207 あなたが落としたのは
わたしの住んでいた家の近くには、山や森が普通にある。
どちらかと言うと田舎よりで、それでも世間一般でイメージされる程の田舎では無い場所。
そして今、わたしはその自分の家の近くにある森の中を思い出していた。
精霊の長に頼まれてやって来た湖へ向かう森の中の獣道が、小さい頃にお姉とお父さんに連れてかれた森にそっくりだからだ。
ファンタジーと言う感じの場所では無く、日本のような雰囲気のある森。
モーナは虫がどうのと言っていたけど、目立った虫は見当たらない。
捜せばそこ等中にいるのだろうけど、そんなものわざわざ捜さないので気にならない。
そんな感じの普通の森だった。
一つ違う所を上げるなら、やけに寒いと言う所だろうか?
少なくとも息が白くなるくらいには寒い。
こんな事なら上着を何か一枚持ってこれば良かったなと思う。
まあでも、虫がいると聞いていたわりには全然見当たらなくて良かった。
湖も見えてきたし、このままなら何事も無く無事に目的地まで辿り着けそうだ。
「あ、マナママ。その葉っぱは気を付けるです。それは葉っぱに偽装した葉蛾です」
「……へ?」
わたしの背後にいたロポの背中に座るラテールが注意してくれたけどもう遅い。
ここは獣道で道無き道。
もちろん草木は生い茂り、木の枝やら葉っぱやらがわたし達の行く手を邪魔している。
だからわたしも邪魔な木の枝を掴んだり払ったりしている。
そう。
ラテールが注意してくれたのは、邪魔だった木の枝を払おうとした時だった。
わたしは思いきり木の枝に触れて、それと同時に葉っぱ……では無く虫に触れてしまった。
「きゃあああああああああ!!」
わたしの悲鳴が森の中に響き渡り、わたしは恐怖に腰を抜かして尻餅をつく。
だけど、それがいけなかった。
そのわたしが触れてしまったその虫は、何を考えたのか、わたしの顔に向かって飛んで来た。
「いやあああああああああ!」
「アイスボックス」
ラヴィが魔法を唱え、虫が正方形な氷の中に閉じ込められる。
わたしはラヴィのおかげで一命をとりとめて、安堵のため息を吐き出した。
「ありがとう、ラヴィ」
「怪我は?」
「ないよ。ラヴィのおかげ」
「良かった」
それにしても本当に驚いた。
やっぱり油断なんてするものじゃないと、改めて実感する。
ここは敵の巣の中だ。
用心深く進まないと命が幾つあっても足らない。
「やっぱりやめとくか?」
「ううん、大丈夫。やめない」
モーナがわたしに気遣ってくれたけど、わたしは首を横に振って答える。
精霊達の為に助けるって決めたのだから、苦手だからって引き下がってられない。
湖は直ぐそこにあるのだから、油断せずに慎重に進めばいい。
そうして、虫に気を付けながら進んでいき、なんとか湖までやって来た。
そして湖に辿り着くと、わたし達は早速調査を開始した。
時間を決めて、各自でバラバラになって湖周辺を調べていく。
だけど、魔物どころか痕跡すらなく、気になるものは何も無かった。
結局何も分からずじまいで、わたしは皆と合流した。
「何もいませんね?」
「いないッスね」
「いない」
「いないんだぞ」
「モーナー! そっちはどーおー!?」
モーナがまだ湖の向こう側で探していたので、大声で聞いてみると、モーナは「いないぞー」と両手でばってんを作った。
「ラーヴ、魔物が何処にいるか分かる?」
「がお?」
分からないらしい。
ロポは……と、ロポに視線を向けると、ロポは草を食べるのに夢中になっていた。
そしてロポの背中の上で昼寝をするラテール。
ロポとラテールは駄目そうだ。
「湖も何か変わってるって感じもしないし、魔物が別の場所に行ったとか?」
「事件解決ですね」
「流石にそれは無いと思うッス。何処かに隠れてるんじゃないッスか?」
トンペットが空を飛んで周囲を見回し、それを見て、お姉も一緒になって周囲を見回し始めた。
と言うか、2人して森の方へ向かって行く。
「うーん……って、あっ。そう言えば、長さんって湖に住みついたって言ってたよね?」
「言ってた」
「がお」
「アタシも聞いたんだぞ」
「魔物は湖の中にいるのかも」
「きっとそう。見てくる」
「へ? あっ、ラヴィ!」
止める間もなくラヴィが勢いよく湖に跳びこんで、わたしは慌てて湖を覗き込む。
「アタシも行くんだぞ」
そう言ってプリュイがラヴィを追って湖に入ろうとした瞬間だった。
突然湖が光り輝き、湖から何かが飛び出した。
「あなたが落としたのは、どちらの女の子ですか?」
「――っ!?」
飛び出した何かは背の高い綺麗な女性。
パッと見が聖女に見えるその女性は、湖の水面の上、宙に浮いていた。
そしてその女性の目の前には、同じく宙に浮くラヴィが2人……そう、2人いる。
「ラヴィーナちゃんが2人います!」
「何があったんスか!?」
森の方に行っていたお姉が戻って来て顔を青ざめさせて震え、トンペットは驚いてプリュイの肩を掴んで揺らした。
「分かんないんだぞ! ラヴィさんが湖の中に入って、そしたらこんな事になったんだぞ!」
「がお」
ラヴィに何が起きたのかは分からないけど、わたしは一つ分かった……と言うよりは、気が付いた事がある。
「お姉、これって童話の金の斧銀の斧みたいだよね?」
「あ、言われてみればそうですね。でも、ラヴィーナちゃんは金でも銀でも無いです」
金の斧銀の斧と言う童話があり、その内容は河だか池だか泉だかは忘れたけど、そこに斧を落とすと言う話。
それから金の斧と銀の斧を持った女の人が現れて、どっちを落としたかと聞いてくるのだけど、落とした本人が正直にどちらも違うと言って解決した。
正直興味も無いのであまり覚えてないけど、内容はそれでだいたい合ってる筈。
まあ、それは今は置いておくとしよう。
とにかくだ。
つまりは両方ともラヴィでは無い……と言いたい所だけど、ハッキリ言って分からない。
お姉の言う通り金だったり銀だったりしていれば分かっただろうけど、目の前に浮かぶラヴィは2人ともラヴィと同じ見た目だった。
もし2人ではなく1人であれば、疑う事なく本物のラヴィだと思うだろうけど。
と言うか、目の前のラヴィの内1人は、もしかしたら本当に本物なのかもしれない。
「あなたが落としたのは、どちらの女の子ですか?」
女性は再び穏やかな声で聞いてきた。
わたし達の動揺している姿を見ても顔色一つ変えないでいる。
ただ静かに答えを待つだけ。
「とりあえず分からないから両方で良いッスよ」
「いやいやいや。それは流石に不味いでしょ」
「両方ですね? 分かりました。では、両方お渡しします」
「へ?」
トンペットの適当な言葉に女性が答え、2人のラヴィをわたし達の目の前に降ろす。
そして、女性は湖の中に戻って行った。
「どどど、どうしましょう?」
「どうするんだぞ?」
「とりあえず起こすッスよ」
「がお」
お姉とプリュイが顔を真っ青にさせて動揺し慌てて、わたしも同じく動揺して体を硬直させる。
でもそんな中、トンペットとラーヴは冷静に2人のラヴィに近づいた。
「起きるッスよ~」
「がお。起きて」
2人が2人のラヴィの耳元で呼びかけると、2人のラヴィは小さく唸ってから目を覚ました。
そして、ムクリと上体だけ起こして、周囲を見回してわたしと目が合う。
「ラヴィ……」
言葉が見つからず名前だけ呟くと2人のラヴィは立ち上がり、そして、その時に初めて知ったかのように2人のラヴィは驚きながらお互いの目を合わせた。
「「私? ――っ!?」」
ラヴィとラヴィが全く同じ動きで距離を取り、全く同じように向かい合った。
「「誰?」」
声も話す言葉さえも全く同じ。
寸分違わぬ同一人物。
「愛那ちゃん、大変です! 本当にラヴィーナちゃんが2人います!」
「分かってる。って言うかマジでどうなってんのこれ?」
「「偽物っ」」
ラヴィとラヴィは打ち出の小槌を取り出して構え、お互いに向かって走り出した。
そして2人のラヴィが、打ち出の小槌を振るって戦いを始めてしまった。
「どうしましょう!? 愛那ちゃん!」
「どうしましょうって言ったて……って、あ。そうだ。モーナ、モーナは!?」
湖の向こう側まで行っているモーナの姿を目で捜す。
だけど、何処を見てもモーナの姿は見当たらない。
「こんな時に何処行ったのよ」
わたしの予想だと、湖から出て来たあの女性が魔物の正体だ。
それで湖に跳びこんだラヴィに何かをして、この意味の分からない状況を作りだした。
あの女性が湖に入って行った以上、追って湖に入って倒さないと、ラヴィが元に戻らない可能性がある。
だから、魔法を使わなくても水中で俊敏に動けるモーナの協力が必要だった。
わたしやお姉じゃ水中では上手く動けない。
「モーナちゃんを見つけてどうするんですか?」
「湖の中にいるさっきの人をどうにかしてもらおうと思うんだけど……」
「それなら私が行きます!」
「へ? お姉、何言って……」
「南の国ではお披露目できませんでしたが、実は新しい変化を手に入れました」
「新しい変化?」
聞き返すと、お姉が口角を上げてドヤ顔になり、高らかに「いきますよー」と声を上げて変身する。
「動物部分変化! クラブドラゴンバージョンです! ギュギャアアアア!!」
「――っ!」
お姉の肩からは鋏のある腕が生えて、腰からは尻尾が生えた。
その鋏と尻尾には見覚えがある。
あの時、竜宮城で見たクラブドラゴンそのものだ。
「お、お姉、それ…………」
「これがスイカ胸のスキルッスか? 初めて見たけど凄いッスね」
「ナミキさんかっこいいんだぞ!」
「かっこいい、がおー!」
「愛那ちゃん、皆さん、行ってきますね! とお!」
まるで水泳選手がプールに飛び込むようにジャンプして、着水に失敗して体の前部分をほぼ同時に湖の水面にぶつけて入って行くお姉。
水飛沫が噴水のように大きく上がり、プリュイも慌てて湖の中に入って行った。
なんともかっこ悪いお姉の着水にわたしは呆れながら、心配で湖を上から覗き込んだ。
「お姉、大丈夫かな……?」