-鬼灯の送り火- 2
月が朧に浮かぶ夜であった。
うだるような昼の暑さが幾分やわらぎ、南からの風が涼やかに吹いている。
夜もふけ、多くの者たちは眠りについており、あの耳鳴りにも似た蝉時雨も、嘘のように静まり返っていた。
「良い月であるなぁ、『虚』」
まるで酔っているかのように『戯』が、つぶやいた。
白銀の長い髪が、月光を受けて青白く輝いている。
頭の上に生えている尖った獣の耳は、問い掛けた応えを待ちわびるように、ピクリと動いた。
「いつもと同じだ。眺めたところで、腹はふくれぬ」
すると、泥のように重々しい声で、隣に座っている小童が返事をした。
前髪が長く、目元が完全に隠れてしまっている。
仏僧が身に着ける袈裟を身にまとっており、左耳には蝉の翅を模した耳飾りが揺れていた。
身の丈には大きすぎる錫杖を肩に立て掛け、もたれるように腕を乗せている。
「『虚』、もしや腹が減っておるのか?」
「ほんの少しな」
「無理に人型を成すと疲れるぞ。いつもの姿でおればいいのに」
「空蝉の姿じゃ、お前と碁が打てないであろうが」
そう言うと、『虚』は隣にある碁盤をチラリと見た。
勝敗は白が優勢で『戯』が勝っている。
更に気だるそうに顔を伏せる『虚』を、『戯』は心配そうにのぞき込んだ。
「すまぬ、『虚』・・・今日は『鬼』を連れて来ておらぬ」
『死鬼喰み』の『鬼』――『死鬼』である『虚』には、空腹という感覚があった。
人の心の一部である『鬼』を、定期的に食わねば、生きていけない。
しかし、その『鬼』を食らうには、『死鬼喰み』である恭一郎が、『鬼』を狩る必要があった。
『鬼』を狩れば、その『鬼』の生みの親である、誰かが死ぬ。
その為、故郷の人々を手に掛けないよう、『戯』が何処からか、見知らぬ『鬼』を連れて来てやっているのだった。
「今から連れてくるか」
「いや・・・恭一郎を叩き起こさねばならぬ。明日、薫とアヤメを連れて帰省して来るのであろう。その時で良い」
「万が一、飢餓状態になってからでは遅い」
「・・・『鬼』を狩らせたら、朝まで寝付けなくなる。せっかく、お前たちが来るのに、酷い顔で会わせたくない」
「ぬぅ・・・」
『戯』は、眉根を寄せて唸った。
そんな『戯』に同調するように、『虚』は唸るような溜息をつく。
「恭一郎の奴、未だに『鬼』を狩ると、猛烈に落ち込んでな・・・立ち直るのに時間が掛かるのだ・・・」
「飯の為に、魚をさばいたとでも思えば良いのに」
「アイツが生臭を食わぬのを知っておるだろ」
「・・・そう言えば、小学生の頃、よく給食の脱脂粉乳やら焼魚を、夢彦に押し付けてたなぁ・・・でも、陸軍にいる間はどうしておったのだ。残せば怒られるであろう」
「無理矢理、飲み込んでた。たまに、耐えきれず吐いてたが」
「それは気の毒であったなぁ・・・恭一郎も、『虚』のように好き嫌いなく食えれば良かったのだが」
「俺だって、『鬼』を好き好んで食っとるワケではない。味など感じぬしな」
「なんだ、美味いのかと思っておったのに」
―― 味気ないね
甲高い声と共に、クスクスと笑い声が聞こえて来た為、『虚』と『戯』は辺りを見回した。
すると、すぐ側の茂みの中から、白くて長い影がするりと伸びて来る。
白蛇であった。
大人の片腕ほどの長さで、すらりと細長く、ウロコの一つ一つが、月の光を受けて妖艶に輝いている。
玉石のような青い瞳が、艶やかにゆらりと揺れた。
「おぉ、『白蓮』!久しぶりだのぅ」
『戯』が獣の耳をピンと立て、屈託のない笑みを向けると、『白蓮』と呼ばれた白蛇は、プイッとそっぽを向いた。
つれない態度に、『戯』は、きょとんとする。
「ご機嫌、斜めであるな・・・」
「お前、何か気にさわる事でもしたんじゃないのか?」
「何を言う。いつも懇意にしておるぞ」
そう言うと、『戯』は腰を上げて、『白蓮』の側まで歩み寄った。
腰をかがめ、なるべく視線を合わす。
「どうしたのだ?」
シャラン・・・
『戯』が小首をかしげて尋ねると、髪飾りの水琴鈴が清らかな音を奏でた。
そして、まるで朧月のような笑顔を、ふんわりと浮かべる。
しかし『白蓮』は何も答えず、その白い姿態が一瞬で消えた。
『戯』はキョロキョロと辺りを見回したが、何処にも姿が見えず、今にも泣きそうになる。
「お〜い、『白蓮』・・・消えないでたもう」
「『遁甲』されるとは、いよいよ嫌われたな『戯』」
『遁甲』とは、その身を他人から隠す『鬼』の技――『鬼術』の一種である。
実際には近くにいても、他の『鬼』や、『鬼』の姿が見える一部の人間から、姿を隠す技であった。
「『白蓮』・・・かまってたもう」
『戯』が悲壮な声を上げ、しょんぼりとうな垂れると、『虚』は腹を抱えて笑い出した。
面白おかしく笑い者にされ、『戯』は顔をしかめる。
「そこまで笑う事も無かろう・・・」
「誰よりも寂しがり屋のお前が、無下にされて心痛にたえない顔を見せると愉快でな」
じゃらり
突如、『虚』の目の前に、長い数珠が現れた。
『虚』が振り向こうとした刹那、たわんでいた数珠が『虚』の首を締め付け、力任せに引き倒す。
『虚』が口元を歪めて見上げると、真っ白な髪の青年が、無表情で『虚』を見下ろしていた。
「『白蓮』っ・・・・貴様」
―― ヒトガタ
『白蓮』は、更にギリギリと数珠を締め付けると、そのまま『虚』を中空へと持ち上げた。
『虚』がうめき声を上げると、『戯』が蒼白となって『白蓮』に駆け寄る。
「やめよ!取り殺す気か!!」
『戯』が『白蓮』に横から掴みかかっても、ギシギシと軋む数珠は緩まない。
『虚』が前髪の隙間から鋭く睨みつけると、『白蓮』は口元を吊り上げた。
―― オソロイ
その言葉と同時に、数珠が更に軋む。
ばちん
数珠の玉同士が、勢い良くぶつかり合う音が鳴り響き、ぐらりと『虚』の首がかしいだ。
すると、棚から小物が転がり落ちるように、『虚』の首が地に落ちる。
首の離れた体も、操り手のなくなった文楽人形のように崩れ落ちた。
それを目の当たりにした『戯』は、血の気の失せた顔で硬直し、『白蓮』も呆然と立ち尽くす。
「お前のような青二才に、やられるかよ」
煮え立つような声で、転がった首が笑った。
『白蓮』が目を見張った瞬間、背後から紅い影が忍び寄る。
身の丈が三、四メートル余りある巨大な空蝉が、大鎌のような腕を振りかざした。
しかし、『白蓮』は身をひるがえすと同時に、霧が晴れるように姿を消す。
鋭い紅い爪は、その残像を通り越して、地を削った。
静寂
いくら待てど、『白蓮』は再び現われなかった。
巨大な空蝉は、重厚な門扉のような軋む音を上げると、陽炎のように揺らめき、次第にその姿を消す。
転がった『虚』の首と体が、数十匹の小さな空蝉となって散っていき、子猫ほどの大きさの空蝉だけが、その場に残った。
「行ってしまったのう」
「まったく・・・あのクソ蛇が!!」
「しかし、肝が冷えた・・・本当にやられたかと思うたではないか」
「あんな小童にやられてたまるか」
「小童の姿をしとるのは、お前の方であろう」
「あの背丈が、一番体力を削らずに済む」
「背丈くらいで、そんなに労力は変わらないと思うが・・・」
「普段、虫の姿でいるとな、デカい人型は重心が取りづらい・・・それに」
「それに?」
「お前を盾に出来ない」
「ヒドい話だのぅ・・・」
含み笑いするように、『虚』は、カタカタと軋むような音を上げた。
つられるように『戯』も、くつくつと笑い出す。
「だがな、『虚』。あまり『白蓮』を悪く思わんで欲しい」
「アホ。先に手を上げてきたのは、向こうであろうが」
「お前を気に入っておるのだ」
「はぁ!?」
「言っていたであろう?『オソロイ』とな」
「意味が分からん」
「『白蓮』はな、気を引きたい相手と『同じ』になりたがるのだ」
「それと首を絞められるのと、どう関係がある」
「単に、お前にも数珠をしてもらいたかったのであろう」
「だったら、そう言えば良いだろうが!!」
「面と向かって言えぬのだ。可愛げがあると思わぬか?」
「可愛げなどあるものか!!殺されかけたわ!」
「心配ない。私も手を持ってかれたが、死にはしなかったぞ」
「お前・・・やはり一度、アヤメに丸椅子で殴られて、昏睡状態になった方が良いな」
「やめてくれ・・・あの時は、本当に殺されるかと戦々恐々としたのだ」
「『白蓮』は、そのアヤメの弟の『鬼』だぞ」
「・・・今日も良い月だなぁ、『虚』」
遠い目で空を見上げる『戯』に、『虚』は溜息をついた。
まるで、その溜息で霞がかってしまったかのように、月は完全に姿を消し、地上は真の闇へと沈んでいったのだった。




