020 山登りを始めよう
夜が明けて、窓から差し込む陽射しを受けて目を覚ます。
ゆっくりと閉じていた目を開けると、わたしの目に最初に飛び込んで来たのはおへそだった。
それに何かに抱き付かれている様な感覚……正確には、首を太ももで挟まれて、わたしの頭を丸ごと柔らかな肌が覆っている。
苦しい。
首を挟んでいた太ももから逃れて上半身を起こして確認すると、モーナがわたしの顔に抱き付くように眠っていたようで、わたしが離れた途端にそのまま丸くなった。
モーナか……。
大きくあくびをしてから背伸びして、眠っていたベッドから下りて、隣のベッドで眠っているお姉に視線を向ける。
お姉もモーナ同様まだ眠っていて、幸せそうな顔をしていた。
窓から外を覗き見ると、お日様が出ていて良い天気だった。
良かった。
これなら昨日より楽に山を登れそう。
ボーっとそんな事を考えていると、ベーコンを焼く良いにおいがわたしの鼻孔をくすぐった。
においにつられる様にトボトボと歩いてリビングへ向かうと、エプロン姿のラルフさんがキッチンから出迎える。
「おはようだべ。よく眠れただべ?」
「はい。おはようございます。とてもよく眠れました」
礼儀正しく挨拶を返すと、ラルフさんは微笑んで温かいミルクを出してくれた。
わたしはラルフさんにお礼を言ってミルクを受け取り、ソファーの上でミルクを頂く……つもりでいたけど、ソファーに座った後に、向かいのソファーの上でぐったりと寝転がっているメリーさんを発見してしまった。
メリーさんはわたしがソファーに座ると、今にも死にそうな顔でわたしと目を合わせた。
「おはようマナ。昨日は飲みすぎたみたい」
「は、はあ。おはようございます。大丈夫ですか?」
「そうさね……頭が痛いし気持ち悪くて動けないね」
「……大変ですね」
「そうなのよ。でも大丈夫よ。氷雪の花を取りに行く手伝いは出来ないけど、凍豚の皮で袋を作る為に頑張るから」
本当に大丈夫かな?
若干の不安を覚えた所で、リビングの扉がガチャリと開く。
扉を開けて入って来たのはじーじさんで、わたしはじーじさんと挨拶を交わす。
それからじーじさんはコーヒーをラルフさんから受け取って、わたしとじーじさんは一緒に飲み物を頂いた。
じーじさんと話をして、これから向かう場所の確認をする。
これから向かう【氷雪の花】が咲く場所は、アイスマウンテンの中でもかなり危険な所らしく、じーじさんとフォックさんとラクーさんが一緒に来てくれる事になった。
それから、一つ気になる事を聞いた。
「ラヴィの……お母さんですか?」
「ああ。恐らくだが、彼女に会う事になる。会えば君達に危害を加えようとするだろう」
「…………」
「ラヴィーナを連れ戻そうとするだろうが、もしそうなったら君はどうする? 愛那」
ラヴィのお母さん……。
昨日寝る前に聞いた話では、ラヴィの事を大切にしている人とは思えない。
そんな人に、ラヴィを返していいのだろうか?
「もちろん、お断りします!」
「お姉!?」
背後からお姉がキッパリと断言して現れる。
頭に大きな寝癖をつけたマヌケ顔のお姉は、表情だけは真剣で、それがなんだか可笑しかった。
お姉の顔を見てわたしがクスリと笑うと、お姉が首を傾げてわたしを見る。
「おはようございます。どうしました?」
「ううん。何でもないよ。おはよう、お姉」
「瀾姫、君はラヴィを母親に返さないつもりだが、ラヴィがそれを拒んだらどうするんだい?」
じーじさんが真剣な面持ちでお姉に質問すると、お姉は少し上を見上げて考えてから答える。
「その時に考えます」
「はあ?」
お姉がとくに悪びれもせずニコニコと笑いながら言うので、思わず声が出てしまった。
その時に考えるって、流石に酷い答えではないだろうか?
わたしがお姉の出したその答えにジト目を向けて落胆していると、じーじさんがクスクスを笑い出した。
「いいね。実に面白い答えだ」
どうやら、お姉の答えはじーじさんにとって満足のいく答えだった様だ。
わたしは納得いかなかったけれど、それでも他に何か思いつく事も無かったので、口出しが出来なかった。
そんな時、またもや背後から、今度は煩い声が聞こえてきた。
「その時に考える必要は無いわ! ラヴィーナの母親をぶっ飛ばして奪ってやればいい! ラヴィーナの意見なんて知ったこっちゃないわ!」
「モーナ……あんたねえ」
わたしは背後に立つ寝癖をつけたモーナに振り向いて、睨んでやった。
だけどモーナは気にする事なく、ジャンプしてわたしの目の前に立つと、当たり前の様にわたしの膝の上に座る。こっちを向いて……。
「邪魔なんだけど?」
「気にするな!」
「気にするよ」
「いいだろ? 寝起きはマナ成分の補充が必要なんだ!」
「私も愛那成分の補充します~」
「わっ、ちょっとお姉までやめてよ!」
モーナとお姉がわたしに抱き付いて、わたしはじーじさんの視線だけでなく、メリーさんとラルフさんの視線まで感じて恥ずかしくなった。
「いい加減に――って、あれ? ラヴィ?」
気が付くと、いつの間にかラヴィも起きてきていて、わたしに抱き付いていた。
「私も愛那成分補充する」
「あーっもう!」
流石にラヴィまであしらう気にはなれなくて、わたしはこの暑苦しい連中にされるがままになってしまった。
正直暑苦しいと言うか本当に暑いから、さっさと離れてほしい。
「ラヴィーナ、良い人達に出会ったね」
不意にじーじさんが優しくラヴィに微笑んで、ラヴィはじーじさんに顔を向けて頷いた。
「うん」
◇
朝食を終えて、じーじさんからアイスマウンテンを登る上での注意事項を聞いてから、わたし達は登山を再開した。
天気は晴れていて見晴らしの良い景色が広がっていたけれど、それに見惚れていられるのは最初だけだった。
時間にしておよそ一時間も登り続けていると、景色なんて最早どうでも良いとさえ思えてくる。
足の疲労は一歩踏み出すごとに溜まって行き、氷点下だと言うのに汗で肌着や下着がべったりと体に張り付く。
白い息を吐き出しながら、わたしは命綱と言って渡された紐を握り締めた。
始めは元気だったお姉も足がおぼつかなくて、フラフラと歩いていて今にも倒れそ……倒れた。
お姉はわたしの前を歩いていたのだけど、今まさに前のめりに倒れた所だ。
「も、もう限界です~」
顔を地面にくっつけながらお姉が呟くと、わたしの後ろを歩いていた狸の獣人のラクーさんが眉根を下げてお姉に話しかける。
「大丈夫ぽん?」
「へう。大丈夫じゃないです~」
「困ったぽん。休憩をさせてあげたいけど、ここ等辺は白蟻が出るぽん」
「え?」
「シロアリさんですか?」
お姉が聞き返すと、先頭を歩いていたモーナが大声を上げた。
「蟻だー!」
「何処かで聞いた事のあるフレーズです!」
モーナの大声に反応してお姉が顔を上げて声を上げると、それを合図にしたかのように、わたし達は白くて大きな蟻の群れに囲まれてしまった。
その蟻の大きさは異常なまでに大きくて、わたしは恐怖のあまりビクリと体を震わせて硬直する。
お姉は限界とか言っていたにも関わらずに目を輝かせて立ち上がり、ステチリングの光を白い蟻に向けて放った。
「出ました!」
硬直して動けなくなったわたしにお姉がシロアリのデータを見せる。
白蟻
種族 : 蟻
身長 : 150
味 : 激不味
特徴 : 凍結顎
加護 : 氷の加護
能力 : 未修得
身長百五十!?
でかすぎ!
「激マズですか……。残念です」
「お姉、アレも食べようと思ったの?」
「はい。芋虫も食べれたので、いけると思いました」
「…………」
お姉のおかげで恐怖があさっての方向へ行ってしまったわたしは、カリブルヌスの剣を掴もうと手を伸ばす。
だけど、わたしはお姉と一緒に、ラクーさんに米俵を持ち上げる様にして担がれてしまった。
「え? ラクーさん?」
「逃げるぽん!」
ラクーさんがわたしとお姉を担ぎながら走り出し、気がつけばモーナもフォックさんも走っていた。
じーじさんはラヴィを背中に乗せて空高く舞い上がり、上空からわたし達の逃げ道を誘導してくれている。
モーナは襲って来た白蟻を爪で斬り裂きながら突き進んでいた。
そうだ!
モーナの魔法があれば……。
「モーナ! 魔法で皆を空中に……っ!?」
重力の魔法を使って、皆を空中に避難できないか聞こうとしたその時だ。
上空を飛ぶじーじさんと、背中に乗るラヴィを何かが襲う。
トカゲ?
……違う。
嘘!?
「ドラゴンです!」
お姉が叫び、私は目を疑った。
じーじさんとラヴィを襲ったのは、お姉の言った通りドラゴンだったのだ。
その見た目は、漫画やアニメやゲームに出てきそうな見た目の如何にもなドラゴンで、薄い水色模様の鱗のドラゴンだった。
「本当にいるんだ……ドラゴン」
実は、今朝じーじさんから朝食の後に受けた説明で、ドラゴンの話は聞いていた。
アイスマウンテンには、色んな種類の暴獣と呼ばれる獣達が住んでいて、その中でも最も気をつけなければいけないのが凍竜と呼ばれるドラゴンだった。
凍竜は、アイスマウンテンの上空を飛ぶ獣を捕食する恐ろしい生物で、更にはこのアイスマウンテンで一番強くて恐ろしい王者なのだ。
白蟻の事も聞いていたけど、そんなのはドラゴンの話で忘れてしまっていた。
「ラヴィとじーじさんが危ない!」
ラクーさんに担がれながら、バランスの取れない態勢でカリブルヌスの剣を構える。
「動くと危ないぽん!」
「え――きゃっ」
わたしが無理矢理カリブルヌスの剣を構えたせいで、ラクーさんがバランスを崩して、わたしは地面へと落っこちる。
「いたた……ひっ」
上半身を起こして立ち上がろうとしている最中に、わたしは白蟻の群れに囲まれてしまった。
だけど、それも束の間の事だった。
一瞬にしてわたしの目の前に迫る白蟻が斬り裂かれ、わたしの目の前にモーナが立つ。
「マナ! 大丈夫か!?」
「う、うん。ありがとうモーナ」
「お礼はいらないわ! それよりラヴィーナを助けなさい!」
「わかった!」
狙うは上空のドラゴン。
周りの白蟻はモーナがなんとかしてくれる。
わたしはカリブルヌスの剣を握る手に力を込めて、上空を舞うドラゴンに狙いを定める。
今だ!
ドラゴンに向かって薙ぎ払い、斬撃が真空の刃となってドラゴンへ向かって飛んで行く。
「――っ!?」
一瞬だけ、ドラゴンと目がかち合った。
そして、ドラゴンは紙一重でわたしが放った真空の刃を避けて咆哮した。
ドラゴンの咆哮は凄まじく、大気を震わせアイスマウンテンに響きわたり、思わず私は耳を両手でふさいだ。
「ヤバいんだよ!」
フォックさんが耳をふさぎながら叫ぶと、私の目の前に立った。
そしてその瞬間、ドラゴンは大きく息を吸い込み――
「フレイムウォールだよ!」
フォックさんが魔法を唱えて炎の壁を作りだすのと、ドラゴンが息……氷のブレスを吐き出すのは同時だった。
ドラゴンの吐き出した氷のブレスは一瞬にして周囲の温度を下げ、もの凄い勢いで私に向かって放たれ続ける。
フォックさんが炎の壁を魔法で作り出してわたしを護ってくれなければ、わたしは今頃凍っていた。
「愛那! 大丈夫ですか!?」
「うん……。フォックさんが助けてくれた」
「無事で良かったぽん」
お姉とラクーさんが私に近づき、安堵の表情を見せた。
だけど、安堵するにはまだ早い。
状況は未だ芳しくない。
今も尚わたし達は白蟻の群れに囲まれていて、白蟻は何処から来るのかと嫌になるほど際限なく湧き出てくる。
上空には凍竜がいて、ラヴィを背中に乗せたじーじさんが襲われている。
しかも、わたしの斬撃は避けられてしまった。
若干の焦りを感じながら上空を見上げたその時、モーナがわたしの側まで来て得意気に胸を張った。
「凍竜が相手じゃ仕方が無いな。マナ、ちょっと本気出すわ」
「え?」
モーナの目が鋭くなり、眼光を光らせ跳躍する。
その跳躍は凄まじく、地面を蹴り上げた途端に積もっていた雪が勢いよく舞い散って、その場の雪が除雪されたかのように綺麗に無くなった。
モーナは一瞬でドラゴンの目の前まで飛んで、ドラゴンに爪で勢いよく斬りかかる。
「凄……」
モーナの爪は鋭利な刃物の様に切れ味がよく、それはドラゴンの固そうな鱗を難無く斬り裂き血しぶきが上がる。
ドラゴンを一瞬で斬り裂いたモーナのその姿は勇ましく、今までモーナが見せてきた強さの片鱗を思い出させるには十分だった。




