209 湖に斧を落としてはいけません
「戻った」
「良かったあ」
お姉とプリュイが湖に潜ってから暫らくして、ようやくラヴィが元に戻る。
2人になっていたラヴィは争ってはいたけど目立つ外傷も無く、わたしは一先ず安心して胸をなでおろして、ラヴィに近づいた。
「さっきモーナが怒って隕石みたいなのと一緒に湖の中に入って行ったけど、あれでさっきの女の人を倒したって事かな?」
「分からないけど、多分そう」
「ま、とにかく一件落着ッスね。でも、流石に寒いッス」
「がお……」
「そうだね……」
トンペットが言う通り、体はかなり冷えていた。
と言うのも、それはモーナのせい。
モーナが一度吹っ飛ぶように湖の中から飛び出した後、怒りながら魔法で巨大な隕石の様な岩を湖に落としたせいで、湖の水が勢いよく水飛沫を上げて雨の様に降り注いだのだ。
おかげで思いっきりそれを浴びてしまい、ずぶ濡れになってしまった。
「とにかく、後はお姉とモーナが湖から出てくるのを――」
「おお! こんな所にマナちゃんがいるじゃないか!」
「――っ!?」
不意にわたしの名を呼んだ男の大声が聞こえて驚いて振り向くと、森の茂みから懐かしくも会いたくない男が姿を現した。
その男の姿を見て、ラヴィは眉根を上げてわたしの前に立ち、男を虚ろな瞳で睨み見る。
トンペットとラーヴは首を傾げて男を見て、草を食べていたロポとごろごろしていたラテールも男に視線を向けた。
「まさかこんな所で会えるとは思わなかったよ。マナちゃん」
「わたしもあんたとまた会うなんて思いもしなかったよ。…………スタンプ」
そう、突然現れた男の名はスタンプ。
わたしがこの世界に来てモーナと出会った後に、一番最初に戦った男。
モーナのストーカーをしていた男で、何度かわたしの前に現れては邪魔をしてきた男だ。
「よく見るとずぶ濡れじゃないか。寒いだろう? 俺が人肌で温めてやってもいいぞ」
「お断り!」
「知り合いッスか?」
「敵」
ラヴィが打ち出の小槌を取り出して構える。
それを見て、スタンプは目を輝かせた。
「おお! それは打ち出の小槌じゃないか! まだ持っていたのか! そいつは元々俺が貰った物だ。返してくれ」
「断る」
「それは残念だなあ。それより俺の妻がいないな。何処にいるんだ? 一緒にいるんだろう?」
「結婚したの? 生憎だけど貴方の妻とは会った事ないから知らないよ」
「はははー。またまたあ。冗談を言うようになったんだねマナちゃん。流石は俺の愛人だ。俺の妻はモーナスちゃんだって知ってるだろう?」
「愛人になった覚えもないし、モーナは貴方の妻じゃない」
「何だ何だ? 嫉妬かい? 困るなあ」
相変わらずの話の通じなさ。
と言うか、何でこいつがこんな所にいるんだって感じで不可解だ。
ラテールの話では、精霊の里を中心にこの周辺は結界が張られていて、認識は出来ても普通は入って来れない様になっている。
それなのにこのストーカーは入って来た。
と、そこでロポがわたしとラヴィの雰囲気を見て気になったのか、わたしの側に来て心配そうに体をすり寄せる。
わたしはそんなロポに微笑んで、心配ないと背中を撫でた。
「なんかこのおっさん、話が通じなさそうッスね」
「面倒臭いのが来たです」
「がお……」
精霊達が話すと、そこで精霊にやっと気がついたのか、スタンプがロポの上に集まりだした精霊達を物珍しそうに見る。
「おお! 精霊が3人も! 話は本当だったのか! 俺とモーナスちゃんの新婚生活で飼うペットにはもってこいだな」
「うげっ。あのロリコンのおっさんボク達にまで目を付けたッスよ?」
「気持ち悪いです」
「がお……怖い」
「あのさ、この子達が怖がってるから、さっさとここから立ち去ってくれない?」
「出てけ」
わたし達全員で非難の目を向ける。
すると、スタンプがやれやれとでも言いたげな表情を見せ、背中に背負っていたらしい斧を手に持って構えた。
「マナちゃんに敗れてから、スキルに頼り過ぎていた事に俺も反省したんだ。せっかく俺は半魔なのに、己の肉体を鍛えなかった」
「は? どうでも良いし聞きたくもないから。そんな事」
「だからこそ俺は自分を鍛え上げたよ。そして手に入れたんだ。完璧な肉体を!」
「ヤバいッスね、あのおっさん。全然人の話を聞かないタイプの変態ッス」
「さあ、見るが良い! この完璧なる肉体美!」
スタンプがそう言った途端に、スタンプの上半身だけが膨れ上がり、そして何故か服が破れて上半身裸の変態と化す。
と言うか、上半身裸だけ筋肉が膨れ上がった様な感じになって、何だかバランスの悪い変態が誕生した感じになってる。
「どうだ!? 美しいだろう!?」
「バランス悪くてキモい」
「――何ぃぃいい!?」
スタンプが額に血管を浮かべて眉根を寄せ怒る。
と、そこで湖から水飛沫が上がり、湖に潜っていたお姉とモーナとプリュイが湖から飛び出して戻って来てしまった。
「おーいマナー! 戻ったぞー……って、うげえ! あいつがいるぞ!」
「あ、ストーカーさんです」
「あの人ストーカーなのか!? 大変なんだぞ!」
「おおお! モーナスちゃんそこにいたのか! 会いたかったよ!」
「こっちは会いたくなかったわ!」
モーナは着地後直ぐにスタンプに向かって威嚇し尻尾の毛を逆立てる。
そして、威嚇しながらわたしの側に来て、声をおさえて耳打ちする。
「マナ、何でここにこいつがいるんだ?」
「それはわたしも聞きたい」
「俺の事が気になるのかい!?」
「うげっ! 地獄耳かこいつ!?」
スタンプが満面の笑みを浮かべて両手を広げる。
「この森で精霊を見たと言う情報を得て、君と俺の新婚生活のペットにしようと思って来たんだよ! まさか君と再会できるなんて思わなかったけどね! さあ! とび込んでおいで俺の妻モーナスちゃん!」
「私はおまえの嫁になった覚えはない!」
「はあ。仕方が無い。それなら俺から行ってあげよう」
スタンプはそう告げた瞬間に目の前から消える。
いや、消えたと言うのは間違いで、正確には超高速で駆け出した。
そのスピードは常人では目で捉える事の出来ない速さで、お姉なんかは驚いている。
だけど、加速魔法を使って光速で動けるわたしには動きが見える。
スタンプは一瞬の内にモーナの背後に回り、モーナを抱きしめようと両手を広げた。
「ライトスピード」
わたしが呟き、閃光が走る。
「――っ!?」
わたしは短剣でスタンプに向かって斬撃を放ち、スタンプの腕と胴体を斬り払った。
スタンプは何が起きたのか全く分からない様子で、ただ驚き、そしてわたしが放った斬撃を浴びた反動で後ろに転がった。
そして湖の近くまで転がると、その目の前で勢いを止めて立ち上がって血を吐いた。
「な、何だ今のは?」
「これは警告……じゃなくて脅しかな? 次はそれじゃすまないよ。分かったらどっかに行って?」
スタンプを睨んで言ってやると、スタンプは歯を食いしばって小刻みに震えだし、わたしを物凄い形相で睨んできた。
「人が下手に出ていればつけあがりやがって! 許さんぞ!」
どうやら逃げる気はないらしい。
スタンプはズボンのポケットから何か小瓶の様なものを取り出した。
あの小瓶が何かは分からないけど、とにかく相手をするしかなさそうだ。
あっちがそのつもりなら、こっちもと、わたしが考えたその時だ。
突然湖が光り出して、中からさっきの女の人が現れた。
「なにいいっ! あの女まだ生きてたのか!? 面倒臭い時に来やがったわ!」
「へぅっ。どうしましょう!?」
「分かんないんだぞ!」
お姉とプリュイが焦り、モーナが怒る。
しかしそんな中、わたしは女の人がさっきまでスタンプが持っていた斧を持っている事に気づき、それを見て呆けてしまった。
と言うか、よく見たら女の人の後頭部のあたりから血が噴き出ている。
あれは放っておいて大丈夫なんだろうか?
「な、なんだこの年増は!? 湖の中から出て来たぞ!?」
「あなたが落としたのは、このとても危険な斧ですか?」
そこは金の斧と銀の斧を用意しないんだな、と呑気に思っていると、スタンプが女の人から斧を奪い取った。
「触るな年増! 俺の斧が腐っちまう!」
「そうですか。あなたは正直ものですね。その斧をお返ししましょう」
女の人がニッコリと微笑み、そして、その瞬間に女の人が光り輝く。
その光景に驚き、誰もが注目する中で、女の人は姿を変え……と言うか、見た目がほぼ変わらない身長が少し高くなった男へと姿を変えた。
綺麗な顔立ちのままだったから、正直体格が男に変化しなければ身長が伸びた程度にしか思わなかっただろう。
男の人の姿に変わったその元女の人は、ニッコリとした微笑みを怒りの形相へと変化させる。
「どうしてくれるんだ? おい。貴様のせいで頭から血が出て止まらねえぞ?」
「な、なんだお前は!? そんなの俺は知らん!」
「貴様が斧を湖の中に落としたのだろ? あ゛!?」
落としたきっかけを作ったのはわたしだけど、滅茶苦茶キレてるので黙っておくことにして、わたしはお姉達を連れて2人から離れる。
すると、モーナが回れ右して、ここに来る時に通ってきた森の獣道へと体を向ける。
「あいつ等は放っておいて帰るか」
「そうッスね。関わりたくないッス」
「賛成」
「いやいやいや。長に頼まれた魔物退治……まあ、犯人はあの元女の人で間違いないだろうけど、まだ終わってないんだから駄目でしょ」
「そうですよ。このままだと精霊さん達が困っちゃいます」
「マナママとナミキさんの言う通りなんだぞ。まだ帰っちゃ駄目なんだぞ」
「がお」
「ラテはどうでも良いです。それにもう面倒だから言うですけど、あれは長の嘘です」
「……は?」
ラテから飛び出した突然のカミングアウト。
わたしは勿論の事、お姉もラヴィもモーナもトンペットもプリュイもラーヴも皆がラテールに注目する。
すると、ラテールはのんびりとあくびをして眠たそうに言葉を続ける。
「トンペットとプリュイとラーヴは気付かないです? あの男は神ヘルメースです。どうせ長と一緒にラテ達へのイタズラを企ててイタズラしていただけです」
「へ? 神……ヘルメース…………?」
わたしは驚き、男を再び見た。
男はスタンプと未だに言い争いをしていて、後頭部からは未だに血が噴き出ているし、神々しさなんて微塵も無い。
本当に神様なのかと疑わしい姿と形相。
だけど、トンペット達は疑うなんてしなかった。
再び男を見て驚きの声を上げる。
「あああああっっ! あの顔はそうッスよ! ヘルメースとか言う神様ッス!」
「本当だぞ! ヘルメース様だぞ!」
「がお。ヘルメーチュたま」
「……マジで神様なんだ、あの人。って言うか、モーナとラヴィは知ってる?」
神様と言うくらいだから、本とかに顔が写生されているかもなので一応聞いてみる。
すると、モーナとラヴィは少し考え込んでから答える。
「確かにどっかで見た事ある顔だな。でも神の顔なんて一々覚えてないわ」
「私は知らない」
「そっか。って言うか、モーナ罰当たりだな。一応この世界の神様なんだから少しは敬いなよ」
「そんな事するくらいなら今日の晩御飯を抜きにした方がマシだわ!」
「例えが分かり辛い」
「何言ってるんだ、マナ! 晩御飯は大事なんだぞ!」
「はい! めちゃくちゃ大事です! よっぽど嫌なんですね、モーナちゃん」
「分かる」
何故かお姉とラヴィすらも同意する。
大事じゃないとは言わないけど、今日の晩御飯限定ならそこまで大事でも無い気がするのはわたしだけだろうか?
まあ、それは今は置いておくとしよう。
とにかく、まさかの神ヘルメースの登場に冷や汗を流していると、そのヘルメースとスタンプの間にも決着がついた。
決着の方法は至極簡単で、ヘルメースがスタンプの立つ地面に大きな魔法陣を出現させて、その魔法陣から大量の水を放出して吹っ飛ばすと言うもの。
スタンプは悲鳴を上げながら何処かへ吹っ飛んで消えていってしまった。
「結局なんだったのあいつ?」
「知らん。いなくなってせいせいするわ」
「同意」
「何事もなくて本当に良かったですね~」




