにゃ。このままでお相手致す」

「なに!」

子龍は内心激怒した。『俺を舐めているのか?それとも何か奇策があるのか?』

腰を落とし攻撃の態勢に入る。しかし、動けなかった。鞘に収まった刀の柄頭がまるで蛇のようにこちらを窺っている。背中に冷たい汗が流れた。

どのくらい経っただろう、永遠の時が流れたような気がした。

「それまでじゃ。この勝負儂が預かる!」王の声が道場に響く。

熊さんが先に構えを解いた。子龍はやっと我に返り息を吐く。

「日本の剣術には居合というものがある」王が言った。

「イアイ?」

「鞘の内で勝敗を決する術じゃ。儂も初めて平助に見せてもろうた時は対処の仕様がなかった」

「今のがそれですか?」

「そうじゃ・・・李、良い経験をしたの」

「はい」


『呉楊、どうじゃ!』

『先生、私が間違っておりました。そのお二人がいれば百人の味方を得たようなものです』


「平助、百人力じゃとよ」王が平助の方を振り向いて笑った。

「分かって貰えればそれで良い。のぅ熊さん」

「じゃっど、じゃっど・・・」




6



「なに、王の奴が日本人を連れて戻って来たと?」劉國鬼は薄くなった髪を撫でつけながら問い質した。

「はい、爺いと背が低く丸っこい髭面の男です。後は超絶別嬪の、車を運転していた女」高雄市役所の市長室で、劉は見張りの宿玄(しゅくげん)の報告を受けた。

「ふん、日本人は取るに足らんな」

「しかし、王の例があります」

「あんな、化け物のような爺いが世界に二人といる訳はないだろう!・・・女について分かった事は?」好色な顔を向けて劉が訊いた。

「日本人に嫁いだ李の妹だそうです」

「妹?何しに戻った」

「春節だからではないでしょうか?」

「ふむ、日本から来たのはその三人だけか?」

「はい、他には誰もいません」

「そうか、なら予定通り決行だ!」

「はい」

「耶律(やりつ)を呼べ!」

「分かりました!」

宿玄が出て行った後、劉はほくそ笑んだ。「王、見ておれ。明日で終わりだ・・・」



7



耶律は高雄大学の武術場にいた。劉の政治理念に賛同する学生を集めて、中国武術を指導している。

「そこっ、手加減をするな!」

「し、しかしこれ以上やると怪我をします」

「そんなことで敵が倒せるか!もっと脳にアドレナリンを供給しろ、怒りは敵を倒すための重要な原動力だ!」

「はいっ!」

学生達は耶律の命令を忠実に守るよう訓練されている。一糸乱れぬ統制の取れた動きはまるで軍隊のようだ。

「耶律!」宿玄が呼んだ。「劉市長がお呼びだ!」

「今、稽古中だ!待たせておけ!」

「相変わらずだな」

宿玄は困った顔で耶律を見た。

「一つ気になる事があるのだ」

「なんだ?」

「李の妹が日本から爺いと熊のような男を連れて来た。劉市長は取るに足らんと言っておられたが・・・」

「何、李の妹だと!」耶律は一瞬複雑な顔をした。

「どうした?」

「い、いや、だとするとその日本人は侮れんぞ」

「何故だ?」

「二年前の『宋江陣』で李を倒した日本人がいる。李の妹は日本人と結婚したと噂で聞いた」

「しかし来たのは若い男ではない」

「少なくとも、その男の関係者である可能性が高い」

「では、腕が立つのか?」

「用心に越した事はなかろう」

宿玄が腕時計を見た。

「そろそろ市長の所へ行かんか?」

「分かった。着替えて来る。待っていてくれ」




8



「メイメイさん、僕と付き合ってください!」高雄の私立光華女子高級中学校正門前で、耶律はメイメイに愛の告白をした。

「私は、私より強い殿方でなければお付き合いしないと決めています」

「知っています。その為に血の滲むような稽古に耐えてきたのです」

「では、兄に立会人を頼みましょう」

「お兄さんはどちらにおられるのですか?」

「高雄大学の武術場・・・」



「お兄さま、立会人をお願いしたいのだけれど」

「またか、今年に入って三度目だぞ」

「・・・」メイメイは黙って兄を見た。

「仕方がないなぁ。今度の相手は強いのか?」

「弱ければここに連れて来ません」メイメイは耶律を振り返った。

「耶律と云います、よろしくお願いします」

「メイメイの兄だ。妹は強い、諦めるなら今のうちだ。負ければ身も心もズタズタになる」

「自信はあります!」

「後悔はしないのだな?」

「はい!」


武術場の真ん中で、メイメイと耶律は向かい合った。

「俺が止めたら勝負は終わりだ、判定に異を唱える事は許さない。良いか?」

「はい!」

「ならばよし・・・始め!」


メイメイは足を肩幅に取って構えた。左手は顔の前、右手は腰、共に開手。

耶律は腰を低く落とし、馬歩(騎馬立)を斜に構え両拳を体側に開く。

メイメイが軽く跳ねてリズムを取り始めた。

耶律は馬歩のまま器用に前後に移動する。

先に仕掛けたのはメイメイの方だった。頭を下げて敵の動きを誘い、耶律が一歩前に出てきたところを右の下段蹴りから上段蹴り、左の後ろ回し蹴りへと技を繋ぐ。

耶律は半身でこれを凌ぎ、メイメイの技が尽きたところで攻撃に転じた。

両腕を風車のように回しながらメイメイに突進する。間合いが詰まると肘打ちを多用し、離れるとまた拳を縦横無尽に振り回す。

その間にも、メイメイは低い蹴りを繰り出し耶律の動きを止めようとした。

耶律の拳が空を切った時、メイメイの下段蹴りが決まり耶律がガクリと膝を突く。

間髪を入れず肘が耶律の右肩に落ちて来た。容赦のない肘落としが決まり鈍い音がした。

耶律は堪らず這いつくばった。「まだだ・・・!」右肩を押さえながら、ヨロヨロと立ち上がる。


「止めっ!それまでだ」子龍が割って入る。

「まだやれる・・・俺はまだ負けてない!」耶律は子龍に向かって叫んだ。

「勝負はあった。今の肘打ちが頸部に落ちていたらお前は死んでいる」

耶律は唇を噛んだ。右の鎖骨は折れているだろう。耶律は悔し涙に暮れて武術場を後にした。


あれが十数年前。

俺が同じこの場所で武術を教えているのは、あの時の悔しさを忘れない為だ。




9




平助は二階の部屋に通された。熊さんは隣の部屋に荷物を置きに行った。窓から中庭が見える。二年前、槇草が泊まった部屋だ。

「奴め、こんな洒落たベッドに寝たのか」天蓋付きのベッドを眺めて平助が呟いた。


つい、ウトウトとしてしまった。旅の疲れだろうか、気がつくとベッドに寝ていた。

窓の外はすでに暗くなっている。

ただ、窓に不規則に明かりが明滅しているのが気になった。

起き上がって窓際に歩み寄り外を見た。昼間見えていた中庭ではない。どこか深い森の中にいるような気がした。

大きな木の下で、誰かが焚火をしている。いつの間にか平助は外に立っていた。

黒いマントを纏った蝙蝠のような男が、焚き火で肉を焼いている。平助は近づいて話しかけた。

「梁山泊随一の拳法の達人、武松殿ですな?」

「お主は?」

「無門平助」

「儂が武松だと何故分かった?」

「弟子が貴方と戦った、と言っておりました故」

「あの若い日本人か・・・元気か?」

「到って・・・」

「見所のある男だ」

「ありがたき教えをいただいたそうですな。礼を言います」

「なんの・・・それより、喰うか?」

「それは?」

「儂の右拳・・・儂の煩悩だ」

「頂きましょう」平助は黒い肉に喰らい付いた。

「どうだ?」

「苦い・・・」

「そうだろうな、毒手じゃもの」

「拳に毒を染み込ませて鍛え、触れた相手を倒すという朱砂掌の事ですな?」

「そうまでして倒したい相手がいたのだよ」

「執念・・・ですかな?」

「顔に青い痣のある男が儂の煩悩を斬り落としてくれた」武松は平助を見据えた。「お主で二人目じゃ」

「何がですかな?」

「儂の煩悩を喰ろうたのは」

「今一人は?」

「王」

「王が・・・」

「もう、奴に教えることはない」

「・・・」

「お主にも・・・な」

「一つだけ訊いてもよろしいか?」

「ほう、儂に答えることが出来るかな?」

「煩悩は幾つ?」

「三つ、いや五つ・・・百八つか?否、万はあるな」

「そんなに・・」

「しかし、ひとつを悟れば皆消える」

「そのひとつとは?」

「『無常』・『無我』・『苦』、そのうちのひとつでも悟れば良い。無常も無我も苦も。結局は同じものだからな」

「どのように同じなのであろうか?」

「すべては波のようなものだからだ。ただ、現象の変化の流れがあるのみ」

「・・・」

「常なるものは無いと知れ。我も居らぬと知れ。そして、苦とは何かを知るのだ」

「よう分かり申した」

「ただ、悟りは容易では無いぞ」

「分かると出来るは別物ですからな、しかし武松殿は悟っておられるのでは無いのですかな?」

「ワハハハハ、悟っておればこのような所にはおらぬよ・・・」



「無門先生、お食事の用意が出来ました」ドアをノックする音が聞こえてメイメイの声がした。

平助はベッドの上で目を覚ます。

「うむ、すぐに行く」

足音が遠ざかる。

「常なるものは無い・・・か」





10



「耶律、人選は終わったか?」市長室で劉が訊いた。

「終わりました」

「何人だ?」

「私を入れて四人」

「四人だと?あの王と李がいるのに少なくは無いか?」

「ふ・ふ・ふ、私が選んだのは、その辺の武術家ではありません」

「この台湾に奴らを倒せるような武術家がいるとは思えんが?」

「中国闇社会の武術家を雇いました」

「何、外省人か?」

「はい」

「大丈夫なのか?我らが疑われるようなことはないか?」

「奴らはプロです、その心配はありません」

「しかし、何故お前がそんな奴らと面識がある?」

「私は、ある武術家に敗れた後、伝を頼って大陸に渡りました。もちろんその武術家に復讐をする為に」

「そこでそいつらと知り合ったのか?」

「正確には一人の男とです。私は、入門した福建省の武館で、みるみる頭角を現しました。館長も私に目を掛けてくれましたが私は今ひとつ納得がいきません」

「それで?」

「その武館の弟子の中に蔡景(さいけい)という男がいました、力はその武館でも中の下くらいですか」

「そんな男、何人知っていても頼りにはなるまい」

「慌てないでください、まだ話には続きがあります。私は気がついていたのです、この男は只者では無い、わざと実力を隠していると」

「ふむ・・・」

「ある日、思い切ってそのことを蔡に問うてみたのです。蔡はあくまでも白を切っていましたが、私がいきなり襲い掛かると反射的に技を繰り出して私をKOしてしまいました」

「殺し屋という本性を隠すために武館に紛れ込んでいたという事か?」

「そうです、私はそれを誰にも口外しないという条件で、蔡に実戦的な技を教えてもらったのです」

「他の三人はその男の仲間ということか?」

「そういうことです」

「そうか分かった。お前が破れた武術家が李なのだな」

耶律は黙っていた。まさか妹に敗れたとは口が裂けても言えない。

「よし、お前に任せる。存分にやるがいい!」

早とちりの劉は大声で言った。

「はい、任せてください」耶律は軽く頭を下げて市長室を出て行った。







11



徐夕(大晦日)の朝、王の道場に集まった市民は五十人を超えていた。

「おはよう諸君。今年も今日で終わりじゃ、掃塵(大掃除)をして悪い気を追い払い新しい年を迎えよう!」

王は市民の拍手を両手を挙げて制した。

「しかし、この国はまだ戒厳令が解かれてはおらん。これだけの人数が一堂に介せば、刑法百条の騒乱罪を適応される可能性がある。よって、この道場には七人を残し後は自宅で待機する事とする」

「王先生、しかし劉の手下どもがここを焼き討ちしようと狙っているのではありませんか?」

「そうだ、我々にはここを守る義務がある!」あちこちで賛同の声が上がる。

「皆の気持ちは大変嬉しい。だが、今、軍や警察に目を付けられるのは得策ではない。我々の真の目的を達成するためにも、ここは儂の意を汲んで貰いたい」

「七人でここを守れるのですか?」

「刑法百条は劉粉達にも等しく及んでおる。ここを襲撃する為に人数を頼む事はできまい、いずれ手練れの精鋭でやって来るじゃろう」

「誰が残るのです?」

「儂、李子龍、李梅、呉楊、公孫それに日本から来た客人二人」

「客人の腕は昨日見せて頂きましたが・・・」

「呉楊、お主言っていたではないか。百人力を得たと」

「それは・・・」

「これ以上の議論は無用じゃ。皆、家に帰って吉報を待て!」

王は強引に話を打ち切ってしまった。ここに集まっていることを誰かに通報されたら元も子もない。皆、渋々帰途についた。



「さすがに今日は戒厳令の規制も緩む、そこが奴らの狙い目じゃろう」

道場の床に建物の図面を開いて王が言った。「建物の外、東西南北に一人づつ、中庭に一人を配置する」

「後の二人は?」呉楊が訊く。

「建物の中、一階と二階に一人ずつ」


道場の正面玄関の右側に階段があり、上るとすぐ左側に部屋がある。部屋は南北に三つ並び、それぞれに独立していた。南側から王、メイメイ、子龍の順で使っている。

建物を俯瞰するとコの字型に建っていて、右へ行くと長い廊下がある。突き当たりの右側にドアが一つあった。

このドアを開けるとその奥にもう一つドアがある。つまり二部屋続きということだ。

そのドアの奥が平助に与えられた部屋であり、手前は熊さんの部屋だ。

一階は王の部屋の真下が道場で、平助と熊さんの部屋の下が厨房と食堂という配置になる。


その時、郵便局に潜入していた公孫が道場に入って来た。

「公孫か、何か分かったか?」王が訊いた。

「今日、市役所に郵便物を届けに行ったら、面白い奴を見かけた」

「誰だ?」

「高雄大学武術指導員の耶律だ」

「耶律?耶律といえば劉粉の用心棒じゃないか」呉楊が公孫を見据えた。

「私、どこかでその名前聞いた事がある・・・だけど思い出せない」メイメイが言った。

「何れにしても、襲撃は奴の仕事じゃろう」

「出て来た耶律の後をつけてみた、そしたら・・・」

「そしたら?」

「高雄の駅で帽子を被った怪しげな男とつなぎを取っていた」

「その男の後をつけたか?」

「いや、とてもそんなことのできる相手じゃなかった。奴は只者じゃない」

「では、襲撃の人数などは分からぬのじゃな?」

「残念ながら」

「いや、よくやってくれた。お主はこのまま此処にいろ、もう間者の必要はないからな」

「分かりました」


それから、公孫を交えて七人は作戦を話し合った。




12



高雄駅の待合室の木のベンチに、背中合わせに座って耶律と蔡景が小声で喋っている。

この建物も戦前日本政府によって建てられたものだ。

「他の三人は?」耶律が訊いた。

「ここには来ない」ツバ付きの帽子を目深に被った蔡景が答える。

「何故だ?」

「お前に顔を見せるのは、俺だけでいい。それに、太極拳の趙蓋(ちょうがい)と少林拳の淵観(えんかん)は仲が悪い、ここで暴れられては困るからな」

「大丈夫なのか?」

「心配は要らん。やる事はやるよ」

「なら、良いが・・・同時にかかって敵の戦力を分断せねばならん」

「分かっている。十二時きっかりに王の道場に襲撃を掛ける」

「頼んだぞ」

「ああ」

「それから・・・」耶律は蔡景を振り向いた。

「何だ?」

「女には手を出すな。女は俺が殺る」

「ご執心だな」

「分かったのか?」

「これは俺達にとっては春節の小遣い稼ぎだ、無駄な事はやらないよ」


夕方から鳴り出した爆竹の音が、時と共に大きくなって行く。深夜には最高潮に達するだろう。

「では、後ほど会おう」

「じゃあな」

蔡景は、つ、と立って駅舎を出た。

「今夜は血の雨が降る・・・」耶律が呟いた。


13



「熊さん、建物の周りを見ておこう」平助が言った。

「そう致しもそ」

作戦会議が終わり、平助と熊さんは周辺の状況を把握するために立ち上がった。

「先生、どちらへ?」メイメイが尋ねた。

「なに、建物の周りを見ておこうと思ってな」

「それならば、私がご案内致します」

「そうか、それは有難い」

「平助、この戦いが終わるまで酒はお預けじゃ」王が平助を見上げて言った。

「分かっておる。明日は初一(元旦)じゃ、美味い屠蘇を呑もうぞ」

「楽しみじゃの」


道場の四方はぐるりと塀で囲われている。正面玄関から外へ出た。左前方に門が見える。

「あの門は夜になると閉めますが、人が乗り越えられない高さではありません」メイメイが言った。

扉は鉄格子でできているが、装飾的な美しい門だ。

「左回りに回ってみましょう」

広い中庭が見える。一番奥に緑色のジープ、これは李の車だ。

平助の部屋から見下ろせる所に、乗って来た黒い車が駐めてあった。

「花壇がなければ、優に六台は駐められます」

「戦いの場としては狭くはありもはんが、花壇に気ばつけんといかん」

「ここは、呉楊と公孫が守ります」

車を通り過ぎると窓があった。

「こちらが厨房の窓になります。二階が無門先生のお部屋です」

平助は、昨日見た夢を思い出していた。勿論焚火の跡も大木も無かった。

建物の角を左に曲がると細長い通路のような場所に出た。

「こちらが建物の東側になります」

塀の向こうに見慣れた瓦屋根が見える。

「お隣は、戦前に日本人が建てた日本家屋ですが、今は日本贔屓の内省人(台湾人)が住んでいます」

「おいは、此処を守ればよかとでごわっしょう?」

「はい、熊先生には此処をお願いいたします」

「承知しもした」

角を曲がって建物の裏に出た。同じ幅の平地が続いている。塀の上には雑木林の木の枝が覆い被さるように茂っていた。

「この裏は深い森になります。襲撃者は此方から侵入してくる公算が大きいでしょう」

「ふむ、此処は李の持ち場か?」平助が訊いた。

「そういう事になります」

「守備範囲は一番広いな」

「兄は張り切っております」メイメイが苦笑した。

建物の西側に出た。「此処は私が守ります」

「隣は赤煉瓦の洋風な住宅じゃな」

「はい、貿易商を営む西(さい)さんの家です。高雄では有名な資産家です」

「土地が一段低くなっておるな、こちら側からの侵入は考えにくい。ともあれ気をつける事じゃ」

「はい、充分注意をいたします」

「儂と王は建物の中か?」

「はい、焼き討ちは失火と見せかける為に必ず室内に入ります。どうぞよろしくお願い致します」

「年寄りは、体良く厄介払いされてはおらんか?」

「まさか・・・」メイメイは平助を見て微笑んだ。

「まぁ良い。若い者には花を持たせねばのぅ」


一周回って玄関に戻ると、門の前に人影が見えた。真紅のチャイナドレスを纏った背の高い女が立っている。長い黒髪を古風に結い上げていた。

「・・・」熊さんが固まっている。

「あの・・・」美女が此方を振り向いて声をかけて来た。

「はい、何かご用でしょうか?」メイメイが緊張した面持ちで返事をした。

「此処に武松と云う人はおりませんか?」夢を見ているような目で女が訊いた。

「失礼ですが、貴女は?」

「申し遅れました、扈三娘(こさんじょう)と申します」

「私は李梅。武松という名前は訊いたことがありません」

「待てメイメイ。その人は武松殿のことを訊ねておるのか?」

「そのようですが、先生はご存知なのですか?」

「昨夜会うた」

「えっ!何処で」

「そこの中庭じゃ」

「・・・」

「しかし、この世のお方では無い、夢で会うたのじゃよ・・・」

扈三娘はにっこりと笑った。

「また、夜に参ります」

扈三娘は紅いドレスを翻して、消えるように立ち去った。

「あれは人間でっしょうか?」熊さんが呟いた。

「人には違いあるまい。じゃが、只者ではない」

「敵に回したくありまっせんな・・・」

「何者でしょう?」メイメイが訊いた。

「分からん、しかし用心したほうが良さそうじゃ」


三人は扈三娘の消えた方角を長い間見詰めていた。



14



闇の中で人の争っている音がする。声は一切しない、ただ時々短い呼吸音と破裂音が聞こえるだけだ。それがどれほどの時間続いただろうか。

「いい加減にしろ。仕事の前に体力を使い果たしてどうするんだ」蔡景の倦み疲れた声がした。

戦いの気配が止んだ。

「準備運動だよ」趙蓋が答えた。「ついでに、太極拳の方が優れている事をこいつに教えてやろうと思ってな」

「何を言っている。少林拳の方が優れているに決まっているじゃないか」淵観の声だ。

「飛んだり跳ねたりするだけが武術じゃないんだよ」

「お前の方こそ、そんな鈍間(のろま)な動きで敵が倒せるのか?」

「もうよせ」蔡景が言った。「二人とも分かっているはずだろう、武術は結局行き着く所は同じなんだ。何度言ったらわかるんだ」

「分かってるよ。ほんの暇つぶしだ」

「蔡大兄が言うのなら、もう止める」

「わかれば良いんだ・・・そろそろ、年が明けるぞ」

「じゃあ行くか?」

「応!」


三人は森を抜け、塀に近付いた。「花火が合図だ」蔡景が言うと、二人は無言で頷いた。




15




「西周(さいしゅう)様、少し飲みすぎたようです。庭に出て風に当たっても宜しいでしょうか?」

耶律は邸の主人に向かって慇懃に訊ねた。

「どうぞどうぞ、市長代理の貴方に否はありません。ご自由にご散策下さい」

「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」耶律はテラスの戸を開けて庭に出た。

耶律は市長の代理として、赤煉瓦の資産家が主宰する年越しパーティーに出席していた。

勿論、機を見て王の道場に忍び込む為である。

酔った振りをして塀に近寄り、庭に生えているアカギの樹の陰に隠れる。この樹に登れば道場の敷地に飛び降りる事は容易い。

「もう直ぐだな・・・必ず昔年の恨みを晴らす」






16



戦いの場を照らし出すように、道場には煌々と灯りが燈っていた。

徐夕も押し迫った頃、扈三娘は昼間とはうって変わった純白のチャイナドレスを纏って門の前に現れた。

夜目にも鮮やかな立ち姿を見て、呉楊は目を疑った。

「何か御用かな?」呉楊はなんとか冷静に対応しようと務める。

「はい、この門をお開け下さい」扈三娘は呉楊を見詰めて言った。

「それは出来ぬ。今夜は取り込んでおる、用ならば明日の朝来るが良い」

「・・・」扈三娘の瞳が怪しく光る。

呉楊の躰に電撃が走る。呉楊は何かに操られるように、ゆっくりと鉄の扉を開けた。

「呉楊何をする!」公孫が叫んだ。

その時、新年を祝う花火が盛大に打ち上がった。その音で正気を取り戻した呉楊だったが、既に扈三娘は門の中に入っていた。

「妖術使いめ!」呉楊が繰り出した拳を身を低くして躱すと、扈三娘の足が真上に跳ね上がった。

呉楊は顎を打ち砕かれ、声も無く地に沈んだ。



17



花火の大音響と共に、三人の男が北側の塀の上に姿を現した。

塀の東側から飛び降りた淵観が真っ直ぐ熊さんに向かって突っ込んで行く。

熊さんが刀を抜き打った瞬間淵観は跳躍し、熊さんの頭上を飛び越しざま手に持った武器を振るった。ジャラッ!という金属音が聞こえて熊さんは危うく前に飛んだ。続けて、空気を切り裂く鋭い音がした。振り返ると見た事のない武器を構えて男が立っていた。



塀の中程から侵入した趙蓋は、李と対峙した。

「お前が李か?」

「そうだ」

「相手にとって不足はない」

「俺はあるがな」

「ふん、減らず口を叩く奴だ、淵観みたいだな」趙蓋はほくそ笑んだ。「行くぞ・・・」



西側から飛び込んだ蔡景は急ブレーキを掛けた。若い女がこちらを見た。

「チッ、女か!」

その瞬間、赤煉瓦の邸の樹の上から耶律が飛び降り、蔡景に一瞥をくれてから女に向かって駆け出して行った。

「仕方がない」蔡景は建物の中に侵入しようと決めた。

両手を顔の前でクロスして、近くの窓に体当たりをした。ガラスと窓の桟が粉々に砕けて大きな音がしたが、花火の音にかき消されてしまった。



「始まったようじゃな」平助は二階の窓から中庭を見た。

公孫が駆け出して行く所だった。その先に扈三娘が立っている。

「あの女、やはり刺客だったか!」

呉楊は既に倒れている。

「やめろ公孫!」平助は叫んだが公孫は既に扈三娘の間合いに入っていた。



道場にいた王の目の前でガラスが砕け散った。窓から飛び込んできた男はツバ付きの帽子を目深に被っている。

「耶律とつなぎを取っていた男じゃな?」王はゆっくりと馬歩に構えた。



「いけるかな?」

窓枠の上に立った平助はそのまま下に飛び降りた。鈍い音がして黒塗りの車の屋根が凹む。

「弁償ものじゃな」

平助が地面に降り立った時、公孫はうつ伏せに倒れていた。

「間に合わなんだ」

扈三娘がチャイナドレスのスリットから、形の良い脚を見せた。

「年寄りに色仕掛けは通用せぬぞ」

いつの間にか両手に短い刀を持っている。ドレスの下に隠し持っていたに違いない。

「日月刀か?」

「お爺ちゃん、手加減はしないわよ」扈三娘が笑った。





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