083 世界で一番長い夜が始まる
部屋を飛び出したチーの後ろ姿を見つめていたわたしは、紙を置いていたテーブルを見て、チーが紙を持ったまま飛び出した事に気がついた。
不味い。
もしあれが誰かに見られたらヤバい気がする。
何がかなんて分かんないけど、絶対見られたら不味い。
それは直感だった。
この歳で言うのも何だけど、女の勘と言った方が良いかもしれない。
とにかく、何故かあの紙は他の人に見られたらヤバい気がしてならなかった。
わたしは直ぐにチーの後を追う為に部屋を出る。
だけど、既にチーの姿はなく、完全に見失ってしまった。
何処に行ってしまったか分からないけど、今は早くチーを捜し出さなければならない。
わたしはチーの行きそうな所を考えながら走る。
チーはわたしと一緒に行動していない時は、いつも屋敷の西側の掃除を担当していた。
だけど、あんな状態のチーが掃除に行ったなんて思えない。
休憩時間はわたしの所に来る事が多かったし、仕事が終わった後もわたしに会いに来ていた。
それ以外なんて全く分からない。
「あー! マナさんだー! どうしたの?」
闇雲に走っていると不意にフープに話しかけられて、わたしは一旦止まってフープに体を向けた。
「フープ、チーを見なかった?」
「チーさん? チーさんはさっき見たよ。凄く慌ててた。多分バーノルド様の部屋の方に走ってったよ」
「バーノルド? ありがとう!」
「うん。あ、それからね、秘密基地見つけたよ」
「へ? 秘密基地? ええっと、ごめんね。わたし今急いでるから後でね」
「はーい!」
フープと別れて、バーノルドの部屋に向かって再び走る。
何でバーノルドの部屋に向かって行ったのかは分からないけど、今は考えている場合じゃない。
こんな時に【加速魔法】が使えたらと思うけど、使えないものをぐちぐち言ったって出来ないものは出来ない。
とにかく今は、早くチーを見つけないと!
突然、庭の方から大きな爆発音が聞こえて屋敷が揺れた。
わたしは驚いて立ち止まり、嫌な予感と緊張で唾を飲み込んだ。
次第に屋敷の中から悲鳴や泣き叫ぶ声が聞こえて、屋敷内が騒然としだす。
わたしの焦りは高まっていく。
庭に向かって走り出すと、庭に近づくほど騒ぎに近づいているのが分かった。
さっきまで、庭にはお姉とバーノルドとスーロパがいた。
お姉の身に何かあったんじゃと、わたしは庭に急いだ。
「ん~。マナちゃんじゃない。久しぶりね」
「誰かと思えば……ちっ。だから言ったのよ。夜まで待てってさー!」
庭に辿り着くと、そこには奴隷商人のスタシアナとラリーゼがクレーターの様に空いた穴の中心に立っていて、その側でバーノルドが倒れていた。
お姉とスーロパの姿は無かった。
だけど、その代わりに奴隷の子供達が数人とグランデ王子様がクレータから離れた場所で、3人の様子を眺めていた。
スタシアナとラリーゼの視線と言葉を受けると、周囲の視線がわたしに集まった。
状況がつかめず黙っていると、ラリーゼがニヤニヤと笑いながら、わたしに向かって歩き出した。
「チーを見なかった? あの子に大事なお話があるの」
「チー? 大事な話って何?」
「大事なお話は大事なお話よ。アンタなんかに教えてあげる必要なんて無いわ」
「それならわたしも教えない。ラリーゼがチーに酷い事を言ってるのをわたしは知ってる。それに、こんな状況を見せられて、あんたにチーの居場所を教えるわけないでしょ」
「ほんと……アンタってムカつくわね、マナ」
ラリーゼがわたしに向かって走り出す。
そのスピードは想像以上で、わたしは驚いたのもって反応出来なかった。
ラリーゼは隠し持っていたナイフを取り出して、それをわたしの顔に向けて振るった。
「――っ!」
ナイフがわたしの顔に触れ瞬間に、わたしのは土草に縛られて後ろに引っ張られた。
それがほんの少しでも遅かったら、今頃わたしの顔は真っ二つになっていた。
わたしは地面を転がる。
転がる勢いが止まると誰かが側に立ったので、その人物を見上げた。
側に立ったのはチーだった。
チーがわたしに背中を向けて、ラリーゼに真剣な眼差しを向けていた。
「チー?」
チーの名前を呼んだけど、チーはわたしに振り向かずにラリーゼをジッと見つめ続ける。
「捜したわよ、チー。でも、今はちょっと邪魔しないでくれる? そいつ、マナはいい加減ムカつくから、今から殺す予定よ」
「そんな事より、これはどう言う事なの? バーノルドおじさんには……チーがお金を貯めるまで、チーの邪魔をしないって約束したのに」
お金を貯める?
チー?
何を言ってるの?
「そんな事言って全然貯まらないじゃない。私もうこの生活に飽きちゃった」
「そんな……っ。だって、だってバーノルドおじさんの事が気にいったから、チーがお金を貯めるまで、ギリギリまで待ってくれるって言ったのに!」
「知らないわよそんなの。あの男はあんなに私が尽くしてあげてるのに、全然振り向かないし、挙句の果てにアンタが縛ったそこのブスを嫁がせるなんて言いだしたのよ? やってられないわ」
「そんなの……」
「アンタだって今日が何の日かくらい分かってるでしょう? とにかくさあ。もうお遊びはお終い。アンタのアレももう限界みたいだしね」
「待って! まだ、まだ大丈夫だから! 言ったよね。ちゃんと今日の夜の8時までには用意するって! お金はもう全部集まったんだよ?」
「へえ。そうだったんだ?」
ラリーゼがニヤリと笑い、その背後にスタシアナがやって来た。
そして、スタシアナがわたしを一瞥してからチーを鋭く見た。
「ん~。話は本当でしょうね? 嘘だったらどうなるか分かってるでしょう?」
「うん、大丈夫。チー、ちゃんとやったよ」
チーの足は震えていた。
そしてその足で、おぼつかない様子でゆっくりと歩いて、ラリーゼとスタシアナに近づいて行く。
わたしは土草に縛られて立ち上がる事も出来なくて、ただじっとその様子を見る事しか出来なかった。
チーの後ろ姿を見ながら、あの言葉が頭をよぎる。
“急げ。タイムリミットは深夜0時だ。”
もう考えるまでも無かった。
未だに意味の分からないこの言葉には、明らかにチーと、そしてラリーゼとスタシアナが関わっている。
そして、恐らく今日の深夜0時までに何かをしなければ、チーにとってよくない事が起きる。
チーがラリーゼとスタシアナの目の前に立って、何かを取り出そうとした時にあの紙が地面に落ちた。
チーはそれに気がつかなかったけど、スタシアナはそうではなかった。
震える手でチーは何かを取り出す。
それが何かはわたしの位置からは見る事が出来なくてわからなかったけど、ラリーゼはそれを満足そうに受け取った。
そして、その横でスタシアナがあの紙を拾う。
スタシアナは紙に書かれていた文字を見て、目つきを鋭くした。
「それがバーノルドおじさんの財産だよ。言ってた金額の分ちゃんとあるでしょ? チー頑張って力をいっぱい使ったんだよ。だから足りるでしょ? それに、それにね? さっき雑貨屋さんもちゃんと洗脳したんだよ。だから、あそこのお金もちゃんと持って来れるよ。だから早くお願い! 時間が、時間がないんだよね? 早くお医者さんに――」
「うっさい! 必死すぎ。引くわホント。ってか、雑貨屋? 何それ? うわあ、聞くからに金もってなさそうじゃん」
正直言って頭の中はパンクしそうなくらいに、色んな事が一度におきて整理出来なくなってきている。
バーノルドの財産だとか、チーが力を使ったとか、とにかく分からない事が多すぎる。
チーが雑貨屋で店員さんを洗脳していただなんて、とても信じられる様な事じゃなかったし、お医者さんにと言うのも気になる。
でも、やっぱりまったく話が見えてこない。
「ん~。それよりこれ、誰から貰ったの?」
スタシアナがチーにあの紙を見せる。
チーは慌てて、紙をしまっていた所に手を入れて顔を青ざめさせた。
「何それ?」
ラリーゼが訝しみながら紙に目を通して、チーを睨んだ。
「タイムリミットは深夜0時だ……ね。ふうん。成る程……アンタって字を読むのも書くのも出来ないわよね? って事は、これを書いたのはアンタじゃない。言いなさい。誰から貰ったの?」
「それは……」
「それは私です!」
「「――っ!?」」
突然チーの言葉を遮ってバーノルド邸の庭に響き渡る大きな声。
わたしはこの声を知っている。
なんなら少し前までバーノルドと馬鹿な事で言い争いをしていた声だ。
その声の主は、まるで漫画やアニメやゲームで颯爽と現れるヒーローの様なタイミングで現れて、地面に転がるわたしを縛り上げる土草を切り刻んでわたしの目の前に立った。
「遅れてしまってすみません、愛那ちゃん。お手洗いに行ってました!」
「あ、うん。お手洗いとか、そう言うの一々言わなくて良いから」
「そうですか? あ、後、本当はあの紙はサガーチャさんが入れました」
「え?」
まったく、本当に困った姉だ。
サガーチャさんと知り合いだったのかと聞きたいけど今はそんな場合でも無い。
それにお手洗いって……心配したわたしが馬鹿みたいだ。
だいたい行っていたのはお手洗いだけでも無さそうだ。
ちゃっかりわたしと同じメイド服まで既に着ていて、わたしとお揃いのつもりなのか、髪の毛を左にまとめてサイドテールにしていた。
本当にお姉はいつもマイペースで、どんな時もこんな調子だからわたしの気が休まらない。
わたしは土草から解放されて立ち上がり、困惑しているチーを目を合わせる。
「チー、後で色々聞かせてよ。力になるから」
「マナお姉ちゃん……」
「うっざ。本当に勘弁してよね~。そう言うの他所でやってくれない? 面倒臭い。やっぱりさっさと消すべきだった。つまりさあ、こいつ等に情報が漏れてるって事でしょ? さっさと動いて正解だったって事よね? 寧ろ遅かったんじゃないの? 外部の連中に邪魔されたら予定が崩れる可能性あるし、知ってる奴全部消さないとじゃん」
ラリーゼがわたしを睨みナイフを構える。
「ん~、問題無い……とは言いきれないけど、多少は問題が出ても楽しめると思うわよ。今の所計画通りだし。最終的に結果が出れば何でも良いわ。それにここにいる連中は、私達が直接手を下す必要もないわ。ここにはスーロパとチュウベエも配置してるし……ほら。来たわよ」
「アハハッ。本当だあ。そうだったわね~」
次から次へと厄介事は続くなと、ため息を吐き出したくなる。
わたしとお姉の左から少し距離が離れてはいるが、水の剣を持ったスーロパと、刀を持ったチュウベエが歩いて来ていた。
「反撃開始ですよ、愛那! モーナちゃん達の分まで頑張りましょう!」
「うん! ……ん? モーナ? モーナがどうしたの?」
「あれ? 言いませんでした? モーナちゃんはレバーさんのスキルの呪いで、数日前から奴隷商人さん達総出で追いかけられてます。それもあって、あちらにいるチーちゃんのお義姉さんが痺れを切らして、チーちゃんを早めに利用しようとここに来たんじゃないんですか? 予定では今夜の0時ですし、本当はもっとギリギリでチーちゃんに接触して脅した方が成功しやすいって、サガーチャさんが言ってました」
お姉の口から出た言葉は、わたしが今知りたい事全てが詰まっていそうな言葉で、とんでもなく情報量が多すぎて今日一番驚くには十分過ぎる言葉だった。
「はああああああああああああっっっっ!?」
時計の針が丁度6時を差した時、わたしの声がバーノルド邸の庭に響き渡る。
そして、世界で一番長い夜が始まった。